金曜日

「おはよう神田くん」

「…………」

「ご飯もう食べましたか?」

「……チッ」

「ひゃお!」



……小さな舌打ちひとつで私のノミの心臓は口から勢い良く飛び出てしまうかと思った。
いやいやこんなことで動揺してちゃあ駄目だぞ私、うん。

昨日あれから神田くんはずっとあの調子で何時もよりピリピリしてすっごい扱いづらい。もう部屋に猫がいるように思うとかそういう次元じゃない、こんな獰猛な猫は居ないぞもう狼だライオンだ百獣の王だ。

ご飯を食べたら元気になるかなと安直な考えに神田くんを誘ってみるも彼は私の声が聞こえなかったかのようにばたんと先に部屋を出た。瞬間、目の前が真っ白になった。


拒絶、されてる


私もまた部屋を出て先を歩く神田くんを追い掛けてゆく。



「神田くん、神田くん、神田ユウくん!」

「…………」



何時もの無言じゃない、完全な敵意による無視だ。

私の呼び掛けに耳を傾けず尚もつかつかとブーツを鳴らし彼は大きな歩幅で廊下を歩いてゆく。
追えども追えども並ぶことは無くて、どんなに頑張っとてどんどん距離は遠く引き伸ばされていくのだ。

どうしよう泣きそう、馬鹿になった涙腺は完全に緩んでしまってずっと遠くで小さくなった神田くんがゆらゆら揺れる。
こんなとこで泣いてたら駄目だ、追い掛けなきゃ。

重くなった竦む足に力を入れて踏ん張り、私は神田くんの元へ駆け出した。



「神田くん私のこと嫌いになったの?」

「…………」



眼窩に溜め込んだ幼い水分が零れて涙となる前に拭い払って私は必死に両手を名一杯伸ばした、



「か、ん、だ、!」

「っどわ!」



やっと追い付いたその寂しい背中に思いっ切り飛び付き、意外に厚い胸元に十本の指を刺す。私はやっと久々に聞けた神田くんの声にやたら安心していた。

お願い今だけは振り払わないで、



「なんだよ、勝手にしろっつってんだろ」

「でもなんで怒ってるの」

「お前こそなにそんな必死なってんだよ」

「神田くんに嫌われるのが怖いからかもしんないです。大切だから」



神田くんが一瞬ぶるり、震えて厭に冷たい手のひらを私の上に重ねた。人肌を孕んでない体温が私に告げる。



「お前なんも分かってねえよ」

「なに、が?」

「…っもう良いだろ、離せ」



神田くんからしたら手加減した力で簡単に私の腕を解きまたそのまま歩き出した。

なんで避けるの、返事くんないの?こんな下らないことで喧嘩なんかしたく無いよ、ねぇ、

悔しくって寂しくって堰を切ったようにぽろぽろと涙が零れた。



「神田くん!あのね、私は好きだから!」

「はっっ!?」

「神田くんは私のこと凄い嫌いかもしんないけど、私は神田くん好き!」



神田くんが急に振り返ったものだから私は自分で呼びながらも吃驚して、慌てて咄嗟に涙でぐちゃぐちゃに汚れた顔を裾で拭って向き合う。





「……名無し、」



久々に呼ばれた名前に心臓が跳ね上がった。
神田くんは端正な顔を真剣に引き締めてつかつかと此方へ歩み寄ってくるので私は、思わず息をのんだ。

なに、なに……!
今のでお怒りになるのは違うよね!?

神田くんは何も言わずに逃げるなと言わんばかりに私の手首をぎゅっ、と掴むと凄い勢いで強引に廊下の壁に押し付けた。それは男の人の力、で。



「……痛った、いよ」

「…………」



神田くんが私の目丈に合わせ少し屈めれば大きな影が私にかかってきて、
私は神田くんの真摯な冷静さになんだか飲み込まれてしまいそうで、
神田くんの体温とか息遣いとか改めて分かる神田くんの格好良さに、
初めて感じるこの雰囲気全部に、
鼓膜は自分の心臓の音以外なにも聞こえなくて、
私は軽い眩暈でくらくらする。

