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勝手に首を突っ込んで、烏滸がましく隣国の事に躍起になり過ぎてしまった。
それであんなにも怒らせて、怖い顔をさせて酷い事を言わせてしまった。そして今もはっきりと反芻してしまう程に、激情に駆られて怒りに任せて抱かれた。ぶっきらぼうな彼は何時も本当は優しかったのだと認識させられた初めての夜だった。

隣国に関わり過ぎた自覚はある。
距離も近いのだからもし友好を結べることが出来たなら彼が一度でも危険を冒すことが無くなれば、という一心だったがそれが却って逆鱗に触れてしまった。
そしてもうリンク様にも金輪際会えない約束になってしまった。ただあの怒りようで、側近解任の命令をさせられなかったのは優しさ故なのだろうか。

しかし心中の何処かで、処罰の方法は体罰や追放然りもっと楽で手も汚れないやり方が幾らでもあるというのに、あんな感情のぶつけられ方をされればもしや自分のことが想い人なのかなんて馬鹿な錯誤をしてしまう。いやちがうちがう、そんな訳ない……。
そもそも身分の差も甚だしいし、一時的な捌け口なだけなのだろう。
いつか妃様を娶られればこの関係も終わってしまうのだ、弁えなければと名無しは自分の頬を両手でピシャリと叩いて己を律した。


あれから退室された王さまが何処へ行かれたのかも分からず仕舞いで、結局自室に戻られることも無かった様だった。
名無しは誰にも見られないようそそくさと着衣を整えて誰も合わない道を選び使用人棟まで戻ると急いでシャワーを浴びて布団に潜り込んだ。が、一睡も出来ず朝を迎えてしまい、そして今に至る。


「寝れなかった……」


何故か朝方にやっと眠気が来るも既に起床時間で、眠いまなこを擦りながら重たい身体を引きずり起こす。いつもの様に身だしなみを整えようとしたが大層凝って下さった胸元の装飾が無惨に引きちぎれた服を見て絶望する。そうだった、これで3着目……。
しかしクローゼットに予備を戴いていたことを思い出し、感謝のあまり恐らくアレンの自室があろう方向へそっと手を合わせた。もう足を向けて眠れないななんて思弁しつつ袖を通して部屋を出た。
言いつけを守り、1番に向かうのは神田の自室。

扉の前にまで到着すると、急に昨日のことを鮮明にまざまざと思い出し、ノックする為に握られた自分の拳が気まずさや恐怖で小さく震えているのに気づく。落ち着く為に一度深呼吸してから、コンコンと平静を保ちノックをするも返事が無い。
早起きな彼が寝ているなんて珍しいなと思いながら失礼を承知でそーっとノブを回したが、中はもぬけの殻。
拍子抜けしたのと同時に緊張の糸が解れ、肩の力がふっと抜ける。なんだか少し安心していることにチクリと罪悪感を感じながらも退室して、そっと扉を閉めた。

するといきなり後ろから肩をぽんと叩かれ、飛び上がるほど吃驚して振り返ればそこに立っていたのは、


「わあ!!!ら、ラビさま……おはようございます」

「おはよー名無し、あんま吃驚するからこっちまでビビったさ」

「すみません小心者で……」


ニコニコ莞爾に笑うのは隻眼の貴族様。専ら朝食を摂ってきた後なのだろうか、臣下も連れずにひとりでラフなシャツに身を包んだ彼と廊下で並ぶと神田さまより背が少し高く、本当ならもっと威圧的に感じるというのに壁を感じさせない優しい雰囲気を纏っている。
来訪されてからもう随分長く停泊されていて、すっかり私達臣下にも馴染んできつつあるその人懐っこい笑顔を見ると何時もつられて笑ってしまう。


「あれからユウ怒ってた?それともなんかアツい燃料になったとか?」

「っ!そ、そんなんじゃないですよ!!」


いつものんびり屋の名無しが珍しくムキになって必死に否定しているが、見る見るうちにどんどん真っ赤になる頬がまさに図星ですと言わんばかりの反応で、コイツらふたり真逆でこれはこれで面白いななんてラビはこっそり味をしめた。
そしていつもきっちり結ばれていたメイド服の胸元が今日はだらしなく揺れているのにはたと気付き、ラビは腰を屈んで目線を合わせると自らの鎖骨辺りを指でトントンと叩いた後、名無しの同じ部位を指さした。


「名無し、それ解けてるよ」

「あ、すみません……実は自分で出来なくて」

「まじか!!そんな事あるんか!?」

「ううう!ありえませんよねー!」

「じゃあ何時もどうしてんの?」

「毎朝神田さまに……」

「ええっっ!!!!?そんな事ある!!?」

「可笑しいですよねー!!」


名無しは自分が着れないことが恥ずかしいと俯いて嘆いているが、そこじゃないそこじゃ。
いやまあそれもびっくりだが。 
なによりもユウがそんな面倒そうなことを毎日毎日やってるの!?という驚きのあまり、まさに稲妻が落ちたような衝撃がラビの脳天に落ちた。

あんな何頼んでも一言目には面倒くせえってボヤく万年仏頂面男が、こんな華奢な細っこいリボンを毎朝ひとつずつ穴に通して結い上げているというのか。
態々飾りのカメオを着けてあげてるというのか。

絶対自分の服ならやらずに要らないとか言って引っこ抜いてるだろ。というか現に以前いつの日かアレンが「王族衣装で装飾無しのオーダーなんかどうすりゃいいんですか、いっそ裸でいろ」ってボヤいてたぞ。

名無しは自分の爆弾発言の所為で突然白目を剥き固まって石化したラビへ不安を抱いて、ぺしぺし叩きながら謝るというなんとも奇異な光景が繰り広げられた。

その行為のお陰か否か、はっと意識が戻ったラビが瞠目したまま歪な動きで不気味に名無しの方を見下ろしてわなわなと震えながら続ける。


「じ、じゃあさ、それもし俺が治したらアイツ怒る?」

「はい恐らく……でもラビ様でなく私が叱られますので……」


あの不器用な馬鹿王子に誰か言え!
それはゴリゴリの嫉妬だって!

