逃げ出したい、と思った。

『何から』とか『何処へ』なんていう具体的な理由も目的も無い。
ただ何となく、ここから離れて遠くへ行きたい衝動に駆られたのだ。

幸いにも今の俺は大学生という割と自由な身分だ。
今まで真面目に講義に参加していたし、一週間くらい授業を抜けても単位に影響はしないだろう。

そう、一週間。一週間だけの現実逃避。
家族にも友人にも誰にも告げず、行き先も決めない一人旅。

消極的・受動的に生きてきた自分にしてみれば結構な冒険である。
大学の長期休暇まで待つことも考えたが、暑すぎず寒すぎず過ごしやすい気候の今が旅をするには都合がいい。
それに、思い立ったが吉日と言うし。

そんな訳で、とある日曜の早朝、俺は旅立つために駅へ向かった。
もともと通勤・通学くらいしか利用者のいない駅なので人影は駅員のみ―――かと思いきや、待合室に一人だけ客がいる。
しかもそれは良く見知った顔だった。
隠れようか、と考える暇もなく向こうも俺に気付き、軽く手を振りながらこちらへ近づいてくる。

「……何で居るの?」
「さあ、何故でしょう?」

驚く俺にそう告げた目の前の彼女はどこか得意気に笑っていた。

繰り返すが、俺はこの旅のことを誰にも話していない。
勿論、恋人である彼女にも黙っていた。
本当は彼女だけには話しておこうかと少し迷ったのだ。
でも彼女のことだから反対はしないものの、「自分も一緒に行く」なんて言いそうだと思いやめておいた。

だから彼女はこの旅の計画を知らないはずなのに―――

「私も連れていってよ」

案の定、そんなことを言い出した。

「俺が何処に行くか知ってるの?」とか、「日帰りじゃないし、授業どうすんの?」とか色々聞きたいところだけど言葉を飲みこんだ。
そんなの俺だって何処に行くか知らないし、授業はサボるつもりだし。
何より彼女が今ここにいるという状況が、彼女の答えの様なものだ。

「どうせ、ダメって言ってもついてくるんでしょ?」
「まあね」

彼女の格好は履きなれたスニーカーとジーンズ。肩には小さめの旅行鞄。
それは今の俺と一緒で、何故だかバレてしまった一人旅は二人旅へと予定変更するしかない。

「ねえ、まだ行き先決めてないんなら海にしようよ」

楽しそうにそう告げる彼女を見て思わずため息をつく。
早朝の静かな駅のホームには意外と大きく響いた。

「もしかして怒ってる?」

悪戯っぽく、俺の手に触れながらそう尋ねる彼女。
その手を握り返して、今度はわざと大きなため息をついてやった。

「いや、呆れてるだけ」

どうなるかわからない旅に俺よりも乗り気な彼女と、予定が崩れたのにどこか嬉しいと感じている自分に。



左手に鞄、右手に



Lips Drug
お題:「連れていって」 / 「もしかして怒ってる?」

2012.05.31.





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