白と黒。モノトーンのフロアを滑るように、軽やかに踊る。
楽しげに、時に物憂げに。強弱、緩急をつけて世界を彩る。
そうして極上の音色を奏でる彼女の手から、僕はいつだって目が離せない。

「はい、これがお手本」

先生のその声に顔を上げる。だけど僕の中ではまだ最後の和音が響きわたっていた。

初心者向けのピアノ練習曲。時間にして2分程度の比較的短く、易しい曲である。
それでも先生が弾くだけで、こんなにも世界が変わる。

余韻から抜けきれないまま、ぼんやりと見やれば先生は柔らかな視線を僕に向けていた。

「次は響也くんの番」

そう言って先生はピアノ用の椅子から立ち上がり、隣に置いてあるパイプ椅子へと移った。そこは彼女の指定席だ。

「まずはゆっくり、片手ずつでいいから丁寧に弾いてみて」
「はい」

そして僕が演奏席に座る。
目の前にしたアップライトピアノは、先ほどとは打って変わって沈黙していた。
もう魔法は解けてしまったようだ。

「じゃあ右手から」

先生の言葉を合図に、鍵盤に手を乗せる。指先に触れる冷たい感触に緊張を覚えた。
初めて弾く曲だから、というだけではない。彼女に見つめられていると、大勢の前での発表会より緊張してしまうのは常日頃のことだ。

ミ、ソ、ラ……と僕の弾く音階が静かなレッスン室に鳴り響く。
ピアノも楽譜も同じはずなのに、先ほどまでこの部屋に響きあふれていた音楽とは全然違う。
先生を真似て鍵盤をなぞってみても、僕の指は途切れ途切れの拙いステップしか踊れない。

「そこ、ファはシャープね。気を付けて」
「あ、」

上手く弾こうと意識すればするほど、手の動きはぎこちなくなっていく。簡単な記号を見逃して、ミスも増える。
ああ情けない。

視界の端で、先生が困ったように眉を下げたのを捉えた。

どうしたら、彼女のような音色を奏でられる?
どうしたら、彼女を笑顔にしてあげられる?
僕が彼女の演奏を聴いて心を動かされるように、僕も出来たら―――


次の週、僕は学校の用事でレッスンに遅れた。散々だった前回を返上しようと練習していたので、その成果を早く聴いてもらいたくて急ぐ。

ガラリ、と少し雑に音を立ててレッスン室の扉を開けると、机に突っ伏している先生が見えた。

「先生?」

声をかけるも反応はない。
近寄って見ると僅かにその肩が上下している。どうやら寝ているようだ。

「歌織先生、」

彼女が起きないのをいいことに、普段は緊張して直視できないその姿を眺めた。

黒鍵のように艶やかな漆黒の髪。
白鍵のように滑らかな陶器の肌。
年上の、大人の女性。だけど寝顔はどこかあどけなく感じられる。

無防備に机に投げ出した細い腕。
手入れのいった薄桃色の短い爪。
それは、至高の音色を紡ぎ出す指先。
先生の魔法の手。

「―――――」

吸い寄せられるように、そっと彼女の手に口づけた。

どうか、どうか起きないで。
少しだけでいいから、僕に分けてほしいんだ。
あなたの魔法を―――



Mu



Lips Drug
お題:手なら尊敬のキス

2013.02.10.





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