偽りのカレンデュラ 



 なぜトラックのブレーキが効かなかったのか、まだ検証中で不明な部分も多いが、現段階ではヴェイパロック現象が原因ではないかと考えられる。





月 乃
Section 8
此 岸シガン





“ヴェイパロック現象”

 この現象は、自動車のフットブレーキが過熱したさい、伝達経路である液圧系統の内部に蒸気による気泡が生じ、そのために力が伝わらなくなることをいうのだそう。そして、この状態の時にブレーキペダルを踏んでも機能しないのだという。

 メカ音痴のあたしにはあまりにも理解の難しい現象だ。ただ、高スピードを出している時に急ブレーキをかけたり、下り坂で過剰にフットブレーキをかけたりすると、稀に起こる現象なのだとか。だから、予めスピードを落としておいたり、低速ギアによるエンジンブレーキを活用するなどの、予防線を張っておく必要がある。つまり、ブレーキペダルに依存する運転はリスクが高いということらしい。

 とはいえ、やはり謎は多い。

 運転手の女が勤める運送会社によれば、整備に手抜かりはなかったそうだし、この日、彼女は特にスピードを出したわけでもなければ過剰にブレーキを踏んだわけでもなかったのだそう。愛娘の写真をおさめたロケットをお守りにするぐらいセーフティドライブには気をつかっていたし、会社的にも、模範ドライバと讃えるのに相応しい逸材なのだそう。なにより、例外はあるにしても、マニュアル車の構造上、ヴェイパロックは起こりにくいのだそう。よほどの不備があったか、よほどの非常識運転でもしないかぎりは、オートマチック車ならばいざ知らず、マニュアル車で起こるなんて考えにくいことなのだそう。

 しかし、実際、ブレーキは沈んだ。

 徐行とはいいがたい速度でコンビニへと突入して、たまたま居合わせた月乃さんを潰して停止した。内臓を攪拌され、反面、目立つ外傷は負うことなく、わりと綺麗な外見のままで、月乃さんは死んだ。

 死んだんだ。


同日 〜 2010/07/01 [木] 21:05
東京都新宿区西新宿
カラオケボックス・うたパルク


 まさか聞くつもりもない敦子の説明が、どんどんと耳に入るという理不尽。部屋の外から漏れてくる音楽はノイズとして切り捨てられるのに、本当に捨てたい音声ほどあたしの脳を支配したがる。犯されているような気持ちで、だからせめてもの反骨として窓の外をぼんやりと眺めていた。やや緑に乏しい3原色の、そろそろ歌舞伎町にお株を奪われつつある西新宿の灯たちを、あえて悠長に、気怠そうに眺める。

 なんでここにいるんだろう。

 おばあちゃんの時、メモリアルホールにいる時にも、そんなようなことを思った。そこにいるのがあたり前の環境でも思ったわけだから、今のこの感覚はまっとうだ。加えて、いくらなんでもこの場所は不謹慎だろうと思わないでもない。

 月乃さんが、死んだんだ。

 逝ってしまったんだ。

 この世界にはいないんだ。

 密談とはいえ、いくらなんでもカラオケボックスはないだろうに。

 でも、だからといって、あたしにはもうどうすることもできない。月乃さんの死の経緯を説明する敦子を遮る力もなければ、無関係なのに耳を傾けている来瞳を咎める力もない。つまり無力で、モスグリーンのソファの上に体操座りで、窓枠を支配するイルミネーションを漫然と眺めている。

「いったいなんのために深夜のコンビニにいたんだろうな、月乃さんは」

 来瞳にはわからないことだから、きっとあたしに聞かせているのだろうが、だけど敦子の問でこの胸は動かない。というか、あたしにはまだ彼女の素性さえもわかっていない。悪夢の中に出てくる女性だけに、確かに親近感が湧かないでもない。でも、彼女が月乃さんとどういう関係なのかも、そもそも何者なのかもわからず、同時に、興味を持とうとする気力が湧かない。

 もう、どうでもいい。

 あたしと、悪夢とは関係のない来瞳と、謎の女でしかない敦子の3人が、熱唱する予定もないのにカラオケボックスにいる。しかも、エレベータが苦手だという敦子の願いを聞き入れ、初夏だというのに進んで脇汗をかきながら階段をあがるという溌剌ぶり。ツッコミどころは天井知らずだが、それでもなお、あたしにはもう、どうでもよかった。悪夢のことも、たぶん、来年の春を待たずに死んでしまうことも。

「あそうだ。妙なメールがきたって話」

 反応のないあたしを諦めたのか、話題を来瞳にスライドさせる敦子。月乃さんとはかなり親しい間柄だったらしいが、しかし彼女に悼んでいる印象はない。淡白なのか薄情なのか、それとも熱血漢なのか。

