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オヤジがいないということに油断していたのがいけなかったのかもしれない。……どうやら俺の反応はボロ雑巾並に鈍くなっていて、糞兎へ警戒するのを忘れていたらしい。

咄嗟に馴れ馴れしく掴んでやがる手を叩き払って睨むと、おおっ、とラビは剽軽な声を上げ両の手のひらを掲げて二、三歩後ろへ下がった。
っつうかこんのボロ雑巾もなにぼけっとしてやがんだ。殺すぞ。いやしかしその前にこの変態兎をどうにかしてやんねえと気が収まらない。
神田は沈黙を纏ったまま親指で鍔を上げてわざとかちゃりと刀を鳴らすと、大袈裟にラビの肩が跳ね上がった。



「なにしてやがんだよこんの馬鹿兎が……!」

「ちょっと会話しただけさあ」

「身の程をわきまえろよ!」

「かっ神田さまそれなら私の方が……」

「うるせェてめえは庭の草でもむしってろ!」

「はっはいぃ!」

「あっ!じゃあ俺も」

「おい、お前は待て」

「ぐええっ」



そろりそろりと名無しの後ろへ着いてゆこうとするその馬鹿の首根っこを掴んで憚る。
名無しがちらと何度も不安げに窺うもギッと視線を寄越せばあわあわとお辞儀したあとそそくさと小走りで部屋を出て行った。……おい、薪持っていったぞアイツ。

そして名無しが小さくなるのを見届けて右手を緩めてやると、振り返ったラビは意外にもにいっと悪戯っ子のように完爾に口を吊り上げて笑っていた。瞬間プツンと頭の奥でなにかが切れる音がする。言っておくが気は長くないほうだ。これは自他共に理解している、はず。なのになんだこの糞兎。死にたいのか。



「なに笑ってやがる」

「んー?ちょっと、さ」

「殺すぞ」

「わーちょっとユウ物騒さ!」



そのしてやったりのムカつく顔が俺の神経を逆撫でしたので首元に刃を持ってゆけば、ラビは真っ青になり両手をあげて降伏の体制をとった。そんなんなら最初からすんな。



「……さっきボロ雑巾になに余計なこと言った?」

「んー……怒らん?」

「チッ早くしろ」

「うーん」



……聞いてんのか。

勿体ぶっているのか知らねえが首を傾げたままなかなか口を開きやがらないラビを三枚卸しにでもしてやろうかと思ったとき、ようやくにんまりと瞳を細めて、



「やっぱ秘密ー」

「…………」

「わー待った待った!」



六幻をかちゃりと鳴らして振り上げる。ゆったりした朝の食堂にそぐわない馬鹿の断末魔が響く。
もうコイツ言ってることいちいち聞いてやる価値もないだろ。































ああしまった、慌て過ぎて何故か咄嗟に薪を持ってきてしまった……!

ただひたすら中庭へ向かっていた足を止めてふと廊下の真ん中で立ち止まる。握っていた薪は何度見ても確かにしかと手の中にあり無くなることなんかあるはずなくて。
ああまた馬鹿な失敗してしまった……!でも如何せんどうやって返しにゆこうか。
一瞬くるりと踵を返して数歩進めるも、思いたって再びあゆみをやめる。
いや待てよ、あの雰囲気からみて多分今はすごい修羅場なんだろうな……うん、もう少し後にしましょう。時間が経てば神田さまも少しは平静になっているはずでしょうし。

それにしてもご無礼を重ねたのは私で、ラビさまは悪くないのに。それなら私を叱咤したらよろしいのにどうしてラビさまへ掴みかかったんでしょうか。
……っああそっか、遅刻したことに怒ってるのかもしれません!私が前に朝の仕事をすっぽかしたとき処刑の勢いで叱られましたから、きっとそうに違いないですね。あっ、ということはその後怒られるのは私ということですか……!

