息が。
ブレザが。
ケータイが。
死ぬ。
壊れる。
ナオ。
来瞳。
月乃さん。
天井が地面に。
右がすぐ左に。
錐揉み回転みたいな。
滝壷みたいな。
鼻に。
口に。
生ぬるい。
どろっとした。
水が。
血が。
汚い。
苦い。
臭い。
息。
痛。
苦。
溺。
死。
ご ぢ ょ ご ぢ ょ
助け
ご ぢ ょ ご ぢ ょ
助けて。
ご ぢ ょ ご
「集中せぇよ!」
女の声がして、目が醒めた。
敦 子Section 4暴 発
目の前に、正方形のタイル。
セピア色のプラスチックタイル。
目地には、茶色い埃がびっしり。
床?
汚い。
でも光を反射してる。
まぶしい。
茜の光。
昼の光。
「まぁまぁ。ゆっくりやりましょうよ」
なだめるような男の声もする。
片言の日本語。
他にもいくつかの息づかいは感じるが、感じる以外の、聞こえる類いの音はない。つい今しがたまで聞こえていた天井聖識の音跳びももう途絶えている。
モスキートの羽音が鼓膜に際立つほどの静寂。本来ならば、誰にとっても居心地がいいであろう静寂。そう、本来であれば、あたしにとっても快いはずの静寂。
でも、漂う空気が尖っている。わずかにぴりぴりとしている。憩いの静寂が帯電の空気に相殺され、または凌駕されている。
なんだかイヤな空気。
床タイルの上で弾む茜色のまばゆさに、ついに眉間がムズかった。目を細め、床に両手を置く。腕立て伏せの要領で少しずつ上半身を起こす。腕が伸びきったところで両の膝をついて正座になる。両手を床から離して背を正す。そして深呼吸をひとつ。
前方に視線をやる。
16畳ほどの部屋の中にいるらしかった。
向かって正面には大きな窓が並び、白い陽光をこちらに招き入れている。そして、採光のまばゆさにかすれて見えるものの、レースのカーテンが左右に引かれてある。しかし、戸締まりがなされてあるらしく、彼らがハタめくことはない。
白陽のあまりの濃厚さに、窓の外の景色までは把握ができなかった。窓ではなく、そういう模様の壁とも思えるほどの白で、圧迫する密室感。だからか、優れた採光のわりに開放的な印象はほとんど受けない。
「ほんなら、もう1回、お薬のほうに集中してみようか?」
その窓ぎわ、中央にはベッドが置かれてある。シングルサイズで、装飾がひとつとして施されていない無個性なベッド。
それから、右のコーナには小さな手洗い台が置かれ、その上の壁には、頭を映してやっとという程度の小さな鏡がはめられてある。手洗い台の右隣りには小型冷蔵庫・空っぽの7段ラックの棚が並び、富士山を写す壁かけカレンダーへとつづいている。
ベッドの左には小型収納棚が寄り添う。そこから距離を置き、コーナにも棚が設置されてある。引き戸を網羅した大きな棚でなにが入っているのはわからないが、用途不明瞭な黒いマグネットの粒が3つだけ、側面の上部に固められてあるのが見えた。そこから、小型テレビの乗る棚・漫画本の傾く書架へとつづき、書架の天蓋には一輪挿しの花瓶が寂しそうにたたずんでいる。
棚も冷蔵庫も書架もが、団体を持てなすために作られたものでないことがわかる。あくまでも個人の欲を満たすためだけの、小さな小さな作り。
個室には違いないが、病室だと思った。一般宅の個室にしてはあまりにも飾り気がないし、そのわりには広いし、なにより、ベッド上に座っている者の着ている衣服がパジャマだったというのが大きな要因か。燦々と陽光の照りつける、恐らく昼間に、部屋着でなくパジャマで寛ぐという嗜好も今や珍しいことだと思う。
薄いオレンジ色のパジャマ。
「えろぅなったら遠慮なくいうんやよ?」
パジャマの主は女の子だった。下半身が毛布の中なので身長まではわからないが、痩せていることは一目瞭然。袖から伸びる手首は枯れ枝のように細く、首は筋張って弱々しく、ごそっとえぐれた頬には頬骨が尖っている。とても病弱な印象で、だから病室だと思ったのかも知れない。
小学校の高学年か、中学校の低学年か。痩せすぎで判別は難しいが、だいぶ幼い。整えられることを知らないのだろう眉毛はどっしりと太く、眼球はスーパーボールのようにぎょろりと大きい。その反対に鼻は小ぶりで、唇は薄く、口角も狭い。鼻柱を境にして上下の比率が悪く、まだメイクという観念にたどりついていないのだろう。表情も平面的で、こういう印象のことを、確か「おぼこい」といったか。
長い髪。先端がお尻に届くほど。でも、ブラッシングの習慣を持っていないのか、まるで爆発したかのように広がっている。メンテナンスを怠った梅雨時の髪を髣髴とする。乾燥した海藻のように黒く、もしやあたしの髪も、放っておいたらこうなるのかも知れない。
