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「あっあの、おばさま……」

「ああもうぐずぐずして!早くおし!」


もたつく名無しに痺れを切らせたようにおばさまがきつく怒鳴った。
廊下に響く怒声に臣下たちも喧騒に気付いたのかざわめき名無したちを大きく避けるようにして流れてゆく。

「ほら何もいえないじゃないか」とおばさまが不敵にせせら笑った。
ずっと迷惑をかけてきたんだからきっとやめさせる機会が生まれてせいせいしてるのだろう。明日にも荷物を纏められているやもしれない。あの時と、同じように。

でも私はやめるわけにはいかないから。お兄ちゃんの為に。……本当、に?

いや違う。

私は自分の意志で此処に居たいんだ。だれかの為だとかそういうのじゃない、私自身が、神田さまの傍で遣えたい。



「無断外泊は容赦しないよ、それが嫌なら出てゆきな!」



おばさまが追い討ちをかけるように復唱する。
身体が強張っていつものように震えに襲われる。も、ぎゅっと肩を抱いてなんとか抑えた。
いまはちゃんと自分の口から言わなきゃいけない。ずっと甘えてばっかじゃだめだ。私がはっきりしなきゃ。



「……いや、です」

「は……?」

「この通り謝りますからどうか置いてください」

「……はん、今更泣き落とすつもりかい?笑わせないでちょうだい。
ほらもう良いだろ、私も忙しいんだよ」



不機嫌に顔を歪めて面倒そうにしっしと手であしらわれた。
待ってください!と少し上擦りながら震える声を出しても、聞こえないふりをしているのか否か引き留めることも出来ないまま虚しくもその背中はどんどんと遠ざかってゆく。

どうにかしておばさまを振り向かせなきゃだめだ。じゃないときっと後悔するから。



「……お願いします」

「アンタもしつこいねぇ。まだ言うのかい」

「どうかどうか、此処で働かせてください。お願いします。この通りです、すみませ……むぐっ!」



呆れるおばさまの目も気にせずに深く頭を下げて謝ろうとした瞬間、

突然後ろから伸びてきた誰かの手のひらによって口元を抑えられ、名無しの言葉は紡がれないままもごもごと籠もった。

抵抗する暇も与えられずにぐんっと強く後ろへ引き寄せられてしまいバランスを崩すも、しかと抱き止められ耳朶に体温を感じる。くらくらとするのも束の間で、「ちょっと黙っとけ」とわざとらしく低い吐息混じりに囁かれた。
腰が砕ける感覚にくらりと意識を奪われるも、その手のひらはするりと離れて名無しの口唇は自由にされる。

うそ……
なんで、ここにいるんですか……

呆然とする名無しと裏腹に、自然と下がるように示唆され名無しはそっと一歩引けば、かつ、と冷たく獰猛な獣が咆哮するかのような威厳のあるブーツの音が廊下に響いた。水を打ったような静寂のなか凛とした声だけが通る。



「なにしてんだよ」

「!」



もう。タイミング良過ぎですよ。
縺れ込んだ不安がほどけたかのように一気に涙が眦に溜まってしまいごしごしと拭えば、そこには凛乎とした神田さまの背中。



「昨日ならコイツは俺と一夜過ごした。なにか文句あるか?」

「!」

「んまっ……!」



(わぁー!なに言ってるんですか!)

ぽんっという効果音でも聞こえてきそうなくらい単純で一気に頬を紅潮させてしまった途端はっと気付けば神田がくるりと此方へ振り返っており、ぱちんと目が合うや否や眉根を顰めたままべえっと悪戯に紅蓮の舌を出した。

神田さまったらぜったいからかうためわざわざ誤解を招くような言葉を選んでますよこれ!
悔しいけれど見惚れるような挙止にむきーっとこっそり心中で唇を噛む。
それと相反しておばさまは神田の口から出た「一夜」という単語に彼の思惑通りあからさまに動揺していた。



