ここのところ、とある新興宗教(以下、Kとする)がこの近所で家への訪問をさかんに行っているらしい。
私も詳しいことは良く知らずお恥ずかしいのだが、何でも我が国で最も有名な新興宗教Sのライバルというか自称救済組織というか、早い話が敵対勢力らしい。
(アンチキリストならぬアンチSみたいな感じですか?とか冗談でも聞けない雰囲気が漂っている)
SとKは仏教系であり、釈尊のみならず同じ聖人(しょうにん。せいじんに非ず)を崇めているが、色々あって袂を分かっている状況。

さて、私はというとカトリックである。
とはいえ生まれながらのキリスト教徒ではない。
成人してから教会に通い、だいたい一年ほど神父様から聖書や教義の教えを施して頂いた後、洗礼を受けた。
では、それまではどうだったか。
家がSを熱心に信仰していたので、Sの価値観に基づいた教育の中で育った。
人はどうやら何かを深く強く信じると、その他のものを排斥する傾向にあるらしい。
だから私は「キリスト教やイスラム教は悪、Sだけが正しい」「Sを信じれば必ず幸せになれる」と言い聞かせられてきた。
が、恐らく幸いなことに私には疑念という感覚がきちんと備わっていた様だ。

本当にSだけが正しく幸福に導いてくれるのなら、何故、他の宗教を貶める必要があるのだろう。
それが事実なのならば、どうして、母をはじめSの人たちはああも怒っているかの様に話してばかりいるのだろう。
幸せそうには見える。
でも、この違和感は何だろう。
この人たちは、迷わないのだろうか。
単に表に出さないだけで、時々、ふっと自分のしていることに疑問を持つことも、あるのだろうか。
だとしたら、それをこそ分かつべきなのではないか。
宗教は信仰、つまり信じることだけを共有する為にあるのだろうか。
多分、違う。それは宗教組織だ。
行いや思想としての宗教は、信じたり、疑ったり、時には忘れたり、生涯、揺れ続けるものではないだろうか。

などと考えた結果、私は、常に絶対の確信に満ちていなければ決して許されない(と、少なくとも私は感じた)Sとは合わないと判断した。
Sが釈尊やくだんの聖人よりも会長D氏をますます神の様に崇拝し、機関誌がD氏と対立する者への罵倒であふれかえってきたことも大きく影響した。
成人するまで改宗を待ったのは、一応、まだ親の庇護下にある状況を考慮しての事。つまり、勘当に備えたのである。
結果としては散々に争った末に許可を得たが、そもそもそれを必要としなくてはならない状況がおかしいと言わざるを得ない。
宗教の自由というものを、私はそれまで一度も持ったことがなく、決死の覚悟で勝ち取らなければならなかった。

その後、カトリックはカトリックで、やはり何もかもが善でないことは予想通り、いや、それ以上だった。
大抵の宗教は、恐らく、組織化された瞬間に何らかの歪みを伴うことになるのだと推測する。
今や私はミサにもほとんど参列しないし、形式的な祈りを唱えることもめっきり減った。
が、たとえば苦しい時の神頼みといった時には都合よくカトリックに戻ってちょっと縋る。大体において、効果はない。
反面、友人でも知人でも他人でも良いことがあったらどんな形でもその人におめでとうと語りかける。別に神の加護がどうのこうのと働いて誰かが笑顔でいるわけではない、という意識があるからだ。
つまり、私はカトリックの洗礼を受けた今でも懐疑的な立場を保っている。
そこから逸脱することはきっと不可能なのだ。
だから、組織にもなじめない。そこは反省すべき点だという自覚もある。
けれど、疑わずに信じることは、やはり私にはできないのだ。どうしても。

で、冒頭の新興宗教Kの話にようやく戻る。
私は幼少期から約15年ほどはSの英才教育を受けたおかげで、Kの言い分も大体は把握できる(状況は良く分かっていなかったが、事情を聞く際に他の人よりは察するのが早かったのではないか)。
よって、私からすれば、KもSと大差ない。というのが率直な感想。
同族嫌悪なんだろうなあ、とぼんやり考えるが、本人たちにとっては真剣な命題があるのだろう。
ただ、否定はしない。私には共感できないし、合わないのは確かだが、宗教なんて所詮は理屈じゃない。そういったものを否定すること自体に意味がない。
しかし、あなたと私は違う、違うけどきっと根は同じなのだろうから、それぞれの場で最善と思うことをすれば良い、と、それだけは明確に告げる。かつて母に向かって一心に訴えた様に。
おおむね、それで退いてもらえるのだが、今回はちょっと違った。
二人の男性信者のうち、一人は元々Sに属していたらしい。
つまり、境遇は私と少し似ていた。
ただ、彼は「Kこそ本物」と信じてやまず、Sに何十年も巧妙に騙されていたのだと悔しげに語った。
次いで、もう一人の信者さんが、話し始めた。
それはもう、すごかった。
仏教用語を十秒に一度は織りまぜながらほとんど息つぎせず、いかに自分たちの宗教が真理であり全人類が通るに相応しい道であるかを約三分に渡り理路整然と説いた。
その時点で、かなり辟易していた。ほとんど仏教用語の羅列とは。多くの人に伝える気持ちがあったら、難解な用語は控えるものだろう。
勢いだけで相手を圧倒しようとするやり口が、私の気にたいへん障った。
(この感情はスマホとかプロバイダ料金のプランについて説明を受けている時にもちらっと胸をよぎる)
宗教用語は使い果たしたのか、今度は平易な言葉だけで、しかし相変わらず一息に彼は言う。