メイクも、メンテもない、もはや病人であるとする以外には考えられない女の子。いや、真実、病人なのかも知れない。
と、ここまで推察したところで、
「なんの実験だ?」
素人の吹く管楽器のような、ほとんどが息でできた声が割って入った。
声のした左横をふり向くと、すぐそばに敦子の姿。あたしを真似たような姿勢で、まじまじとベッドの少女を注視している。
「実験?」
敦子の疑問符にうながされ、再び少女を見る。いわれてみれば確かに、実験であるかのような光景だった。
少女が、頭部に黒いヘルメットのような物を被っている。だけどそれは、いわゆるヘルメットとはフォルムが違い、頭を守るほどの固さを有していない様子。実用性に乏しく、前衛芸術作品のような。
薄手の黒いニット帽、その表面にタコの吸盤のような突起物をびっしりとつけた、なんとも物々しいフォルムだった。そして吸盤にはプラグが接続し、コードとなって伸び、そのすべてがオールバックとなって少女の背中におりている。さらにコードはベッドの上へと流れ、床へとおりる。
なんだか、伸ばし放題のドレッドヘアに見えなくもない。
「脳波?」
再び、敦子の疑問符。
少女の目の前には台がおろされてある。細いパイプでベッドと接がれてあるから、ベッドに備えつけの折り畳み式の簡易机といったところか。
簡易机の上には、縦長の箱が置かれる。日本人形を入れるケースのように、うちの何面かがガラス張りになっているらしい。ちなみにあたしのいる側の面……裏面は、ガラス張りではなく、なんらかの装置なのだろうか、中型の箱がぴったりとくっつけられてあった。
決して大仰な箱ではないが、といって、一般家庭でお目にかかることはないだろう“理系”の箱。少女は、その箱を枯れ枝の両手で優しく挟みこみ、ぎょろりと大きな瞳で、ガラスの中を覗きこんでいた。
それから、いくつかの細々とした器材が机の上に並べられてある。でも、それらがなんなのか、ここからではよく見えない。よしんば見えたとしても、あたしの知っている物である道理もない気がする。
机上への空論を早々に諦め、あたしは、ベッドから床におりるコードの束の行方を追ってみた。すると、すぐにコードたちは中空を駆けあがっている。向かって右手、富士山のカレンダーの手前に銀行ATMのような巨大な筐体が設置されてあり、その背を目指して駆けあがっているのだった。もちろんこの筐体がなんなのか、あたしの知るよしもないけれど。
ATMの向こう側に、女の姿があった。椅子に座り、鋭い眼光を筐体に向け、時にキーボードを叩くような仕種をしている。パソコンでも備えられてあるのだろうか。そのたたずまいにエリートビジネスマンの気位を感じないでもない。
ただ、どうやら彼女は白衣を着ていた。裾が床に届きそうな丈のある白衣。もしや高潔な気位を感じたのは、白衣……女医に対するあたしの先入観かも知れない。
丸みを帯びる滑らかなボブヘアの女医。半透明な縁取りのシャープな眼鏡をかけ、化粧っ気があり、そうとうパフを酷使したもよう。小顔であり、顔を構成する部品もすべてが小さく、ドライで理知的な面立ちながら、目がタレ気味なので笑うと愛嬌が芽生えそうな印象。20代の後半だろうか、ナチュラルメイクさえおぼえれば今どきの成人女性の王道も歩めるのだろうに、残念ながら流行りには疎そうな印象だ。
「ヤベぇ。1人もわかんねぇ」
今度は弱音を吐く敦子。彼女も彼女で、かなり推理にてこずっているらしい。
あたしはもう、推理自体を諦めている。
と、ひと呼吸の間を置いて、
「おお……!」
敦子の低い声。
「いま気づいた。セピア色の世界じゃん」
にわかにはその台詞の意味するところがわからなかった。しかし、しばらく敦子を真似て周囲を見まわしてみて、
「……あホントだ」
ようやく気づいた。
周囲の光景、そのすべてが、セピア色で彩られていた。蜜のように粘り気のある、でも枯れてもいる琥珀の色。写メの加工で幾度となく体験した、でもネット上で披露するにはいささか躊躇をおぼえる拙い色。芸のない、マニュアルどおりの色。
違和感でできた世界。だけど、違和感を違和感と識別できないほどにあたしの頭は混乱しているらしい。
血管の廊下の最果て、観音扉を開ければ真紅の鉄砲水に襲われ、飲みこまれ、息もできず、死を意識した直後に呼吸が戻り、目を開ければまばゆい病室で、ベッド上に女の子がいて、機材が乱立し、見知らない女医までいる。
空気の色にまで気がまわるわけがない。
混乱しないほうが可笑しいんだ。
それってもしかして、夢だから?
コレ、夢なの?
