水曜日

うう痛い痛い!


重い身体を動かす度に逐一何処かの関節がぎぃと不快な音を立てて鈍痛を上げる。どうやら昨日の鍛錬がかなり私にはきつかったようです。というか動かなくても痛いし、転がっても痛い。
居心地の悪さに安眠を求めるように私は痛みと眠気に挟まれたままごろりと寝返りを打った。
すると投げ出された先からふわりと一瞬重量から解放されたように身体が軽くなった。どうやらその先にはもうベッドは無かったらしい、落ちる!



「っあぶね、」

「……っわ!」



身体を縮め込んで痛みを受け入れる準備をするも何かにがっしと私の腰を掴まれ落ちることは無かった。ゆっくりと固く閉じた瞼を解いて振り返ると当事者は顰めっ面の神田くん。
腰辺りに回った、神田くんの細い割に筋肉質な腕が私を引き上げた。



「危なっかしいんだよ、お前」

「あっ、ありがとう」



はあ、とうなじ辺りに溜め息がかかり私はこれが神田くんのものと急にはっきり認識してしまい途端に意識が遠くなって心臓が爆発しそうになってしまった。
神田くんはそのまま何も言わずふっと腕を離して何時ものしれっとした卑下したような瞳で私を一瞥してから(酷い!)身体を起こすと慣れた手つきで高くに髪を結い始める。

……それにしてもさっきからこの異常な心拍数で跳ね上った心臓は一体何だ!
きっときっと、疲れで今日はどうも調子が可笑しいだけだよね。そうただそれだけ。



「ほら、飯行くぞ」

「はーい」



ぼやっとして捕らわれたままの意識をぶんぶんと振り払い、面倒そうに明後日を向く神田くんの後ろを追い掛けた。



がちゃん、と扉を開き施錠していると背後で待つ神田くんとは到底思えないような聞き覚えある明るい男性の声が此方に投げやられる。
朝早くからこの鬱陶しさは、



「おはようラビ」

「名無しお前今ちょっと鬱陶しいとか思ったろ!俺傷付いた!」

「いやそんな別に」

「煩せえよお前ら」



神田くんはそれだけ一言吐いて先にすたすたと食堂へ向かってしまった。なんだよやっぱり置いてきぼりかい、と内心毒を吐く。
すると隣のラビは自らの思惑通りになったのかにいと口角を上げた。朝の気怠さには不向きなテンションが面倒臭い。



「なあ、訊いて良い?」

「面倒なんで早くして下さい」



ラビはちらちらと神田くんの様子を伺いながら、



「お前らこの頃ずっと一緒だけど、付き合いだしたの?」

「はぁっ!?」

「っ、なんだよ?」



あまりに予測不能なことを馬鹿ラビが言うものだから思わずやたら大きな素っ頓狂な声が出ちゃって自分でも吃驚した!自分の予測以上におっきい声に、少し遠くを歩く神田くんまでも驚愕して振り返る。
ラビは未だ動揺する私の唇先にしぃー、と人差し指を当てて、怪訝な表情の神田くんに「何でも無いさー」と平静を装って嘯いた。神田くんは尚も少し腑に落ちないような顔をするも諦めたのかまた背中を向け、ラビははあ、と大きな安堵の溜め息を漏らす。
そして今度はバレまいと声のトーンを落とした。



「ちょ、声大きいって!ユウにバレたら俺死んじゃう!」

「だってラビが変なこと言うから!」

「俺だけじゃないって、大体昨日から凄い噂になってるさ。ユウが名無しの部屋に入っていくのを見た、とか」

「いやあれは違って!」

「いや、まーそれは知ってっけど、」

「だけど何?」



ラビは一瞬言い憚って、うーんと唸った。



「……やっぱ良いや、馬鹿名無しに訊いた俺が馬鹿だった!」

「酷いですよ!」

「ユウご愁傷様だな、本当」



なんでですか!

口を開こうとすればラビがくるっと前を向いた。つられて顔を上げるとどうやらもう食堂に着いてしまったらしい。
私は広い食堂ではぐれた神田くんを目で探していれば、これから食事をとるとは思えないくらい不機嫌に眉間に皺を寄せているお方を発見してしまった。
っあー、絶対あれ神田くんだよ。めっちゃ怒ってるよ、すっごいご機嫌斜めだよ。
すると神田くんは私の視線を感じたのか、ギッ!と見詰めるというにはあまりに厳しい目を返された。

うっわ、神田くん完全に御乱心ですよ、怖い!
ラビにこっそり視線で助け舟を求めれば彼まで硬直していた。なんで!