我々の宗教はすぐに幸福をもたらす。それも、毎日、絶える事なく。心の幸福だけではなく、生活も豊かになる。だから笑顔になれる。人に優しくなれる。今、世界がこんな風に荒れているのは人が幸福じゃないからだ。あるいは、間違った幸福を幸福と思い込んでいるからだ。我々の所に来れば正しいことが分かる。その場で幸福になれるのだから、すぐに分かる。真実は一つだ。それは我々の宗教だ。他にはない。真実でないものにしがみついていたら、不幸になって当たり前だ。だから戦争はなくならないし、人は憎み合い、税金は上がり続ける。これではいつまで経っても世界は一つにならない。一つの真実のもとに、世界は一つになり、皆が同じ様に幸福になるべきです。幸福になったら分かる。それまでの自分の醜さや他人の惨めさが。我々はそうした人々を救う為に呼びかけているんです。あなたはとりあえず我々の所に来て試してみれば良い。すぐに幸福になって、すべてが分かりますから。もし幸福になれないと思ったらやめれば済む話です。でも、そうはならないと断言しますよ。絶対にすぐに幸福になれるんですから。

苛立ちを抑えて、私は答える。

すぐに幸福になれる宗教を私は信じない。誰だって自分の信仰が幸福をもたらすと主張するだろう、それは当たり前のことだ。しかし、そう謳う宗教が多くの被害者を生み出して来たのは、もはや歴史的事実だ。ここ三十年でも例はいくらでもある。真実は一つしかないと頑なに疑念を拒んで一つの宗教に固執するのはまっぴらだ。だからといって試食でもする様にあちこちの宗教をつまみ食いするなんてどうかしている。生活において苦しんだり悩んだりしている間、私達は不幸か?世界が一つになるまで、私達はずっと不幸なのか?あなた方は自分の、今の幸福の話しかしない。幸福であることは結構なことだ。だが、あなた方の宗教に入らなければ得られない幸福とは何ですか。あなたの言う世界とは何ですか。あなた方だけの世界の話なら即効性のある幸福というのも分かる気はします。であれば、私には合いません。そういった宗教を私は信じません。私はカトリックなのに神すら疑うくらいですから。私は先ほど、一つの宗教に固執するのは嫌だと言いましたね。でも神の存在を疑っても否定しても結局は神に戻る。固執ではないのです。では何なのか。分かりません。分かる時は死ぬ時かもしれない。それで良い。長短あれ一生かかることでしょう。何故、宗教でそんなにあっさり幸福になれると思えるんですか?私の神は、安易な幸福を約束しないし、与えてくれません。それでも私は私の神が良いし、私の神も私で良いと思ってくれているのでしょう。

その時、彼は言ったのだ。
「神は人間が作ったものですから」

あの単純な一言に、どうやら私はけっこう傷ついているらしい。
何故だろう。それこそ色々な人に言われてきたことだし、私に対してでなくても、本当によく聞く言葉だ。
ただ、あの男性のことが気にくわないから。それだけのことかもしれない。
そうやってやり過ごそうとすると、何かが心の奥で叫ぶ。
それはたぶん、こうお願いしようとしている。
私に私のことをを教えようとしないで。
あなたの決めたものを与えながら、私の大切なものを持って行かないで。
何も知らないくせに、土足で踏みいって、汚さないで。

この宗教に入ればすぐ幸せになれるとか、神は人間が作ったとか、常識から逸れた概念と、ままある日常的な発言がまざりあって、そしてそのどちらも強固な確信に支えられていて、私にとっては妙になじみ深い凶器だ。
未だにそれに怯えている事実そのものにも、そこそこ刺されたのだろう。
あんなに沢山の用語を駆使しても、それは信仰でもなければ宗教ですらない様に思う。
あれはあの人たちがどこかで与えられて、保つことを許された、ただの個人的な確信なのだ。
でも本人は愚か、大抵の日本人はそれを宗教と見做す。
本当は雲泥の差があるのに、分かりやすい事件でも起こらない限り、非常に認識されにくい。
それは、たとえばカトリックの内部でさえ起こる。
きっと、世界中のあらゆる宗教の中で起こり得る。
真の信仰などという難題の話ではない。
信仰の仮面を被った、疑念を決して持たぬ確信が、そのまま混乱した刃になって誰彼となく貫きながら闊歩して行く。
あるいは、家で待ち構えている。
そういった凶器に、再会した。
宗教や信仰の名を借りつつ何らかの不足を満たす為に、他者の血肉を供物として要求する人たち。
そうまでして彼らが群がる幸福の正体が、私には未だにわからない。
ただ、死んだ母が幸せだったとは言える。
結局は、母を裏切って、あれほど「いない、または邪悪」とされた神を選んだことへの罪悪感が、私にそれを強いるのだろう。
または、今さら良い子のふりをして、「母は幸せでした」と口にすることで復讐をしているのかもしれない。
いずれにしても、私が言葉にしてしまうと、母が望んだ幸福からは少しずつ遠ざかる様に思える。

疑念と罪悪感は常に手を組んでいる。
母の幸福が分からないのも、母は幸福だったと言えるのも、とても痛い。
刺さったままのあの不滅の凶器を、彼が少し押しこんだ。
それでも、私は、やはり、どうしても、私の神が良い。他には、ない。
様々な確信に呑み込まれなかったことも、疑念も、罪悪感も、この痛みすら、すべては私にとっては祝福だ。
まもられてきたのだ。そう思う。

170225 0541
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