「えらい」
か細い声が聞こえ、あたしの疑問は呆気なく断たれた。
力のない、ウクレレのように乾いた声。
ベッドの上の少女が発したらしかった。
「あ!?」
少女のつぶやきを受けて、あたしのすぐ右隣りからも声があがった。心臓が止まるぐらいに魂消て、あたしは発作的に正座を崩す。避けるようにして上半身を傾げると声の主を見あげた。
手前の壁ぎわに、女が立っていた。
「なんて!?」
威嚇の眼光を少女に向けている。相手の皮膚をエグるような、刃物のついた鈍器の目。ただでさえ吊りあがっている眦だが、眉間の皺を固めて細められた瞼の隙間から覗く三白眼もあって、人外の、鳥獣の目を髣髴とした。獰猛で、情が存在しない。
「もっかいゆってみぃや」
恐喝の声も低く、しかしヒステリックな響きはない。むしろその逆、知的であり、情というもののすべてを引き算した響き。迷いのない、二進法で構成される響き。
「この声……」
音になっていない敦子のつぶやき。でもみなまでいわれずとも、あたしも勘づいていた。そう、この声は聞いたことがある。
『おまんみたいなバケモンが生まれるとは思わんかったわ!!』
あの罵声は、確かにヒステリックな響きだった。魂の奥底に溜まりに溜まった情の残渣を、ぶちまけるような響き。
でも、声質はまさに“香苗の変”を誘発させたあの声、そのものだった。
ということは、この女こそが悪夢の中に出てくる看護士、その人であり、もしや、
「久我初美……?」
「え?」
あたしの疑問に、呼応する敦子。しかし会話として発展するよりも前に、
「もっかいゆえて!」
「まぁまぁまぁまぁ」
女と、その向こうにいるらしい男性とのやり取りが遮った。
男がなだめる。
「集中力、使いますから。ね?」
日本語としてヒアリングできることには違いないが、イントネーションが片言。
外国人?
ということは……?
しかし女は、なだめる男を無視するかのように、最初から眼中にないように、
「ここに住まわしてもらっとるんやろが。無料で寝泊まりできる恵まれたおまんに、拒否できる権利なん1個もないんやぞ?」
エッヂのきいた脅迫をベッドに投げる。
ヒステリーか?
いや、
「黙ってボランティアせぇ」
情はなく、知は保たれている。まるで、少女の神経衰弱を計算しているかのよう。
冷たい女だとわかる。面立ちも冷たく、吊りあがった眉毛に眦・三白眼・小柄だが尖った鼻先・薄くて小さな「ヘ」の字口・逆三角形の顔のライン……はっきりと見て取れる人中の深さや、左右の口角に浮かぶ幾筋もの豊齢線までもが、柔らかな情感によって培われたものではないと思える。
「やってくださいってお願いしとるわけやない。やれと命令しとるんや」
わずかにウェーヴのかかった黒いボブをかきあげる。白髪も多くパサついていて、中年女性の髪だとわかる。ケアする習慣を持たないのか、持てないのか、境遇まではわからないが、苦労を重ねて、マイナスの方向でついに完成してしまった女の印象。あたしのママが陽的な完成品ならば、この人は明らかにその逆、陰的な完成品。
「やれ」
腕を組み、座りのある目で少女を射る。
「ぅう……」
射竦められた少女、あれだけ大きかった瞳を縮こまらせ、吐息で唸って項垂れる。なにかをいいたげで、歪んだ視線を左右に往復させている。眉間に皺を寄せ、鼻息を荒くし、必死になって言葉を探しているとわかる。
抵抗しようとしてる。
そして、か細く、ひとりごちた。
「あたま、が」
「は!?」
「あた」
「は!? は!? は!?」
前のめりになり、ボリュームをつけ足しながらの女の反撃。聞く耳はなく、むしろ有無をいわせない。
そして、間を置いた。
すっかりと言葉を失う少女。それを確認すると、組んでいた腕を解き、ジーンズのポケットに両手を挿し、
「や・れ・よ」
わずかに顎をあげて命じた。
本当にあの看護士だろうか。というか、これが看護士の発する台詞だろうか。どう見ても病人である女の子に対する、これが看護士の態度なのだろうか。
花柄のシャツ・褪せたジーンズ・茶色のピンヒール……シンプルすぎるが普段着とわかる格好で、誰もが知る看護士の制服をまとっていない。彼女を看護士と証明する材料はまったくの皆無といえる。
ただ、声だけは間違いない。彼女の声は間違いなく、化け物と罵倒したあの声だ。
……いや、シルエットの主と罵声の主が同一人物であるとはかぎらないのか。恩田病院のT字路を横切ったシルエットの主と罵声の主が。
別人である可能性もあるのか。
じゃあ、あの看護士は、誰?
