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暁闇に飲まれた屋敷は既に寝静まり、燭台無しだと足元すらおぼつかない程暗くて、なんだか不気味だ。ぺたぺたと響く足音は自分のものだとわかっていても怖いし、何処までも続く廊下は終点が見えなくって何時も夜は怖くて嫌い。(しかも寒い……!)
なんだか眠れなくってこっそり使用人棟から抜け出し、少し園芸の本を拝借しようと書庫へ寝具である薄いワンピースを靡かせて廊下を歩いていた、ら。

(神田さまの寝室……まだ明るい)

ふらふらと微かな光が一筋漏れているところへ向かえば、そこは案の定神田の部屋。少しだけ開かれた扉の隙間からは訝しい表情で書物を捲る神田の姿が見え、一瞬どきっと心臓が跳ね上がった。
……また神田さま夜更かししてらっしゃるんだ。しかも隣国間問題から毎夜ずっと。

何時もならすぐに兵を引き連れて戦いに赴くのだろうけど、今回は南国も絡まって下手に動けなくて、神田さまも相当頭を悩ましているらしい。(これは指揮官のマリさまから伺ったのですが)

あまり無理をなされたら身体にも障ってしまいますのに……。でもそういうわけにもいかないんだよね。
なにか出来ることってあるのかな?っああ!いやいや寧ろ要らないことをしてしまうとかえって仕事を増やすだけでしょうか!?私鈍臭いし!

あーだこーだとぐるぐる旋回する悩みに、神田の部屋の前でおろおろと右往左往していると突然、



「おい」

「ぎえええ!」



ばんっ!と静寂を切り裂くように大きな音を立て扉が開いたと思ったら、其処から神田が不機嫌そうにひょいと顔を覗かせた。燭台の灯火が端麗な顔を一層美しく浮かび上がらせる。



「部屋の前でうろちょろすんな。気が散る」

「や、えっとあのですね、そのー…」

「なんだ、早く言え」



なんだか次第に恥ずかしくなってきてしまい言葉もしどろもどろになってゆく。神田の催促するような視線がざくざくと突き刺さって痛い。あー違うんです、私はただちょっとだけでも力になりたいと……!

暫時真っ赤な顔をして百面相をする名無しをまるで小動物でも見るようにじいっと見下げていた神田は、顎に手をあてて少し考えるような素振りをした後、再び強い眼光で名無しを射抜いた。



「コーヒー」

「へ?」

「だからコーヒー」



煎れて来いということか、と気付くのが遅れてしまったけれど何時ものような舌打ちは返って来なくって、どうやら神田は待っているらしい。感動で胸を膨らませて今すぐ!と敬礼すると(神田さまにちょっと睨まれたけど、)ぱたぱたと小さな足音をたてて廊下を走った。(はっ初めてコーヒー頼まれたよ!何時も私のだけは要らないって言われてたのに!)

ふんふんと鼻歌混じりで厨房の食器棚から小さめのカップと珈琲豆やらを拝借し、銀色の盆に並べる。途中なんともまあ四度も失敗してしまったがやっとこそとっておきが完成して再び部屋に戻ると、神田は眉根を顰めて書類とにらめっこしていた。端麗な横顔をぼんやりと見つめていれば弛むたと言わんばかりにギッと強い視線を寄越される。



「遅い。迷子にでもなってたのかよ」

「ちっ違いますよ!ちょっと」



失敗が重なってしまって、

確かにそう言おうとした刹那、書斎机にカップを置こうとした指先がもつれてしまい逆さまになるカップ、響く私の断末魔、零れるコーヒー、

ばしゃり。



「…………」


「ひぃぃい!だっ大丈夫ですか!?やけっ火傷!ああっ冷やさなきゃ!冷たいもの、氷!こここ氷を!今すぐっ!」

「おい馬鹿、落ち着け」



どうしよう!
倒れたカップは見事に神田さまの元へ。慌てふためく名無しと相反して冷静なままの神田はいきなり躊躇いも無くばさりと上着を脱いだ。そしてしなやかな指がどこか蠱惑にきゅっきゅと黒ネクタイをくつろげひとつずつボタンを外してゆく。えっちょ、待って……!突然のことに驚いて咄嗟に顔を隠すもちらと一瞬見えた神田さまのお身体やっぱり引き締まってて綺麗、……じゃない!なに考えてるんですか私はっ!
ぶんぶんと首を振って余計な煩悶を振り解いていると神田の手のひらが瑠璃の腕を掴んで「おい」と甘美に低く囁いた。



「はっはい……?」

「汚した服、お前が責任とれ」

「そんなっ、私の財政じゃ一生ただ働きしても返せな……」

「今すぐ返せるモンあるだろ」

「へ?」

「風呂行くぞ」

「へっ!?」



それは違いますよね!?

今更ばたばたともがいても掴まれた腕は緩むことなく神田の力にかなうはずなんて当然無くって。そして長い右腕が名無しの華奢な腰辺りを攫うと、有無を言わさずひょいと軽々と名無しの身体を肩に担ぎ持ち上げた。



「かっ神田さま……」

「馬鹿メイド、ちゃんと奉仕しろよ?」

「そんなぁ」