「しっしかし王、無聊を慰めるためとはいえこのような少女を弄するのは如何かと……」

「うるせえんだよババア。お前に関係ねェだろ」

「王さま!」

「あ?」

「……なんでもないです」

「ほら行くぞ」

「へっ?……っわぁ!」



名無しがさっきまであんなに必死で引き留めていたというのに何も知らない神田はあっさりとおばさまを放置して(ごめんなさい本当にごめんなさい)、名無しの繊細な手首を一瞬捻り潰してしまいそうなくらいきつく掴むと、何時もより速い歩調ですたすたと歩き出した。
着いてゆけないのでぽてぽてと小走りになれば思わず爪先が神田の踵にぶつかって躓いてしまい咄嗟にすぐさま謝るも、神田は振り向くことすらせずにどんどんと進んでゆく。
名無しはその艶やかな黒髪が揺れるのを不安げに見つめながら気まずい沈黙の中拙いながらになにか台詞を探していた。



「神田、さま?怒ってらっしゃるんですか……?」

「…………」

「えっと、少し手首痛いんですが」

「…………」

「う……あっあの、先程はどうもありがとうございました」

「……俺は、どうでも良い奴を助けてやるようなお人好しじゃない」

「え?どういう、」

「うるせェ黙れ」



やっと口を開いてくれて少し安堵したのも些か、冷たい声でまた会話を遮断されてしまいしゅんと萎む。

どうしようすごい怒ってますよねこれ……。ラビさまのことでまだご機嫌を損ねていらっしゃるのでしょうか?

神田さまがどちらへ向かっているのかもわからないけれど徐々に人気が少ない方へ行ってることだけは確か。気付けば普段は使わない部屋が並ぶ廊下へ差し掛かる。
しばらく名無しは困ったように何度も神田の顔色をちらちらと伺っていれば、ようやくこちらを向いてくれて安心したのも束の間、神田は低い声音で「あのな、」と零すと返事する暇も与えられずにいきなり名無しの手首をぐんっ!と強く引っ張った。そしてその華奢な肩を掴んで手加減もせずに一気に壁へ押し付ける。
激しい衝撃が背中を貫いてちかちかと視界が眩んだ。



「けほっ神田さま、いっ痛い…」

「……なんで俺に話を通さなかった?」

「へ?なにが、ですか」

「勝手なことすんなっつってんだよ!」

「ひ!」



今まで見たことがないくらい怒鳴られて名無しはびくっと身体を震わせる。
しかし問題は思い当たるふしが薪を持ち出してしまったことくらいしか見つからないということ。

神田にも名無しは必死で考えているのだが答えを見つけられないのに気付いたのか、一層眉間に皺を刻んでチッと大きな舌打ちをすると、名無しの胸ぐらを掴み上げてずいと顔を近付けた。
恐怖に涙で潤ませる名無しをなんとも冷酷な瞳でじっとりと見下げる。



「さっき何言われてたのかわかってんのか?」

「…………」

「はあ……どうやら痛くしねェとわからないらしいな」

「え、ちょっ待ってくださ、」



そんな言葉、今の神田に届くはずも無い。締め上げられ苦しくなった胸元からやっと手を放されると、逃げるなと言わんばかりに両手を顔の隣に置かれて、距離が縮めてゆく。
またキスされるのかとぎゅっと瞳を閉じれば意識していた体温は唇をすっと避けていき、親指で髪を耳に掛けられると耳朶にそっとやわらかく重なった。はっと気付いた頃はもう遅くて。

かぷり。
綺麗に並んだ歯が突き立てられる感触。そしてすぐさま熱い傷みがじくじくと蝕む。

「いっ!」と思わず声が漏れてしまい肩が跳ねるも放されることなんて無くて、ぴちゃり、甘美な水音を立て侵入した舌に鼓膜を犯されてゆく。



「や、……神田、さま」

「それだけじゃねェ、」



言葉を紡げばわざとか否か必然的に囁く形になりぞくっと刺激が背骨を駆け抜ける。勝手に身体が引けるも逃げ場所なんてどこにも無くて、そんな名無しを見抜いた神田は悪戯にふっと吐息を掛けた。



「無防備で男に近付いたらどうなるか教えてやる」

「こ、こんなこと私なんかにするのは神田さまだけです……!」

「その注意を払わなきゃいけねー俺にすら太刀打ち出来ねェくせに」



何も言い返せずに俯くと、今度は首筋に甘い痛みが走った。



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