今すぐにでも逃げたい衝動に駆られるも、はっとして深呼吸ひとつ。どちらにしても今か後かの違いだけでいて、結局神田さまに怒られるんであろう。

ではその前に、



「まだ使用人さんたちがいらっしゃったら説明しに行っても、かまいませんよね?」



そうだ、元は頼まれていたお仕事なのだから、庭の雑用はその後でも構わないだろう。
名無しはにんまり屈託ない笑顔を浮かべてから、きょろきょろと神田が来ないことを一応確認して寝室へ進路変更した。

ぱたぱたと急いで走ってゆけば、曲がった途端にいきなり真っ暗になった。

気付いたらもう既に影は鼻先まで来ていて、反応も鈍い私は避けることなんて到底出来ないままに、思いっきり顔面から激突。

どしゃっ!



「わああ!大丈夫ですか!?」

「あっ、あアレンくん……」



反動で壁際にへたり込んでいた名無しにそっと手を差し伸べて笑うのはアレンくん。どうやらティエドールさまがいらっしゃらないことを確認してきたらしい。
その白い手に甘えて掴むと、意外なくらいぐいっと強く引かれて私は意図も簡単に起こされた。あ、アレンくんって実は結構力強い……?



「すみません名無し!……怪我は?」

「なっ無いよ!ありがとう!」

「あっでもここほつれてる、」



アレンの指先がいたわるようにメイド服を滑る。名無しに教えるかのようにゆっくりとなぞらえて導かれた先は糸がほどけたカフス。
申し訳なさそうな瞳に今更「大丈夫」だとか「元からだよ」とかなにを言っても無駄のように思えて黙っていれば、アレンくんはまるで犬のような笑顔で、



「また新しいの持ってきますね!」

「ごっごめんね」

「いや元は僕が悪いんで気に障らないでください」

「……うん」

「その代わり、」



なにを言われるのか構える私に対してアレンくんは首に引っ掛けていたメジャーを指先で摘んで困ったように微笑んだ。



「また測らせてくださいね。少しだけで良いんで」

「うっうん!お安いご用ですっ!」



お腹の底からむん!と力を入れて言えばアレンは「そんなに力まなくって良いですよ」と零して優しい瞳でぽんぽんと名無しの頭を軽く撫でた。



「そういえば名無し昨日どこ行ってたんですか?」

「えっ!そ、それは……」

「おばさますごい怒ってましたよ、逢わなきゃ良いけど」

「うっ」



……やっぱり。
朝になってからずっともやもやしていたのだが、おばさまは外泊に対しては特に煩いのだ。
昔異性関係の激しい使用人さまも街の男性の元へ外泊してこっぴどく叱られていたのに対面してしまったことがある。そして次の日からその方の姿はどこにも見えなくなってしまった。
おばさまの所為だとか思いたくなくてずっと避けてしまい考えてこなかったけれど、まさかまさか。



「名無しは気を付けてくださいね。では僕さっそく服仕立ててきます」

「あっありがとう!」



アレンくんの背中を見送ってから私もくるっと寝室の方角に見やった瞬間、空気が固まった。

ああ、噂をすればなんとやらとはこのことか。

ゆるゆると思考だけが流れてゆく。



「アンタ!」

「ひぃっ!」



背骨を貫くような怒号が突き刺さり、ずかずかと近付いてきたおばさまは、もはや人でも喰ってしまいそうな鬼のような形相で名無しを睨む。
驚きのあまり悲鳴は飲み込んでしまい名無しは一瞬息が止まった。



「名無し!アンタ昨日何処ほつき歩いていたの!?使用人棟に戻って来なかったじゃないか!」

「あっあのそれは……」



アレンくんが言った通りだ。そしてあの日見たときと全く同じ、空間。



「ああひょっとしてアンタ使用人棟の場所がわからなくなったのかい?」

「…………」

「アンタみたいな鈍臭い小娘の代わりなんていくらでも居るんだよ!ちょっと側近になったからって図に乗らないでおくれ!」

「そんなこと……」

「王の許可が無くとも経理に話を通したらアンタなんて息を吹きかけるより簡単に飛ばせるんだよ」



楽しそうにおばさまが饒舌へ乗せる。

確かに王さまもそんな使用人がひとり居なくなったとてなんの支障もきたさないだろう。ましてや私みたいな鈍臭いメイドなんて尚更の話。

…………でも、

にやにやと厭な笑顔を浮かべるおばさまに身体は強張れども、名無しは腹を括ってキッと強い眼差しで向き合った。