やはりわからないことのほうが圧倒的に多いが、ただ、わかっていることもある。十中八九、わかっていることも。
この、恫喝している女は、久我初美。
彼女の向こうにいる男は、デルビル。
筐体の向こうにいる女は、篠宮陶子。
そして、ベッドの少女が、
「久我香苗」
確信を持って、あたしはつぶやいた。
そう、
「クガカナエ……って、え? え?」
役者はすでに揃っている。
「クガ? クガ、カナエ?」
胸のポケットに指を挿す。
分厚い、四つ折りの感触。
ある。まだある。消えたりしていない。
「香苗が? いるのか!? どこだ!?」
「コレ」
焦燥する敦子に、冊子を手渡す。
「さっき小池さんと合流する直前に拾った物。1ページ目に役者が連なってる」
【実験場所】
・私立恩田病院の旧入院棟内
【実験者】
・フランソワ・グザビエ・デルビル
【実験助手】
・篠宮陶子
【立会人】
・久我初美
【被験者】
・久我香苗
「恩田……フラ……篠……久我……」
窒息しそうなほどの距離で冊子に見入る敦子。慌ただしく役者の名前をつぶやき、しかしすぐに口の動きをやめる。次いで、頭を上下にうなずかせながら、役者の顔と名前とを交互に照合。
「こんなに、いるのか?」
低吟。確かに、これまではシルエットの看護士と音声のみの久我香苗しか主役級のキャストはいなかった。でもそこに2名が新規追加され、今後、さらに増加する懸念材料ともなっている。
謎の複雑化は困る。
「なるほど。アレが久我香苗か」
さすがというか、すぐに敦子は挑戦的な表情を取り戻した。依然として混乱の影は帯びているものの、さっきまでの、旺盛な悪戯っぽさが復活している。マンホールの穴を覗くガキ大将のように、ワクワクしていると見てとれる。
「意外と大人なんだな」
首筋をかき、笑みまでも浮かべる。
「もっと幼く思ってた」
「あれ? でも、もう顔は知ってるんじゃなかったの?」
「顔?」
「さっき、陥没した顔がどうのって」
鉄砲水に飲まれる直前に、確か敦子が、そんなようなことをいっていた気がする。
彼女もそれをすぐに察し、
「ああ、それはカレンデュラのほうだね。カレンデュラっつーか、あの、エレベータガールのほうね?」
「あぁ、そっか。アレがなんなのか、そういえばまだ判明してなかったんだっけ」
「エレベータのほうは、顔が陥没してた。鈍器で思いっきり殴られたみたい。でも、損傷がヒドすぎて、しかも暗いし、だからアレとあの子が同一人物なのかはさすがにわかんねぇんだよなぁ」
軽快に小首を傾げてみせる。それから、わずかに身を乗りだし、改めて配役に目をとおした。吟味する客のよう。
「んで、デルビルってのと、篠宮陶子と、この女が久我初美。久我姓ということは、香苗の母親ってことでいいのかな?」
「バケモンが生まれる……みたいなことを叫んでたわけだし、話の筋から考えても、たぶん母親で合ってると思う」
「うん。確かにあの声とこの声は一緒だ。それだけは間違いない」
声の一致だけではない。あたしは、この初美という女性の、香苗に対する無慈悲なコミュニケーションについても、少しだけ合点がいっていた。
思いだしたのだ。カラオケのトイレからこの世界へと迷いこんだ直後に、香苗が、受話器越しにこう吐露していたことを。
「私は愛されないまま死ぬのかな
ぜんぶは嫌です
どれかひとつ欲しいのです
せめてひとつだけ
ママは私が嫌い
パパはどこにもありません……」
いまだに理解できない文言だが、ひとつだけ、はっきりとしていることは“香苗は母親から嫌われている”という事実。その事実を裏づける異様な関係性が、今、すぐ目の前にくりひろげられている。
この母親は、心底、娘を嫌っている。
嫌い、恐れている。
「結果を出せよ?」
ぼそっと、しかし香苗に対してであるとわかる鋭利さで、初美がつぶやいた。
「なんも起きんわけがないんや」
冷たく、
「それは赦さん」
そうつづけて、ぷっつりと言葉を切る。
デルビルも篠宮陶子もなにもいわない。いわないのか、それとも、いえないのか。
香苗は、今にも泣きだしそうなふやけた表情で、しかし眼前の箱を注視している。眉間に深い縦皺を寄せ、頬骨を強張らせ、ヘの字口で、固く沈黙したまま。
息のつまる静寂がわずかに流れ、また、
「集中しとんのか、おまえ」
小声で初美がつぶやいた。
「飽きる権利なんないぞ?」
腕組みをしたまま、
「それしかできんのやから」
よそを向いたまま、
「できることで結果を出せ」
あえて焚きつけるように重ねる。そしてまた、息苦しい間を置く。
あんだこいつ?……敦子の苦々しい息が叫びのように大きく漏れた。
再びの静寂。
モスキート。
五月蠅い。
「……あんだこの女?」
耐えきれなくなったように、また、細く敦子が漏らした。
と、同時に、
「ここまで育ててやったんやぞ!」
初美が叫んだ。いや、ただボリュームをあげて脅しただけなのだが、まるで叫んだように聞こえた。発作的にあたしの身体が強張る。視界のはしの香苗もまた、全身を引き攣らせたようだった。
「いうこと聞けんのか? 聞かんのか!?」
無情な獣の形相で追い討ちをかける。
「ぼちぼち育ってんちゃうぞ、香苗。親のいうことも聞かんで、おまえの存在価値がどこにあるんじゃ。ないわタワケが」
直後、
「おまえのどのへんが親なんだ!!」
あたしは、失神するほど魂消た。
咆哮をあげたのは、敦子だった。
やにわに立ちあがり、
「育ててやっただと!?」
薔薇の香りだけを残して、瞬く間もなく初美のもとにつめ寄る。
「育ってやってんだよ、ガキもよぉ!」
胸ぐらをつかもうとして、
「つーか、ぜんぜん育てる気がねぇだろ、テメェのその姿勢はよ!?」
プラスチックのフィギュアを相手にするようにつかめず、しかし彼女は怯まない。
「育てらんねぇバカ親のせいでガキの存在価値が論外になってんだよ! だからこそ必死に育ってやろうとすんだよ! 存在を認めてもらおうと足掻くんだよ!」
殴りそう。
「まともに育てらんねぇバカ親にもできることは、子の存在を認めることだ! その程度でも親のハシクレと見做してもらえる社会なんだからありがたいと思え!」
殺しそう。
「どんなに子が親の存在を認めたってな、親が認めなければ子は子と見做してもらえねぇ社会なんだよ。いつだって、結果的に親だけが恵まれる社会なんだよ。子からの認否を問わず、一方的に認めてしまいさえすれば親でいられるんだから、親ってのはなかなか有利なご身分じゃねぇか。じゃあ簡単じゃねぇか。甘んじてヤれよ。損得で動けよ。できることで結果を出せよ!」
初美は、
「おら、認めろよ!」
娘を見ている。敦子の叫びは、どうやら聞こえていない。悪夢と同じだ。視聴者のメッセージは、役者には絶対に届かない。
しかし敦子は断固としてやめなかった。
「親になってから育児論を語れ!」
あまつさえ、ふり向き、
「香苗、コイツのいうことは聞かなくてもいいぞ。残念ながらコイツは親じゃねぇ。まだコイツは、社会から母親と見做される段階にはねぇ。これは現実論だ。おまえはまだ、孤児に等しい」
香苗に説いた。香苗は、
「心配すんな。あたしも孤児だ」
箱の中を見ている。押しこめられた自分自身を、泣きそうな顔で憐れんでいる。
「でも、あたしは永遠に孤児だけど、香苗にはまだチャンスがある。コイツが認めるまで待っていられるんだ。待てるんだぞ。それはとてもラッキーなことだ。そして、ラッキーは活かすべきなんだ。活かして、ハッピーになるべきなんだ。幸せっていうものは、2段階でできてるんだ。だから、まずは手前にあるラッキーを活かすんだ」
敦子の顔も泣きそう。泣きそうで、でも力強く説いている。何度も何度もブレスを挿れながら、懸命に吐きだしている。
香苗には、届いてない?