永遠のような時間の中で私は整った薄い唇が次の言葉を紡ぐのをじりじりと待ちゆく。



「お前、何度言ったら分かんだよ」

「どういう、」

「からかうのも大概にしろよ、俺も男だ」

「な、ん…?」

「……ったくこの状況でも分かんねえのかよ、」



神田くんは近過ぎる距離をさらに詰め寄った。
神田くんの影がより濃くなって、私には彼しか見えない。
彼の息が直ぐ近くで掛かって、向き合うように抑えられた頬がだんだん蒸気してゆく。



「か、神田くん!口、口ぶつかりそう……っ!」

「そうしてんだよ」

「わあっ、待って」

「待てない」

「う、あ、神田く、んんっ」

「ちょっと黙れよ」



くらくらして爆発してしまいそうな意識のなか聞こえるのは自分の心臓の音だけで、他は何も考えられない。
神田くんは本気なのかわからないような黒曜石の瞳で私を貫いたまま徐々に距離を埋めてゆく。

わわ、あと少、しで、




「ホームレス神田ー!何処ですかー!?」

「うわああ、あ、アレンくんだっ!!」

「チッ!」



突然アレンくんからの呼び声が廊下中に響き私の緊張の糸がぷつり、切れた。
神田くんは一瞬残念そうにこちらを見てから、私を掴んでいた両腕を壁から離した。
そして遠くでまだ探し回るアレンくんの声が聞こえる方へつかつかと歩いてゆき、遠くでふたりのつんけん声がする。



「君任務入ったそうですよ、早く行け変態」

「煩せェ」

「なんですか僕の有り難い労力を無駄にするんですかバ神田が!」

「あ?てめェちょっと表出ろ」



神田くんとアレンくんはデッドヒートしながら多分任務室の方向へ声を消していった。

その途端に膝の力がかくんと抜け落ちて私は情けなくもその場にへたり込んだ。



「あは、あはは。び、びっくりしたぁー……」



私は正直アレンくんに感謝していた。

さっきとてもじゃないけど私、保たなかった。
ばくばくと凄い速度で血液を巡らす心臓を宥めすかしながら、火照った身体を冷却させようと深呼吸を繰り返す。

どうしよう今私なんか変だ、
でも、
さっきの神田くんの方が、もっと変だ。

私の中の神田くんは中性的な美人で黒猫のような怖いけどどこか優しい人、のはずなのに。
今の、なんか別人みたいだった、



「なに座り込んでんさー?」

「ぎぃや!ら、ラビ!」



私は気付けば頬杖を付いて隣でしゃがみ込んでいたラビに仰天し思わず身体を仰け反り頭を強打した。あれ、なにこれデジャヴ。



「ひょっとしてユウとなんかあったんさ?」

「うあ、違!か、んだくん任務、ででっ、あ、あっちに!」

「……ふーん?」



ユウ。
その単語でまた狼狽する私にラビは不信な隻眼を向けてうっかり腰が抜けてしまっていた私を引き起こした。



「顔、真っ赤だけど?」

「んななななんも無いよ!
じゃ、わ私急ぐからっ」

「おーい、名無しー?」



なんだかラビにこれ以上探られたらいけない気がして私は曖昧に流して自室に逃げ込んだ。
勢い良く扉を閉めた途端ずるずると座り込む。

馬鹿、神田くんの馬鹿!
ややこしいことして放置ですかこのやろ!
神田くんなんかもう知んないんだからね!
そんな変態者、帰って来てもベッドで寝かしてやんないからな!絵の具まみれの汚い床で野宿の刑だからな!

酷く長い息を吐いてごろん、とベッドで横になってみると、妙な広さとか冷たさにぽっかりと穴の空いたような空洞があって虚しくて小さく身体を折り畳んだ。

今はベッドから落ちそうになっても誰も助けてくんないんだ、朝を待っててくんないし、鍛錬にも誘ってくんない、

神田くんが、居ない



「……神田くんの馬鹿。あの怖い般若うっかり逃がしてしまえ」



今何処に居るのかな、誰と任務なのかな、夜はひとりで寝てるのかな。
早く帰って来て欲しい、なんて考えているのはきっと私だけ。

……って、なんかおかしいぞ、私。
そんな恋い焦がれて待ちわびるのってなんだかまるで、





孤独の金曜日!
(何故かすごく寂しくて死にそう、なんて言えない)



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