09


慣れない男物の香水の匂いがだんだんと近付いてゆく。神田は未だ真っ赤なままの名無しを離して振り向くと、うちの使用人の後ろについておめおめとやって来たのは橙色の頭。
馬鹿貴族はこちらに気付くや否や、すぐに「よーっ久しぶりユウ!」と間延びした声を投げかけた。瞬間、神田の怒りの線がぷちっとキレる音が確かに名無しの耳に聞こえた。にもかかわらず隻眼の貴族はにへらっと緩みきった笑顔を浮かべてどす黒い雰囲気をもうもうと横溢させる神田の方へ大きく手を振る。(この人すごい度胸だ……!)



「ちょっと遅くなったー、ごめんな」

「……てめェ、こっちの用も訊かずにいきなり来るとは良い度胸じゃねえか」

「やだ、怒ってんさ?」

「当たり前だ糞兎!」



ごめんって!とへらへらやわらかい光を放つ翡翠の瞳を細めてご立腹の神田の肩をぽんぽん宥める。むしろ逆効果だろうが名無しから見ればあんなにもフレンドリーに神田に触れる人が新鮮で驚いた。まあ最も神田はといえばコイツには何言っても意味ないと半ば諦めモードなだけなのだが。
とりあえず名無しは隻眼の青年の椅子を引いて促せば「あんがとな」とこちらへ愛想良く零して腰をおろし、神田も対岸に座ってその長い睫毛を下げて目を伏せたまま続ける。



「何しに来たんだ」

「いやちょっとな。ってか、今日はもう遅いから泊めてほしいなー、なんて」

「はっ!?図々しいにも程があんだろ馬鹿が!わきまえろよ!」

「俺らの仲じゃん」

「知らねえよ!」



くわっ!とラビが何気なく抜かした親友並みの距離感発言に神田は噛みつく勢いでぷっちんした。もうお茶会というにはあまりに荒んだ殺伐とする雰囲気に、名無しはただおろおろとするばかり。……なんだろう、こう甘美で閑雅だって勝手に空想を膨らましていたからかな、なんか思ってるのと違うような。
未だ(神田の一方的なご機嫌ななめの)つんけんした空気に困り果てて、貴族さまを案内した先輩メイドさんにちらと目をやると(戻っておいで)と目配せされ、安心した名無しは「失礼します」とちょこちょこ下がろうとした瞬間、いきなりがっしと強く腕を掴まれた。びっくりして振り返ると人懐こい笑顔。にへら。思わずこちらもつられて頬が緩む。

刹那、がたんと席を立って間を遮るようにして神田が立ち塞がった。パシッとラビの腕を払い「……触んな」と唸るように不機嫌な低い声を突き刺す。
ラビは一瞬はたと瞳を丸くするも、すぐに何か繋がったかのように「……ふーん?」と意味深な笑顔を浮かべた。それにより神田は眉間にいっそう深く皺を刻む。



「……で、なんだよ?」

「あっそうそう!部屋って空いてんの?」

「えっ!あ、いっ今すぐなら20部屋くらいはあります」

「おい!馬鹿正直に答えてんじゃねーよ阿呆!」

「わあすみません!反射的に」



出てしまった言葉はもう飲み込めない。神田は苦虫を噛み潰したような渋い表情でラビの方をみやると彼は相反してきらきらと瞳を輝かせ、



「じゃあよろしくってことで!」

「阿呆か」

「お願い!あんま迷惑ならねえようにするからさあ」

「お前が居ること自体が迷惑だ」

「酷いさユウ!俺もう今日の長旅ですっげ疲れて動けないー!」

「…………」

「頼むからっ!」

「…………」



しばらくの睨み合いの末、最初に折れたのは神田の方だった。

生気のない、諦めたかのような小さい声で「ボロ雑巾、部屋の準備しろ」と言い付け、名無しは直ぐに部屋の準備を始めるためにぺこりと会釈し下がった。




















誰も居ない空き部屋でまっさらなシーツを伸ばしながらふあ、と大きな欠伸をひとつ。ねむねむと重い瞼を擦った。
ああそういえば私、昨日からずっとお菓子作っててまともに眠ってなかったんだ。

それなのに、あんなに頑張ったのに、王さまったらあんな冷め切った無表情で「食べない」ってなんなんですか!せめてこう、よくやったなだとか楽しみだなとか、優しい言葉があっても良いんじゃないでしょーか!変態鬼畜王子め!
確かに材料の無駄遣いはしたけど、真っ黒なものしか出来てないけど、使用人さんみんなで頑張ったのに……。
考えれば考えるほどぐるぐると縺れてゆき、眦に涙が溜まってゆく。



「……大体、王さまは狡いですよ」



自分の震えた情けない声が妙に部屋に響いた。
つつ、指先を滑らせてゆっくり唇を撫でる。

神田さまに二回も奪われた、唇。


あの美形だもん、王さまはきっとそれはもう星の数くらいの女の子とあーんなことやこーんなことしたりしたことだってあるだろうし、側近の私なんかただの玩具(って言われたし)。
だけど、私は違う。
キスだって全部全部、何もかも初めてで。一時の感情で軽く交わす王さまと正反対にいちいちどきどきして緊張して恥ずかしくって。

遊ばれてるのはわかるのに、こんなに手のひらで踊らされてるのもわかるのに。



「…王さまの馬鹿、すけこまし」



ベッドの淵で寄りかかっていればだんだんと意識が途切れてゆき、うとうとと微睡む。
そうだ、5分だけ休もう。自分がそんな器用なこと出来るわけないのはわかるんだけど、もう動けない。うん、ちょっとだけなら大丈夫。起きれるよきっと。

何度も自分に言い聞かせてゆっくりと重い瞼を降ろした。