「コイツのことが好きならば媚びを売れ。嫌いならば反抗しろ。箱を見るな。母親を見ろ。ガキがむつかしいことを考えるな。遠慮するな。思いやるな。従うな」
すると、再び初美がつぶやく。
「聞こえとらんのか、香苗?」
それに、かぶせるようにして敦子が、
「聞かなくていいぞ、香苗!」
訴え、
「おまえの親は誰や?」
問い、
「まだ誰でもねぇ!」
遮り、
「誰が育てた?」
脅し、
「香苗自身だ!」
抗い、そして、
「親に感謝して奇蹟を起こせ!!」
「生きてるだけで親の奇蹟だ!!」
そして香苗は、
ぽ ろ っ
「ママは」
透きとおる涙を、ひとつ、落とした。
「わたしが、きらい」
箱に目を伏せたまま、
「パパは、どこにも、ありません」
ウクレレの弦を震わせ、
「わたしは」
消え入らせそうに、
「あいされないまま、しぬのかな?」
でも、
「ぜんぶは、いやです」
絞りだすように、
「どれかひとつ」
丁寧に、
「ほしいのです」
丁寧に紡いで、
「せめて」
不意に、
「ひとつだけ……」
顔をあげた。
だ ん
窓ガラスに、掌があらわれた。
急な展開に、声もあげられなかった。
香苗の背後、レースのカーテンが透かす窓ガラスの、その桟の下から、
「ママ」
小さな、幼い掌。
左手。
「わたしは、ほしいのです」
さらに、
だ
わずかな間を置いて、今度は右の掌が。
それから、左手と右手の中央から、懸垂するかのように、ゆっくりと、
「むり、ですか?」
ぬ ぅ ぅ ぅ ぅ ぅ ぅ ぅ ぅ ぅ
髪の毛が。
「のぞんでも、むりですか?」
頭が。
「ママには、むりですか?」
生えるように、
「ママしか、いないのです」
頭のシルエットがあらわれ、
「わたしには」
胸のあたりまで這いあがり、
「ママしかいないのですけど」
そのまま、動きを止めると、
「ママと、あるのは」
ガラスにへばりついたまま、
「むりですか?」
室内を凝視。
長い髪の、少女のようだった。すとんとまっすぐに落ちた、灰色の髪。シルエットには違いないが、黒髪ではないとわかる。
両の掌は、白い。腕も白く透きとおっている。外光と相俟って、消えかかるほどの白さ。きっと、折れそうな細さが透明感を後押ししている。
着ている衣服も、どうやら白い。灰色の長髪にほとんどを隠されているが、柔和な白の、エアリーな素材。
顔は……よくわからない。逆光のせいで表情がくみ取れない。額から左右に流れているらしい髪の、間隔が狭いという要因もある。ただ、皮膚もまた白そうで、仄かな透明度の高さを感じる。
セピアな、でも、モノクロな少女。
窓ガラスの外からヤモリのようにへばりつく少女が、レースのカーテンを透かし、病室のどこかをじっと見ている。
それはちょうど、香苗の真後ろ。
まるで守護霊か、守護神か。
「誰だ……?」
疑問とともに息を飲んだ敦子。わずかな間を置くも、すぐに吐きだした。
「エレベータのヤツじゃねぇ」
あたしも同意見だった。
この少女は、悪夢の少女とは、明らかに様相が異なっている。確かにどちらも色白だけど、華奢だけど、髪色と質が異なる。衣服の素材も異なる。というか“属性”が異なっている。そう感じる。
あの少女は“無”の属性。
この少女は“有”の属性。
悪夢の少女は、傀儡を思わせる空っぽの存在でしかないが、この少女にはなにか、明確な意思があるように感じる。躍動する意識があるように感じる。
勘だけど、そう感じる。
「外国人か?」
その推理は、なんともいえない。確かに外国人に見えなくもない。でも、顔を象るパーツの大半が、逆光の影になっている。
敦子のいる角度からはそう見えるのかも知れない。
「北欧人か、ロシア人か」
ただ、
「なんなんだコイツは?」
やはり何者なのかがわからない。冊子を脳裡にめぐらせてみても、相応しい役者の名前が1文字もあがってはこない。まさにこの少女は“招かれざる客”。
「なんかヤな予感がする」
あたしもたまらずつぶやいていた。そういえばこの世界は悪夢の一端だったんだ。あたしにとって必ずや都合の悪いことしか起こらない、いつもの悪夢の発展型。
そう、悪いことしか起こらない。ここにいたるまでの道のりからして、地獄絵図と表現するになんら遜色のない劣悪な環境。
忘れてた。油断できない世界だったと。
しかし“シナリオ”は待ってくれない。
「ムリ、やないよ?」
片言の日本語が間に入った。
