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名無しのもしかしたらなんて淡い期待もあっさり打ち砕くかのように、誰が行くかよと神田は静かに吐き捨てた。
そして馬車も丁度城に到着したらしく、止まった途端に何もかも置き去りにして無言のまま飛び出してスタスタと行ってしまったものだから、名無しは慌てて置き去りにされた手紙を引っ掴んでその凛乎とした背中を追いかける。


「まっ待ってください!あの、この手紙、本当は私からお願いしたんです!」

「…………だと思った」

「えっ!」

「ちょっとツラ貸せ」

「っヒィ!」


振り返ったその端正な顔がキッと冷酷な視線を寄越すと、その迫力に震える名無しの細い手首を掴んだ。
するとそのまま出迎えの為に待機していた使用人達の声掛けも振り切ってズンズンと廊下を進んでゆくものだから、先輩使用人達が並ぶ中突っ切る視線が痛くって名無しは何度も周りにぺこぺこと頭を下げながら引き摺られていった。

さらさらと揺れる髪を見つめながら、ピリピリと誰も寄せ付けまいと孤高を貫く背中をなされるがままに追いかける。
きっと怒っているのだろう、掴まれた手首は何時もより力がこもっていて痛い。

見慣れた部屋まで辿り着くと、神田は自室の扉を開くや放り投げるようにぶっきらぼうに名無しを入れてすぐに乱雑に閉めて鍵を掛けた。
その勢いのままに尻もちを着き、座り込んだ名無しを見下げる形で何も言わずに立ち塞がるように佇む。
しんとした静寂のなかふたりきり、彼の目線は冷えきっていて思わず息を呑む。


「勝手なことすんじゃねえよ、自分の身も自分で守れねえクセに」

「す、すみません……」

「それにお前、アイツに教えまで乞いやがって」

「それは……私が以前パイも焼けなかったからで」

「どうでもいい」


その言葉が放たれた刹那、あまりに温度の無い声音にぞくりと背中を震わせる。ひやりと冷たい手に腕を捕まれ無理矢理立ち上がらされると、そのまま後ろの壁に強く押し付けられた。
近くで見下ろされれば身長差で距離をより感じる。冷たい視線が突き刺さり不安のあまり頬が熱くなり眼窩に涙が溜まってゆくのが自分でもわかる。
しかし「泣いたら許されると思うな」とトドメを刺されてしまい、ぐっと唾を飲み込んで我慢するも瞬きによりぽろりと1粒溢れ出た涙を神田はつつ、とさも当然のように舐めとった。
その温かい舌がぬるりと頬を這う感触にぞくぞくとする。

高鳴る鼓動が鼓膜を支配してぼんやりする意識の中、飴と鞭を使い分ける神田のペースに完全に飲まれているということだけが分かる。
そのまま伝ってゆくその舌が耳朶へ、そして耳裏を這い、芯まで溶かされてしまう前に彼に溺れまいと片息で名無しは震える声で言葉を紡ぐ。


「神田さま、どうか、リンクさまのお誘いに乗ってください……」

「嫌だ」

「ッ!」


甘いテノールが悪戯に息を吹きかけつつ耳元で囁く。今迄何度も責められそこが弱いのを彼は知っていて、わざとやっているんだろう。

くらくら折れてしまいそうな心を守る為に身を捩り逃げようとするもするりと腰へ回った手がそれを許さない。
辛うじて力を込めて神田の肩を押すも当然離れるわけも無く寧ろ逆撫でしてしまったらしい。
ふっと笑う感覚が頬を撫でて、「へえ抵抗すんのか、生意気だな?」と零すと長い指に顎を掬い上げられれば、餌を前にした野獣の如くギラギラとした双眸と目が合った。

これはまずいやつだ。後悔するも時すでに遅し、スイッチがぱちりと入った彼を止める術は名無しには持ち合わせてなどいない。


「ごめっなさ、……っ」

「帰ってきて何言うのかと思えば、生温いことばっか言いやがって」

「お願いします、どうか」

「しつこい、黙れ」


決死のお願いを紡ぐより先に彼の唇が被さって塞がれる。酸素に喘ぎ彼の胸を押そうにも手首を掴まれて壁に押しやられ、自由を奪われてしまいされるがままにキスが繰り返される。
まるで自分の所有物だということを再確認するかのように。

執拗な口付けに、やっとの思いで呼吸しようと口を開けばするりと舌が侵入しねっとりとせせら笑うように弄ばれてゆく。
神田はわざと音をたてて、ちゅくとやらしい水音を聞かせ名無しに今何をしているか分からせるように羞恥心を煽った。逃げようにも絡んだ舌がそれを許さなくて快楽に甘い刺激を与えられる。

やっと解放されたが名無しには刺激が強過ぎて、立っている力も抜けてしまい膝からかくんと崩れ落ちそうになるも神田の腕の方が早く、引っ張られてそれを防ぐ。
悪戯に笑う彼の唇が少し濡れて光っていて情事を反芻し、名無しは恥ずかしさのあまり目を伏せてしまった。


「オイ何休んでんだ。俺を説得すんじゃねえのか?」

「っ、だって……」


名無しの目線に合わせるように腰を屈めて、試すような声が追い込むように掛けられる。
そしてもっと見せろと言わんばかりに骨ばった手のひらがむんずと名無しのやわらかい両頬を掴み上げた。
意地悪に笑う神田は、その紅潮した顔を見つめ居心地悪そうに小さくなってゆく名無しが次はどんな反応をするのか愉快そうに探る。
神田の整った顔があまりに近くて吐息がかかるくらいの距離に、どんどん身体が熱くなってゆく。

名無しはどきまぎと大袈裟なくらい高鳴る心臓を深呼吸して抑えようと必死に平静を保った。そしてぱっと顔を上げ細められた伏せがちの長い睫毛を見つめると、覚悟を決めた。


「私、なにも交渉する術を持っていなくって、富も権力もなにもありません……。
でも、誰よりもきっと、神田さまのことをお慕いしております」

「…………」

「だっだから、あの、もう戦うこと無く、隣国とは平和にしていただきたいの、です……」


さながら告白めいた自分の言葉があまりに恥ずかしくって、少しずつ声がしりつぼみになってゆく。
最後まで言い切る頃にはあまりに小さくて神田に聞き取れていれるか自分でも不安になるほどだった。

顔を掴まれたままなので俯くことも出来なかったが、目の前にいる神田がどんな表情をしているのか見るのが恐ろしくて視線だけは斜め下へ落ちてゆく。


「……狡い奴」

「へっ?」


意外な言葉が落ちてきて驚きと共にはたと向き合えば、彼は此方に気付かれないようにか顔を背けてそっぽを向いているものだから、不思議で首を傾げる。
それに加えて何時もの仏頂面も崩れてなんとなく頬も紅潮しているような。
もっもしかして、照れてるんでしょうか……?
途端にあんなに怖かったはずなのになんだか愛おしくなってしまい、頬が緩み何か言葉を発しようとすると先回りした腕に強く抱き締められ、固い胸板にぶつかった。
ぎゅむと力を込められ優しい彼の香りにふわりと包まれる。

そんな顔するんだ。
もっとよく見たくて動こうにも「見んな!」と少し叱られてしまい、腕が桎梏となり残念ながらそれ以上よく分からなかったけど、必然的に耳を寄せた彼の拍動はいつもより大きくて速くて。
もういっそ、このまま時が止まればいいのに。
なんて叶わない願いを胸に抱きながら名無しはそっとそのすらりとした彼の背中に手を回し、全てを捧げたい気持ちを込めて抱き締め返した。