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気が漫ろな所為か久しぶりにマリからまともなのを食らい片息で地面に膝を着いた。もっと集中しろ!というマリの叱咤が掛かりわかってると呟くとすぐに組手は再開する。

オヤジの世代から受け継いだ色々な資料を毎夜探してみてはいるがなんら解決方法なんて都合の良いものは見つからなかった。
別に国を大きくしたいなんて野望も無い、ただ此処の国民が不自由なく普通に生活し続けられればいい、そう思っていた。しかし他国はそうでも無いらしく、隙を付いてはうちの領土を垂涎しながら奪おうとギラギラしてやがる。だから向こうから来る奴らには全力で鼓舞して戦い守り抜いて、結果的にはここまで急速に国力がついたように思う。まあうちは傍から見ても水源が近く豊富な資源があり、正直に言うと税などを取り締まり整えればまだ発展の余地がある。んなもん最低限しか要らないから放っているだけだが。
しかしまだ絞れるなんつって金に目が眩んだ奴らから此処を守るにはせめて時が来た時に戦えるようにするくらいしか無かった。しかしいまはそんなこと出来ない。ぶっ続けで戦力も覚束無いし、と考えながら不意に平和そうにほやっと笑うボロ雑巾のことをふと思い出した。いや違う、そういう意味じゃない。
対して南国はうちよりも領土は大きいが土地は貧相で荒れていて資源が無く、その分貿易と戦争に注力し経済を回しているらしい。やり取りの際、随分高値で交渉するので他国は喜んで交流しているそうだが、その金出処の汚さと却ってなにか罠のようなものを感じるのでウチでは一切行っていない。
しかし俺達の予想通り目覚ましい発展と共に残酷なやり方でどんどんその付近の領土を掻っ攫っていった。そんで、とうとう此処だ。だがその面拝んで出迎えてやる為に国を上げて待ち侘びていたが急に静かになり、それからなんの音沙汰も無かった。まあ待つのは嫌いなもんで寧ろ此方から出向いてやろうかとも思ったが、オヤジも首を縦に振らねえし何ならいねえし!

苛立ちが拳に乗り力が入るもするりと躱される。
なら、と屈み手を着きながら翻って蹴りを入れると漸くマリへ入りバランスを崩しよろけ倒れた。見下ろす形でこれでおあいこだと零すとマリはそうだな、と肯定し手を差し伸べると少し微笑んだ。

南国は来たら直ぐにでもぶっ潰してやろうと思ってはいるのだが、このめんどくさい交渉の中でずっと懸念しているのは寧ろ鎖国を続ける隣国だ。なんでアイツら自国の周りで紛争が起こってるのに何も言いやがらねえんだ。馬鹿なのか?
うちの下流の水源がある隣国もまあ食うものに困りはしないだろうが随分平和ボケした奴らだろう、何も音沙汰無く今日も呑気に鎖国してやがる。しかも此処より小さい国だからそんなに兵もいないだろう。いや、戦う気すらねえのか。あの糞兎すら入り込めないその完璧な防壁だけは賞賛に値するが、何時までも貝のように押し黙っていて嵐が去るとも思えない。


「今日はこのくらいにしよう、神田。なにか切羽詰まり過ぎてないか?」

「……んなことねえよ」


昔からコイツの勘は厭に鋭い。コイツが盲目なのをすっかり忘れてしまうくらいギクッとすることを稀に容赦なく言われるので返す言葉も無い時がある。もうこれ以上なにか見透かされないように、マリへ手元にあるタオルと水分をパスして、先帰るぞと言い残し鍛錬場を後にした。
軽くシャワーを浴びて汗を流し、ポケットを探り懐中時計を見遣れば針は既に18時を指していた。
そのまま自室へ戻ると、臣下へは触らないように申し付けてた為机上には書類やらで乱雑になったままだ。その中からひとつ書物を拾い上げて開いた。大きな窓から差し込む夕焼けが文字を追うのを嘲笑うかのように悪戯に焼き付け邪魔をする。首から掛けたタオルで髪の水分を適当にガシガシ拭いて、厭に主張する橙を目陰で遮りながら文字をなぞらえていれば小さなノックの音が2回。音で分かる、


「失礼します神田さま、お食事のお時間です」


カチャリとノブが回りそこからちらりと様子を伺いながら入ってきたのはボロ雑巾。……の、はずだった。
何処か不安げにおずおず入室し扉を閉めた途端名無しの全体姿が現れて、思わず瞠目する。

……半日見なかっただけで何をどうやったらこんな服になるんだ。俺にはよくわかんねえが緩くブカブカでさながら着ぐるみのようだったメイド服はいつの間にかタイトな服へと変化していた。
ふんわりとした胸はしっかり強調されていて、その腰の細さは触れなくてもゆるやかな曲線がありありと分かる。スカートは長さこそまだあるが膨らみ持ち上がったケツのラインも心許ない布地が却ってそれを強調させはっきりと見えている。いややっぱなんでそうなった。あんのクソモヤシ野郎……!
しかしこの馬鹿はそんなこと気にもしていないようでこっちの気持ちも露知らず小首を傾げてやがる。