「香苗ちゃんが頑張れば、ママも、きっと喜んでくれるんよ?」
途切れ途切れ、言葉を選びながら香苗の問いにフォローを入れる。
このデルビルも、
「喜びは、愛やと、僕は思うよ?」
窓を向いているはず。
右手を見あげる。
顎をあげ、やや難しそうな顔で娘を睨む初美の、相も変わらぬ姿。
彼女の向こうに視線を流す。篠宮陶子もまた変わらずに筐体の影にひそんでいる。淡々と母娘を観察している。
あたしと敦子以外に誰も、窓の少女には気づいていない。恐らくは、
「頑張って、みようか?」
「がん、ばる……」
香苗も。
「ママのためにやよ?」
「ママ、の」
「そう。ママのために」
「ママ、の」
イヤな予感が膨らみつづける。だって、デルビルに諭されれば諭されるほど、窓の少女が、なんだか厳つくなっていく。微動だにしないけれど、なんというか、彼女の“気”のようなものが尖っていく。静電気みたいに、室内の空気までもがぴりぴりと毛羽立っていく。
怒ってる。
怨んでる。
呪ってる。
もう、そのへんでやめたほうがいい……デルビルを説得したい欲が湧いた。香苗の抱いている感情は「愛」という平易な単語ごときで測れるものではないと、重ねれば重ねるほどマイナスへと向かっていくと、そしてそれを窓の少女が代弁しそうだと、なぜだかそんな予感がしてならなかった。
久我香苗の“闇”は、たぶん根が深い。
明るい響きの言葉は、たぶん逆効果だ。
もしも窓の少女が香苗の守護神ならば、
「……ダメだ」
「舞彩さん?」
「香苗の望みはソレじゃない!」
“代弁者”ならば、最悪の事態に陥る。
「たとえ罵られたとしても、母親と接していられる時間のほうを望んでる!」
母親とのコミュニケーションを絶ってはならない。隔たりがあってはならない。
「小池さんのいうとおり」
他者の介入は、
「ふたりきりにすべきだ!」
あの守護神の、
「ママと“一緒で在りたい”んだよ!」
逆鱗に触れる。
「死の、その瞬間まで」
「死?」
「香苗はたぶん……もう長くないんだ」
ぴ し ゃ ッ
窓の少女、張りつくその両手を中心に、放射状に、2編の細かな亀裂が走った。
刹那の出来事だった。
しかし反応する間もなく、
「だれのためにやて?」
きょとんとした顔で、香苗が。
今までの、消え入りそうな声じゃない。溌剌としたウクレレで、でも棒読みで、
「だれがだれのためにっていっとるの?」
ぎょろり。スーパーボールの眼をむく。
「ママのためって、だれがきめとるの?」
「香苗ちゃん?」
「それは、ママがきめることやんねぇ?」
「え? え?」
デルビルの声が混乱している。
データにないことだとわかる。
「はかせがきめることなん?」
「香苗……?」
初美も、どうやら懐疑しているらしい。
「なんなんよ」
敦子はふりかえったまま硬直している。
「なんなんよ」
あたしは女の子座りの足が痺れている。
「なんなんよ」
蒼褪めた表情の篠宮陶子がおもむろに、
「波形が……」
脆弱に訴えて、椅子からお尻を浮かせ
「なんなんよ!」
ば っ し ゃ
「おぅわ!!」
「きゃあ!!」
破裂の爆音をあげて、窓ガラスが一気に割れた。内にでもなく外にでもなく、そのままに割れて、加速しながら、直下の床を目指して破片が落下。桟にあたり、ここでようやく前後に散乱。
悲鳴は、デルビルと篠宮のものか。窓の少女こそ見えていないが、起こる出来事はあたしたちと共有のものらしい。
「なんなんよ」
レースのカーテンはひらめかない。風は吹かず、サンプルのレタスのように微動もしない。相変わらず病室内は凪いだまま。
窓は解かれた。しかし、鳥の声もない。自動車の音も人間の息も聞こえてこない。やっぱり、そういう模様の描かれる重厚な遮音壁であるかのよう。依然として、この舞台を恩田病院と認める確証には乏しく、現実味のないシチュエーションを構築するばかりの、単なる夢想の一端であるとしか思えない。
それなのに、
「なんなんよ」
にわかに頭の芯に痛みが走った。ぴんと張りつめるような、尖った痛み。船酔いの頭痛や生理の頭痛とも異なる鋭利な痛み。非現実的な痛みだが、あまりにもリアルな痛みでもあった。この痛みは、そう、あの“香苗の変”で感じた痛みだ。
「イ、タい」
あたしと同じくこの痛みの経験者であるだろう敦子が、肩をすくませてつぶやく。
本当に、香苗の発する力なの?