そしてなにより、先程からずっと見え隠れしているこっちが恥ずかしくなるくらい白い首にやたら目立つ赤い痕が決定的な証拠だった。
本当はリボンを結んで直してやろうかと一瞬思ってもみたのだが、そのチラついた痕を見てやめた。ここは敢えて地雷踏んでユウが暴れる所も見たかったが。
ま、これでユウが牽制してるつもりなら意外と随分狡猾だななんて考えつつもふっと笑いながら王様の仰せのままに、と小さく科白する。

すると名無しはきょとんとした瞳で見上げながら、「何か言いましたか?」と伺うもラビは悪戯にニカッと白い歯をこぼしていーや?と首を振りそれをはぐらかす。そして彼女の背中をポンと叩き、わざと明るい声をかけながらさり気なく進むように歩みを促した。


「お前らの不器用なやり取り本当はもっと見てたいんだけど、俺そろそろ行かなきゃなんねーんさ」

「えっ!なし崩しにずっとここに住むんじゃ無かったんですか!?」

「……名無し、俺の事脛かじりのニートかなんかだと思ってね?」

「いっいえそんな!!」


少し拗ねたように半目でじとっと睨むラビに、思わず本音が出た名無しはハッと口元を手で抑えた。彼と居ると立場を忘れて気持ちが緩んでしまい、つい話し込んでしまう。改めてすみませんと頭を下げたがそんなこと全く気にしていないのか、すぐに彼はあっけらかんと笑い頭の後ろで手を組んだ。


「まっ俺も本業があるんさ。ジジイから連絡あったしそろそろ行かんと」

「記録者のお仕事……ですか?」

「そう、あんま言えんけどこれから事が大きく動く。
だから名無し、ユウを頼むさ」

「わっ私?そう言われましても私はただの側近ですので……」

「違う、これは言い切れるさ。お前はユウにとって……」


急に珍しく真剣な顔をするから改まって固唾を飲んでしかと言葉を待つも、彼は顎に手を当てて少し考えるような素振りをしたがふっと凛とした沈黙を破って、何時ものニカッと眩くあどけない青年の笑顔を浮かべた。彼からどんな真剣な言葉を受け取るのかと構えていた分、肩透かしにあったように名無しは思わず転けそうになる。


「やっぱいーや!俺から言うことじゃねえしな!」

「えっ今更!気になりますよぅ」

「ダイジョーブ!そのうちわかるさ!」


ただの下僕が主様に出来ることなんか身の回りの世話とサンドバッグくらいしか無いと思うのだが、ラビから一体何を任されたのか結局分からず仕舞いで名無しは釈然としないまま過ごすこととなったらしい。彼の職業上、だんまりを決め込んだらとことん口は固いのだから詮索する意味も無いだろう。


「ここの飯うまいからずっと食べたかったんだけどジジイに居過ぎって怒られるしそろそろ行くさ〜」

「そっそうですか……いまから神田さまお探ししますのでせめてお見送りだけでも……」

「いやいい、どうせ呼んだら勝手に行けよ!とか言って怒るだろーし?
だから名無しにお別れのギュッで手を打つさ」

「えっ!!」


冗談なのか分からない真意の見えない笑顔で彼がパッと両手を広げて、名無しが来るのを待ち構えた。細められた翡翠色の瞳は真っ直ぐに名無しを映す。無頓着な神田と違い、自分の整った容姿が武器になると理解している人なのだろう。
例え諧謔だとしても私なんかが断るのも心苦しいから本当はNOと言いたくないが、もし一瞬だけだし大丈夫だろうなんて受け入れるとこういう時に限って後ろに神田さまが立っているのだ。もはや定石。自分の不運さもここまで見せつけられればもう分かる。


「すみません、そういう事したら神田さまに勘づかれて怒られますし……」

「ははは!名無しわかってんじゃん!ほらそういう事だろ、な?」

「そういう事……?」

「俺はふたりを応援してるさ!じゃあな!」


名無しが本気で困って返答する姿がよっぽど可笑しかったのか腹を抱え涙が出るほど笑ってから、爽やかに振り返ることなく手を振り去っていってしまった。名無しはその小さくなってゆく背中をじっと見つめる。
なんとも掴み所の無い方だ。でもいつも俯瞰で物事を見られていて人当たりが良いけど冷静な人なんだろう。だから神田さまを頼むというのも本気で仰っておられるんだろうけど何故わざわざ私なのだろう?

名無しはラビ様がお帰りになられるのならばせめて伝えておかなければとは思うのだが、昨日の今日でなんとなく顔も合わせずらい。
自室におられないということは残るは鍛錬場では無いかと予測し、とりあえず城の構造上必ず通ることになる中庭に向かうことにした。