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ボロ雑巾を部屋に放置して独りでダイニングルームへ向かうと、近くに立っていた使用人のひとりが名無しが居ないことに気付いたのかそそくさと来てお迎えを寄越さず失礼しましたと声を掛けてきたが、それを制して先に断る。


「アイツには俺から断った、お前は自分の持ち場に帰れ」

「しっ失礼いたしました!」

「あっユウ!こっちさー!!」


剽軽な声とともに騒がしい赤髪がひらひらと此方へ手を振る。隻眼は嬉しそうにニヤニヤしながらあの子は?なんてまた訊いてくるもんだからいねえよ!とキレ気味に返した。
神田はラビの向かいにある椅子へ苛立ちと共に音を立てて座ると、目の前のアンティークテーブルに配膳人が什器を並べてゆく。ラビは先に黄色のスープを啜りながらわざとらしくがっかりと声のトーンを下げて続ける。


「えー名無しちゃん会いたかったのに残念さ」

「うるせえな、下心の為に此処に居んなら祖国に送り付けるぞ馬鹿兎が」

「ごめんって!でもありがとな、泊まらせてくれたおかげでこの城の書庫にある資料大体全部目ぇ通せたわ!」


……見かけなかった間どうやらコイツは本の虫になっていたらしい。うんざりする程たんまりと本が詰まったあの書庫を制覇するとはさすが記録者だ。
ラビは器用にナイフとフォークで肉を切り分けながら翡翠色の目を細めて笑った。


「でもよくあんな集めたな、かなり参考になったさ!」

「俺じゃねえよ、あのコレクションはほぼオヤジのだ」

「やっぱ流石ティエドール元国王!良い趣味してるさあ」



(……そうか?)
思わず食事の手が止まる神田の脳内には、かつてティエドールが運び込んで来た迷惑土産の大きな花瓶やゲテモノやグロテスクな果物などが右から左に流れていった。さっぱり分からねえ。
そして下らないと急いでかき消して、本題である置いてやる交渉時に言われたことを尋ねた。


「んなことより、隣国に本当に行くのか?」

「んあ?こっそり手紙送ったし大丈夫だろ」

「鎖国相手に手紙送れんのかよ」

「顔が割れて潜入出来ん俺が手紙送んのにどんだけ苦労したかわかる!?」

「知らん」

「これだから血の気の多い王様は嫌なんさ!」

「うるせえ」

「あっちなみにユウから送ったことにしてるから!筆跡も真似たし消印もここになるし」

「はぁ!?」


神田の素っ頓狂な声が響く。
なに勝手にやってんだよと胸倉でも掴んでやろうかもしくはいっそ六幻で刻んでやろうかとも思ったがなんせ200年の鎖国だ。背に腹はかえられぬのだろう、それは図らずとも分かる。分かりたくねえけど。
どうやら糞兎はウチの使用人らに用具を取り揃えてもらい変装してあちゃらさんの局員に混ざり賄賂がどうのやらまあ何とかして苦肉の策で届けきったということを身振り手振りで必死に喋ってきた。変装は馬鹿モヤシも共謀して準備してたらしい。
アレンもノリノリだったとか言ってるがまあ大体想像つく。なにやってんだここの奴らは。揃いも揃って馬鹿ばっかなのか?
尤も届いたとして返事が返ってくるのかさえも甚だ疑問ではあるが。


「正直バレたら死ぬから怖かったさー!」

「必死だな」

「なんで他人事なん!?絶対ユウにとっても得策になるって!」

「だったら良いな」

「すげー棒読み!!俺可哀想!名無しちゃーーん!」

「オイ馬鹿勝手に呼ぶんじゃねえよ!!!」

「痛い!!」


思わず赤髪のお花畑な頭に拳を振り落とす。しかし却って逆効果になったのか、再びあのムカつくニヤニヤ顔になりやがったので抜刀することにした。
タンマ!と青い顔で叫ぶ糞兎が今日のメインディッシュになるとはな。脱兎するラビを追い掛けながら皿に乗っかる姿を想像した。……やっぱ不味そうだ食いたくねえ。











