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どさっ!

ごうごうと風を切り裂き一気に落ちてゆく。衝撃を減らすように咄嗟に膝を曲げて名無しを落とさないようにぎゅっと強く抱き寄せ中庭に着地する。やわらかい足場だったのか辺りに砂煙が立ち込めるも、朝ということもあり人気はないらしく、どうやら誰にもバレずに抜け出せたらしい。
見上げれば蒼穹が眩しく、開かれた窓からカーテンがそよいでいる。どうやら中では未だがやがやと賑やかに喧騒が広がっているらしい。神田は内心でざまあみろと毒を吐いて、べえっと舌を出した。
とりあえずぱんぱんと自分の肩や地面に着いてしまったメイド服を払ってやり、立ち上がる。うんともすんとも反応しない名無しもそのままに食堂へと歩きだせば、ようやく意識が戻ったのかあわあわと落ち着きがないながらに訥弁な言葉を紡ぎだした。



「なっな、なんでこんな高いところから飛ぶんですかぁ!」

「オヤジが来たら面倒だからだ」

「そこじゃないですよっ!」



すとんと足元から地面に届くようにしてやると名無しはふるふるとつま先を精一杯伸ばして降り立つ。首に絡まった腕がゆっくりとほどければ、そのときに初めて名無しの瞳と対峙した。
それを見た瞬間神田はぎょっとして驚く。

唇を強く噛んでなにかを我慢するような表情でこちらを見上げるその瞳には、たくさんの涙を溜めているのだ。



「なに泣いてんだよ」

「なっ、泣いてないも……」



今にも零れ落ちてしまいそうなその煌めく玉のような涙をじっと見つめながら拭おうか否か迷っていると、ボロ雑巾はぐしぐしと両手で瞳を擦り拭いさった。

あ……まさか、



「お前ひょっとして俺が手放すとでも思ったのか?」

「えっ!やっぱり放す気だったんです、か?」

「んなわけねーだろ馬鹿」



斜め上をゆく返事に溜め息が漏れるも、名無しは「そうですよね、ありがとうございます」と赤い頬をもっとほわりと色付けた。……感謝される義理はないがもういちいち面倒なので放っておく。



「それでも困りますよぅ」

「なにがだよ」

「自覚してください、神田さま」



頼りなく震えた声で紡いだ続きは俺の予想と全く相反した言葉で。
ふらふらと答えを探すかのように足元を彷徨っていた視線が不意に上がり、長い睫毛に縁取られた瞳がぱちりと絡まる。しゅんと不安げに歪んだ眉。



「もし……怪我、とかしたら、どうするんですか……っ!」

「……は?」



切れ長の瞳を大きくして素っ頓狂な声を出した神田に対して、名無しは困った顔をしてしなやかな白魚の指で神田が地面へ着地した際に頬に付いた土をそっと払う。

……馬鹿なやつ。
んなことで俺が怪我するとでも思ったのかよ。そんなので怪我するようなやわな身体じゃ戦線にもたてないだろうが。しかしそれよりなにより、

その細められた瞳に溜まった涙は、俺への心配だったのか?



「……馬鹿か」

「でもだって」

「早く行くぞ。ぐずぐずしてたら置いてく」

「えーっ!?待ってくださいよぅ」



一丁前に心配なんかするんじゃねーよ。生意気なんだよこんのボロ雑巾め。

しかし思考と相反していつも尖らせていた神経がなんだかふにゃりと緩むような感覚。まるで目の前の馬鹿が移ったみたいだ。
神田は綻んでしまった頬を絶対に悟られぬように顔を背けて手で口元を隠すと、ぷいと踵を返してすたすたと先を歩いてしまった。
名無しはわあ!と叫んで歩みの速い神田の後ろを走って付いてゆく。



「どうしたんですか?いきなり」

「…………」

「わっ私偉そうなことを申してしまったので気に障ったのですか?」

「…………」

「もしや怒ってらっしゃるんですか?」

「怒ってねーよ!」



神田は鬱陶しそうに一瞬だけこちらを振り返ると呑気に今にも花でもふわふわ飛ばしそうな名無しを貫くように睨んでくわっと怒声を浴びせた。そして再び前を向きずんずんと歩む。

背中にはからかったときによくやるあのなんとも悲しそうに捨てられた子猫のような瞳で見つめられているのが見なくてもありありとわかった。

……人の弱みに付け込むような表情しやがって。小癪な奴。
この馬鹿に対して底抜けになってしまったらしい自分の甘さに腹が立つも、ぐるっと名無しのほうへ向きやると、(やっぱりあの潤んだ双眸と対峙したが)細っこい手首をむんずとぶっきらぼうに攫った。刹那、掴んだそこの体温を熱く高騰させてゆくボロ雑巾の情けない声が掛かるも無視する。否、出来なかったのだ。どうやら返事なんてそんな余裕今の俺には無いらしい。



「おっ王さま?」

「お前と歩いてたら日が暮れるんだよ。さっさと歩けばーか」



ぱたぱたとやや大変そうな小走りの靴音をたててが後ろからついて来る。

ああ、なんでこんなことしてんのか。

手なんか繋いだとてとりわけ情欲が満たされるわけでもなく、寧ろ動きづらい分逆に鬱陶しいわけで。だからというわけでもないが今まで一度たりとも女とんなことをしたことがなかった。というより、しようと思ったこともなかった。

しかし少し力加減を誤れば硝子細工のように繊細な音を立てて簡単に砕けてしまいそうなその細い手首は、なぜか戸惑う指までも包んでしまうようにすごくやわらかくて、すごく不思議な気持ちにになる。



「かっ神田さま、」

「あ?んだよ?」



急に名無しがぴたりと立ち止まった。自然とそちらのほうへ振り返る。すると名無しは空いた手を神田の腕に乗せたかと思いきや優しい手つきでそれを解いた。
そして不機嫌に口を引き垂らしたままそれを見つめる神田のその手のひらに触れると、いきなりなんの躊躇もなくぎゅっと指を絡める。



「こっちのほうが歩きやすいですよ」

「………チッ、生意気なやつ」



神田は完爾に微笑む名無しから瞳を逸らして呟く。
本当に、生意気。

しかし何故かその小さな紅葉の手を握って歩いていればすとんと胸のすくような気持ちになり、知らぬ間に緩んでいた頬を元に戻す。
……やっぱりこんのボロ雑巾に馬鹿を移されたに違いない。

「朝露を浴びてきらきらしてますね」なんて抜かして中庭を鮮やかに染める植物をうっとり恍惚とした瞳で見つめる名無しを一瞥すると、ぐん!とわざと悪戯に引っ張って食堂へ向かった。