それとも“守護神”の力とか?
窓に目をやる。
「なんなんよ」
あの少女は、すでに香苗の背後に立っていた。レースのカーテンの際、壁とベッドとの間におさまり、泰然とした直立不動の姿勢でこちらのほうを見ている。わずかに顎をさげ、誰を睨むでもなく睨んでいる。
「……誰なの?」
敦子の推察したとおり。
円らな瞳の少女だった。眦は上を向いて尖っているが、美しい楕円であり、初美のような獣じみた印象は受けない。鼻筋も、高くはあるが小鼻は丸く、薄い唇を擁する口角の幅は狭い。陶磁器を思わせる蒼白い顔は異様なほどに小さく、頬に揃う疎らなソバカスもまた若々しさの象徴に思える。事実、肌の質はしなやかで、潤いがある。
どこから見ても明らかな外国人だった。しかも、美少女と呼ぶに相応しい、小学生ほどの女の子。
ただ、彼女の瞳には、
「この子……なに?」
白目が見あたらなかった。
眼球の右と左、上と下の、そのどこにも白い箇所がなかった。髪の陰影による錯覚ではない。水晶体のそのものが、まっ黒に染まっていると判断できる。
白陽を跳ねかえす、黒曜石の瞳。
こちらを見ている。睨んでいる。
「陶子さん、fNIRSを外しましょう」
苦痛に歪んだデルビルの提案。どうやら彼らも頭痛は感じているらしい。
「中止、します……さすがに危険だ」
彼の言い終わりを待つまでもなく篠宮がベッドへと駆け寄る。しかし彼女の視線が香苗の背後にまで向けられることはない。ガラスの飛散や頭痛こそ同席者のすべてが共有する現象だが、あの少女の姿だけは、やはり、あたしと敦子にしか認識できないらしい。
「なんなんよ」
ぎょろっとした瞳で、香苗が篠宮を注視した。過敏な反応、警戒している。とても心をかよわせている関係性には見えない。
「イづッ……!」
直後、苦悶に萎れる篠宮の顔。ドギツいメイクが楔となり、皮膚を嬲っているのがわかる。痛々しい。その顔を咄嗟に背け、思いの他に小柄だった身体を小さく丸め、同時に右手で側頭部を押さえた。
香苗を中心にして、超常的な力を帯びた球……スフィアができあがっている。そのフォルムこそ視認できないけれど、安易に接近することを躊躇わせるほどの、無情なプレッシャを感じる。
これが“念動力”というものなの?
でも、なんて静かなんだろう。役者の、苦悶の呻き声こそあれど、BGMはなく、相も変わらない静寂が広がっている。頭痛とはまた違う、痛みをともなう静寂。
「外し……ますよ?」
静寂を割き、艶っぽい声質をたわませて篠宮が尋ねる。
「あ、でも、シャットダウンしてない」
「PCはあとまわし。とにかく外して!」
デルビルが訴える。
敦子は忙しなく顔を旋回させている。
香苗はまだ警戒している。
そして初美は、
「……外すな」
低く命じた。
同時に、視界に、愕然とした表情をふり向かせる香苗の姿が映った。
「つづけろ」
「え? え?」
当惑する篠宮。
「初美さん?」
デルビルの声も惑ってる。
「でもこれ以上は、危険……」
「危険でかまわん」
視線を初美に止め、凝視する敦子。目をむいて、とても信じられないという表情。
「ママ?」
香苗の、気の抜けたような声。
それに追随して、
「テ、メェ」
ぼそっと敦子が唸り、
「あの、ど……?」
篠宮が当惑を増させ、
「初美さん?」
デルビルも同じで、そしてあたしは、
「この人……」
なぜだか、
「……娘を壊したがってる」
そう確信していた。
ご ぢ ょ ご ぢ ょ
「香苗」
この母親は、
「つづけろ」
娘が、
「ママのために」
壊れるのを望んでる。
「つづけろ」
ご ぢ ょ ご ぢ ょ
なぜ?