「ラビ様はもう来られてますよ?なんで私が呼びに来たってことですか?それともなんですか、私のことクリアされたってことですか……!」

「なに言ってんだよ、というかその服……」


ホント懲りねえ奴。
昨日の今日でこれかよ、何遍も同じ事言わせやがって。寧ろ誘ってんのか?
その白い陶器の肌こそ未だ隠されてはいるが、彼女の艶麗な身体のシルエットが以前よりも遥かに惜しげも無く晒されている。何時からこうなのかは分からないが、まあ今日の業務に携わった者は見てるということは想像に容易いだろう。主にモヤシだ、というか凡そ原因もアイツだ。あれは後でしばくとして。


「なんで何時も他の奴にそこまで気を許すんだよ馬鹿が」

「えっなにがですか?……あ!」


(まさか朝の痴女事件を知っておられるのですか……!?)
あわあわと色を失って青い顔をする名無しに相反してやっぱコイツ心当たりあんのか?とふつふつと怒りが沸いてきて徐々に握り込む拳に力が入る。朝あれ程苦慮してた自分が阿呆らしくなるほどに。
もういい、色々懊悩するのは辞めた。

不安そうに胸の前に組まれた白魚の手を乱雑に掴むと一気に引き寄せる。ひゃ、と間抜けな声と共に腕の中へ収めるとぎゅうと抱き締めた。柔肌を確かめるようにその力を少し強めれば、その細い髪から甘美な香りがふわりと鼻をくすぐる。


「お前、俺が怖いんだろ?」

「そっそんな。違、」


覚束無く見上げる瞳は身長差から唆っているのかような上目遣いで。小さな顎を掬い上げれば輝く艶やかな双眸が此方を映す。何か紡ごうとして動く赤い唇をさせまいとリップ音と共に先に塞げば、柔らかく熱を帯びた感触とともに意外にもその細っこい両腕が背中へ回された。震える両手が必死に洗いたてのシャツを掴む事に驚いて顔を離せば、赤く染まった頬を上げて艶然と微笑む名無しの姿。
ムカつくが元は明眸、そんなつもり毛頭無かったはずなのにまるで花のような笑顔に思わず見蕩れてしまった。
いつもなら半泣きになってやがるのに。
すると長い睫毛を伏せて視線を落としながら面映ゆそうに神田の胸へ顔を埋めて小さい声で呟く。


「……あの、ごめんなさい、すごく嬉しいです」

「は?」

「わたし、もう二度と会えないのかと」

「んなわけねえだろ。なんでそうなんだよ?」


だって昨日あのそのー、ほらえっと、と何かごにょごにょ口篭りながら察して下さいと言わんばかりにちらちらこっちの様子を伺う姿に思いがけず口角が上がる。どうやらボロ雑巾もそれなりには悩んでいたらしい。だんだんと加虐欲が蠢き、少し屈んでその小さな耳元へちゃんと言えよ、と囁くと音を立ててより林檎の頬を赤く染め上げた。


「もっもう!意地悪!」

「何とでも言え。んでからそんな格好で彷徨くんじゃねえよ馬鹿」


椅子に掛けてあったままのジャケットを適当に掴み上げてその華奢な肩に掛けてやれば、やっとその煽情的なシルエットは身を隠した。
でもこれじゃあ給仕などの業務がどうのなどとまだ懲りずに煩くほざくのでギッと睨みつけながら此処でいろ!何もすんな!と叱ると、何時ものようにヒィと小声で叫び縮こまる。


「ほかの使用人達には話通しといてやるからお前はここで居てろ馬鹿」

「それはただのサボりじゃないですか!ただでさえ神田さまと一緒に居る時間が長い分どこから生卵や塵が飛んでくるやら……」

「何言ってんだよ今更だ諦めろ。というより」

「というより……?」

「意趣返しなら任せろ、何処のどいつか知らんが切り刻んでやるよ」

「怖い!!」


腰に据えた六幻に親指をあてがって鍔を軽く弾いて鳴らすと、名無しが蒼白にしてまだ見ぬ不届き者の末路の恐ろしさにに震え上がった。神田はふっと冷笑したのちに名無しの細っこい身体をひょいと両手で持ち上げそっとベッドへ置く。すとんと敢無く座らされ、その当事者を見上げると柳眉を顰めた彼はその視線を気にも留めずぽんと頭に手を置いた。神田の長い指先が少し乱れた髪へ触れて直してやりながら名無しにだけ聞こえるような小さな声で呟く。


「……どこも行くなよ」

「……」


それはいつもの棘が抜け落ちたかのようにどこか宙ぶらりんな声で。
切なそうに細めて真剣さを孕んだ切れ長の瞳に捉えられれば拒否しようにも何故かそれ以上言えなくて、どうしようもなく愛しさが込み上げてしまいそっと口を噤んだ。