賑やかと言えば聞こえが良いがうるさい食事がなんとか終わり、自室に戻るとボロ雑巾が居ない。この俺がコイツなんかの為に適当な嘘ついてまで飯も給仕に作らせたのに、一体どこ行きやがったんだ。
かちゃん、と机の空いたスペースに銀の盆を置きソファに腰掛けようとすると、脱ぎ捨てたままと思っていたジャケットが身動ぎしだして少し驚いた。
小さい身体がすっぽりと覆われていて気づかなかったし、着せたのをすっかり忘れていた。

そっと覗き込めば、無防備に肘置きに頭を預けたまま規則正しく寝息を立ててやがる。袖から覗く小さな手はほんの少し握り込まれていて、丸くなった背中は一定に膨らみ上下していた。安らかな横顔のそのなめらかな頬を叩いて起こしてやろうとも思ったが、あまりにも気持ち良さそうに寝ているので少しだけ憚る。(この俺がな)

その隙だらけの赤い唇を親指でなぞらえた。据え膳食わぬはなんとやら、急に今の状況に都合の良い言葉が頭に浮かぶ。襲ってきた奴の部屋で寝るなんて呑気にも程があるだろ、本当に馬鹿でノロマ。
しかし裏腹に心の底で黒い所有欲がむくむくと膨らんでいるのが自分でもわかる。しかし飯も冷えるし腹も減ってるだろう、仕方なく起こしてやることにした。


「オイ、起きろボロ雑巾」

「……んぅー、」


肩を揺すると生意気にも反抗するかのように小さく唸って顔を背ける。その動きに沿ってさらさらと髪が流れ落ち、そこから目を奪われるような真っ白いうなじが覗いた。

前言撤回、理性の崩れる音が頭の奥で響いた。

片膝をソファに預け寄りかかればスプリングが小さい悲鳴をあげた。髪をそっと指先で梳いて避け、細い首筋に顔を埋め唇を添わせる。唇からつたわる脈打つ感触を確認するように下ろしてゆき、桎梏となった首元の釦を外すとようやく長い睫毛がぱちりと開き振り返りながら丸い双眸がこちらを捉えた。


「あっあれ、神田さま……」

「やっと起きたかポンコツ」

「ご、ごめんなさい私寝ててっ……」


慌てて起き上がろうとするも組み敷かれている状況を理解したのか一気に真っ赤になる頬。やっと理解したのかよ遅い。
昨日の風呂のことが効いてるのかようやく現実味を帯びたのか、何時ならキャンキャン騒ぐというのに大人しく白魚の指先たちが顔を隠してそのままへなへなと力が抜けてゆく。その指の隙間から見える瞳は此方の様子を伺うかのようにおずおずとしている。それが面白くて思わず笑みが零れた。


「なんだ、期待してるのか?」

「えっ!!ち、違いますよぅ!!!」

「へえ?ならいいか」

「っ、」



突然ぱっと寄りかかっていた体勢から身体を起こして離れ、わざと隣のスペースへ腰掛けると名無しはハッとした後、こっちにまで聞こえてきそうなくらいしょんぼりとした表情をした。そしてもぞもぞ起き上がると心做しか少し寂しそうにして握りこんだ両手を膝に乗せてちょこんと座るもんだから、まずい、無意識に込み上げる愛しさをグッとしまい込んだ。いや違う、そんなこと考えちゃいねえはず。内心焦りながらも表情を変えずに無愛想なまま神田はその長い指で机上の盆を指さした。