わからない。
でもわかる。
「つづけろ」
娘が壊れることを、
「つづけろ」
いなくなることを、
「つづけろ」
この母は望んでる。
「つづけろ」
心底から希ってる。
ご ぢ ょ ご ぢ ょ
急に、
「あー」
天を仰いで、香苗が、産声のような声をあげた。でも、絶望の声でもあった。
その黒目はわずかに寄っている。焦点が合っていない。自我が吹き飛んでる。
表情も剥落し、両の肩も落ち、
「あー」
“守護神”が黒曜石を見開いた。
「ごぁ」
ぼ ん ッ
刹那の悲鳴を残し、篠宮が、破裂。
ゴム風船のように。
篠宮が、破裂した。
四散する服。
四散する皮。
四散する肉。
四散する脂。
四散する骨。
四散する腱。
四散する臓。
四散する管。
四散する血。
瞬く間もなく、呆気なく、人間の肉体がスフィアを描いて四方八方に飛び散った。一瞬のうちに、ソレは天井を汚した。壁を汚した。レースのカーテンを汚した。棚を汚した。計器を汚した。そしてあたしたちまでもをすっかりと汚した。
悲鳴もあげられなかった。
悲鳴もあげられないまま、あたしたちは“篠宮陶子だった肉片”を全身に浴びた。
セピア色の世界が、朱色に。
敦子も、朱色に。
たぶんあたしも。
たぶんデルビルも。
たぶん初美も。
染まらなかったのは、香苗と、それから香苗の“守護神”だけ。篠宮のいた座標と彼女たちを中心にして、球状に、すべての朱色が外へと追いやられている。内側は、いまだにセピアが保たれている。
ゆっくりと、視線を右にふる。
目線の高さ、あたしと初美の中間、その後方の壁から、なにかが突きだしている。
ツギハギの、いびつなスティック。
背骨だった。
篠宮の背骨が、壁に突き刺さっている。先端には、わずかなカーヴを描く尾骨も。
ゆっくりと視線を戻す。
素麺の血管がバラ撒かれる床。三日月の肋骨が突き刺さる天井。スカーフの大腸が垂れる家具。残飯の脂肪がこびりつく壁。それから、すぐ目の前に落ちているのは、お椀の乳房……乳輪も乳首も見てとれる。
その向こうにもお椀が落ちている。白いお椀。毛髪のこびりつく、乳白色の豆腐をひっくりかえした、お椀。
おばあちゃんのこぼした、お椀。
ご と っ
敦子が崩れ落ちた。卒倒だった。操りの糸を断たれたマリオネットが、朱色の湖に身を投げる。横倒しになって、床に側頭を打ちつける。でも、伸べてあげられる手があたしにはなくて、壊れたように弛緩する彼女の、朱に染まったシルバーアッシュの後頭部を茫然と眺めているしかなかった。
卒倒の勢みか、ぼどどど……計器に垂れさがるモコモコとした大腸の裂け目から、ねっとりとした赤褐色の液体がこぼれた。半固形物の混ざる液体。血か、排泄物か。
臭気はない。まだ感じない。
頭痛もない。もう感じない。
すべての感覚が吹き飛んだよう。
「……トーコ?」
デルビルの、囁くような問いかけ。でもそれも、すぐに途絶えた。
亡羊の静寂。
香苗は、天を仰いでいる。半眼のまま、ぽっかりと口を開けたまま、壊れたように静止している。口角からは涎が流れるも、拭うほどの魂さえも存在しないよう。
真実、壊れてしまったように見える。
とても哀れで、
「香苗……」
今、その背中を撫でて、はたして体温は感じられるのだろうかと、思った。
まだ、暖かいんだろうか?
もう、冷たいんだろうか?
かつておばあちゃんにそうしたように、自然と、あたしの右の掌が開いていた。
触れたいの?
感じたいの?
償いたいの?
すると……この掌が握られた。
握られたとわかる、柔らかな感触。
懐かしい感触。
でも血のかよわない、冷たい感触。
命のない感触。
視線だけでゆっくりと見やる。
黒曜石の瞳を持つ少女だった。
いつの間にか彼女はすぐ右隣りにいて、あたしと同じ、正座を崩した姿勢でいる。白いのだろうワンピース、半袖から伸びる二の腕はやはり蒼白く、か細く、それでも力強く、あたしの掌をつかまえている。
黒曜石の瞳で、あたしの瞳を見ている。
じっと、じっと、じっと見つめている。
「……なぁに?」
力なく問いかける。
すると少女は、朝靄のような囁き声で、こんなことを語りはじめた。
「Мне кажется порою, что солдаты」
「С кровавых не пришедшие полей」
「Не в землю нашу полегли когда-то」
「А превратились в белых журавлей」
「Они до сей поры с времен тех дальних」
「Летят и подают нам голоса」
「Не потому ль так часто и печально」
「Мы замолкаем, глядя в небеса?」
旋律もなく。
ぼそぼそと。
断続的に。
継続的に。
ひとりごちるように。
意味は、わからない。
何語かもわからない。
でも、
「Летит, летит по небу клин усталый」
「Летит в тумане на исходе дня」
「И в том строю есть промежуток малый」
「Быть может, это место для меня」
「Настанет день, и с журавлиной стаей」
「Я поплыву в такой же сизой мгле」
「Из-под небес по-птичьи окликая」
「Всех вас, кого оставил на земле」
胸の中が、萎びる。
ふやけ、ざらつく。
綻んで、穴があく。
悲しくなる。
寂しくなる。
虚しくなる。
「Меня зовут……」
黒曜石の黒に落ちていく。
意識が飲みこまれていく。
深く、吸いこまれていく。
消えていく。
壊れていく。
死んでいく。
「Меня зовут Ольга」
「……オルガ?」
ああ、あたしが、死んでいく。
「Ольга」
「そう……あなたオルガっていうのね?」
鶴
作詩:R・ガムザトフ
露訳:N・グレーブネフ
作曲:Y・フレンケル
私は時どき、ふと思う
戦野で血を流して
斃れた兵士たちは
白い鶴になって羽撃くのだと
鶴になって飛ぶ彼らが
遥かな日々から語りかける
「なぜ悲しむことがあろう?
ただ空を流離うだけのこと」
疲れた羽根で楔をなして飛ぶ
日がな霧の中を飛ぶ
あの群れの中の小さな隙間が
きっと私の場所なのだ
1日中、鶴の群れとともに
私も濃い霧の中へ
そして空の中で語りかける
地上に残した君たちへ