「さっきから何こそこそしてんだよお前ら?」

「いえ別に、つまらない閑談してただけですよあはは」

「おい糞兎、本当か?」

「ほほ、本当さー」



ラビは取り繕うように笑顔を貼り付けてまさに見事な脱兎をみせた。まあそれが一番秀逸な策なのだがちょっとは私のことも考えてほしい。なんで妙な噂とお怒りの神田くんを置いていくの。

私はあまりお腹が空かないままジェリーさんに適当にサンドイッチを頼んだ。
そしておおよそ何時もの蕎麦を頼んだであろう偏食家の隣に居心地悪くもそっと並ぶ。

こうやってみたらなんだか食堂で自分の時間を過ごしている人みんながまた私たちを誤解してるんじゃないかと思ってしまう。
私はなんだか知らず知らずの間に更なる奇禍に遭遇している神田くんに申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。



「なに話してたんだ?」

「いや、あの、なんというか、」

「チッ、早くしろ」

「私と神田くんが付き合ってるといういかがわしい噂が流れているという報告を受けました!」

「…………」



うわー、言っちゃったよまだまだあと5日近くあるのに気まずいぞこれ!

この沈黙に耐えられない私は靴先に付着した泥から視線を逸らせなかった。もし顔上げて神田くんが般若を放し飼いしておられたら!



「……なんだ、そうか」

「えええ!それだけ?」



私は仰天して思わず神田くんを二度見してしまった。彼はとりわけ噂を不快に思わないのか「言わせとけ」とだけ零して届いた蕎麦をテーブルに運んでいった。

あれ、神田くんってそういうことはわりとどうでも良い性格なんでしょうか?

あっけらかんとした彼の態度に内心かなり度肝を抜かれるも美味しそうなサンドイッチに心が一気に傾き、早く食べようと神田くんの隣の席に着いた。

ああ美味しそう、さっきまで無かった食欲がふつふつと胃から湧き上がる。ジェリーさん、恐るべし。

かぶりつこうと大口を開いた瞬間、



「す、すみません、名無しさん……っすよね?」

「へあ?」



神田くんとは逆隣の左手の方から声が掛けられた。
まだ幼さを残した私より一つ二つくらい年下の、小麦色に染まったファインダーの青年。
見覚え無いな、私この人と組んだこととかあったかな?
彼は私の不信な瞳に気付いたのかにいと真っ白な歯をみせて笑った。



「あ、はじめまして俺ソーイって言います!
呼び捨てで良いんで、俺も名無しって呼んで良いっすかー?」

「ど、どうぞ」

「やった、名無しよろしくー!
あの早速なんすけど良いすか?」

「あ、はぁー」

「…………」



私は唇や瞼に痛々しい小さな銀の装飾を幾つもつけた青年の馴れ馴れしい笑顔や雰囲気に気圧されてしまっていた。
神田くんは何も言わず淡々と食事を続けている。そりゃ助けてくれるとは思ってないけども!
青年は私の冷や汗に気づくことすらなく饒舌を続ける、



「つかあのぉ、神田さんとの子妊娠してるって本当っすか?」

「ぐふっ!げっほ、」

「ええ!!」



噂の信憑性の薄さとソーイくんとやらの脳の軽さに驚愕した!
いやそんなわけ無いだろ、と内心突っ込むもそれまで無反応だった神田くんは相当動揺したのか蕎麦を詰まらせたようで大きく咳き込んだ。咄嗟に神田くんの背中をさすっていると、ソーイくんはきょとんとした顔で私と神田くんを交互に見詰めた。こやつは……!



「あ、違ったんすか?っあー、良かった!」

「げっほ、こ、こいつゼッテェ殺す!」

「神田くん落ち着いてください!」



神田くんがぴしりと青筋を立てて六幻に手を掛けるのを必死でなんとか死守する。
やめてーご飯くらいゆっくり食べさせておくれ、頼むから!

ソーイくんはその噂が余程気になっていたのか酷くすっきりしたような顔をし、黒く日焼けした手を伸ばして私の手を包むようにしてとった。



「じゃあ今度俺描いてくださいよ!俺名無しの絵見たかったんすよ!」

「はあ……」

「おい、」



返答に困っていれば突然がたんと静かに神田くんが立ち上がった。
ただならぬ雰囲気に私はぴしりと硬直するもソーイくんは敢えて空気を読まないんじゃないかと思うくらいへらへらしたまま神田くんのほうに向きやった。なんと命知らずな、



「気安く触ってんじゃねえよ」

「でも噂嘘っすよね?じゃあ別に、」

「いいから離せよ」

「ぎゃっ!」



神田くんはいきなり私の二の腕を持ち上げて自分の方に引っ張った。そして必然的に私の手を離したソーイくんを今まで見たことないような冷酷な瞳で睨み付け、そのまま私を引きずって席を立った。

「名無し!」とソーイくんの焦燥感の混ざった声が掛かるも神田くんは前を見据えたまま「放っとけ」と言い放ち、私は仕方ないので軽く謝罪のお辞儀をひとつだけして御乱心の神田くんのなすがままに委ねた。

あー、やっぱり神田くん機嫌悪かったんだ。まあ辛うじて死人が出なかったのは良かったのだがただひとつ私に未練があれば、一口もサンドイッチを食べていないということ。




疑念の水曜日!
(神田くんが何時怒るのか分からない…)




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