「メシ食ってねえだろ、さっさと食え」

「え!!こっこの香りは……ごはん!!」


急に水を得た魚のように活き活きとして輝いた瞳がそちらを向いたが、見つからないのかきょろきょろと動き回り忙しなく首を振る。(こういうのも運動神経っているのな、鈍臭い。)
そしてやっと机上の盆を見つけるや否や満面の笑みでやったあ!と小さく飛び上がった。コイツこんなに食い意地張ってたのか。だが此方の顔を見やると小っ恥ずかしそうに俯いた。


「でもこれって神田さまのお夜食ですよね」

「やるって言ってんだよぐずぐずすんな」

「あの神田さまが私なんぞに……?まさかなにか毒や薬とか盛られてるんじゃ……?」

「お望みなら今からでも入れてやろうか?」

「ごっごめんなさい!いただきます!!」


自然な流れで床に置いて正座で食べようとしやがったのでその首根っこをむんずと掴んで椅子へ座らせる。王の席は座れません!なんて此方を振り返ってあわあわとほざいてたが返事もせずに頭を掴んでぐるっと回し再び机に向けると、ぐえっと小さく鳴いた後、観念したのか居心地悪そうにかなり浅く腰掛けてようやく落ち着いた。
そしてまた嬉しそうな表情をして目の前で手をぱんと合わせるとカトラリーを持ち、しかと1口ずつ味わうように咀嚼していた。側近にする前もコイツがよく使用人の奴らと一緒に食べるとか飯の話をしているのを聞いたことがある。随分と美味そうに食べるので周りにいる奴はおろか、料理人が見たらきっと冥利に尽きるだろう。一般階級の出生のわりに意外と丁寧な所作で食べ進めてゆく姿を横目に、机に軽く腰掛けて積まれた本の中からひとつを抜き取って開く。静かな夜の空気が窓から逃げ込み、控え目にカトラリーの鳴く音だけが響いた。

一方の名無しはというと、王の席に着いて読書中の王の隣でのうのうと食事を摂るなんてこの状況。もしおば様に見られたらとんでもないお叱りを受けるのだろうな、と後ろめたさと共に急いで食事を飲み込んだ。誰か来られる前にといそいそと全て食べ終わり、


「すみません、ご馳走様でした。あの、こちらの食器を運んで参ります」

「行かなくていい」

「でも自分の使用したものですので」


ええい強行突破だ!と盆を掴んで深々お辞儀をした後、神田の顔も見ずにすたこら小走りで行くと足の長さの差なのかあっという間に扉へ手をかける頃には追いつかれてしまった。薄く開いた扉は頭上に伸びた手によって後ろから押されて再びバタンと大きな音を立てて閉まる。そうっと見上げれば仏頂面の美しい顔がギロリと厳しい目をしたままこちらを捕らえていた。自ずと扉側に追い込まれる形になっていて、名無しはあはは……と乾いた笑いを上げるもその表情があまりに怖過ぎて蛇に睨まれた蛙の如く固まる。


「何回も言わせんな、そんな格好で彷徨くなって言ったよな?」

「そっそんな格好って……。
はっ!ジャケットお借りしたままでしたすみません!!!」

「それじゃねえよ!」

「ひぃ!!」


盆を一旦近くの本棚へ置き、咄嗟に慌ててジャケットを脱いでコート掛へジャケットを仕舞おうと振り返ると、急に神田の両腕がメイド服の胸元を捕まえたと思いきやビリッと大きな音を立てて弾け飛んだ。既視感と共にまたゆっくりと飛んでゆく釦。そして蝋燭の光だけに頼る薄暗い中に急に現れた真っ白な胸元が何時もより鮮やかに見える。


「わ!まっ!またって怒られますよぅ!!」

「イチイチうるせえな、大体詰めすぎなんだよ」

「アレンが繕ってくれたのに……」

「そんな格好にさせた方が悪い」


強制的に無防備になった名無しの首元へ神田が顔を埋めると、以前付けた赤い痕へ重ねるようにわざと聞こえるようリップ音を立ててその所有印を上書きした。