「それってどんなメール?」

 まるで10年来の友達のような気安さに、特に気にする様子もなく、

「えっとね」

 来瞳は飄々と答えた。

「来瞳さんもすぐいくわ……だってさ」

「は?」と、あたしと敦子、同時の反応。だけどあたしの声は吐息まじりで、2人の耳には届かなかったらしい。

「誰から?」

 明らかに戸惑いながら敦子が尋ねるが、来瞳はまだ飄々と、

「わかんない。名無しのゴンベエ。だから“どちらさま?”って返信したんだけど、レスポンスはいまだになし」

 詐欺だったらどうするんだと、戦慄するようなアクションに簡単に打ってでるのが来瞳という女。

「それはいつの話?」

「1時間ぐらい前かな。病院に向かってる途中で、いきなり。ホントは舞彩を連れて帰るだけのつもりだったんだけど、なんかアっタマきちゃって」

「それが、なにと、どうリンク……?」

 確かに来瞳は、すべてつながっていると明言した。悪夢のことなど知らないはずの彼女が、あたかも、すべてを把握しているかのような口ぶりで。

 しかし彼女は、いたって冷静にいう。

「なんとなく」

「なん」

「勘っていったじゃん」

「あ……そ」

 来瞳の冷めた調子に、敦子はずいぶんと落胆をしたようだった。窓ガラスに映えるスリムなシルエットが大きく項垂れる。

 でもね……と来瞳。

「舞彩を脅かしている災いがあることも、舞彩を監視しているヤカラがいることも、あたしはとっくにお見とおしで」

 監視している輩?

「それはきっとアッちゃんも同じ境遇で、その、月乃さん?……て人も同じ境遇で、あげくのはてにはあたしまでもがおんなじ境遇に誘われてる」

「どうしてそう断言できるの?」

「@。ここ数ケ月間の舞彩の衰弱ぶり」

 綺麗だけど短い人さし指を立てる。

「A。ナオくん……舞彩のカレシが曰く、デートの最中に、舞彩が“彼には見えないもの”を目撃して半狂乱になったこと」

 喪服の少女を見た。

「B。その直後に、月乃さんの緊急事態を電話で知らされるや否や、半狂乱になったことなどどこ吹く風で駆けだしたこと」

 違った意味で半狂乱だった。

「そしてC。すべてリンクしているというあたしの台詞に、躊躇のない、むしろ期待するかのようなアッちゃんの態度」

 白状してもらうから場所を移そうと提案した来瞳に「あたしもいい?」と、帯同を申しでたのが敦子だった。

「クサすぎ。キナ臭すぎ。あたしってさ、幽霊とか心霊とかUFOとかUMAとか、有識者ぶったデスペラードどもが鼻で笑いそうなエレメントも、局面のファクタだとわかれば真剣に向きあうお利口さんでさ、真剣に向きあった結果、すべてがひとつにリンクしてる気がしてならないわけ。で、そのあげくにはご丁寧なことに……」

 そこでいったん切ると、来瞳は偉そうに脚を組み、偉そうに腕を組んだ。

「ゴンベエからのセクハラメール」



『舞彩さんもすぐいくわ』



 おばあちゃんの葬儀中、スッカラカンのあたしの前にあらわれた、喪服の少女。

 今日もあらわれた。

 ナオの背後にあらわれ、そのあと、瞬間移動するかのように遠く離れたガレージの中にもあらわれた。

 あたし、監視されてるの?

 で、なにを監視してるの?

「来瞳さんもすぐいくわ……か」

 嘲るようにいうと、敦子は膝の上に肘を休ませて、前のめりになった。

「あたしもソレ、いわれたことがある」

「え?」

 今度こそ、間違いなくあたしは声にしていた。でも、出入口のドアの窓ガラスから漏れてくる廊下の灯は頼りなく、無燈火の室内は暗いままで、敦子の反応を把握することは叶わない。

 この店を訪れて初めてだろう、あたしのまともな反応を特に気にする様子もなく、スタイリッシュな影は淡々とつづけた。

「確か、一昨年の夏だったかな。あたし、怖い夢を見たのね。それがさ、まだ会ったこともない父親を殴り殺す夢で」

 テーブルのまん中、ほとんど手つかずのジンジャーエールを凝視したまま。

「親を殺す夢、それ自体は、自立願望と、まだ叶わない現実との差が葛藤になって、衝動的なヴィジョンとしてあらわれるものみたいで、異常なことではないんだけど」

 あたしも、それは夢占いの本かサイトで読んだことがある。

「でも人を殺す夢なわけで、悪夢には違いなかったから、一気に夢から醒めて。でも夢なのか現実なのかがはっきりしなくて、だから、茫然と闇の空を見あげてて。で、ふと視線を横に向けたら……」

 ゆっくりと鼻から息を吸い、

「ベッドの外から誰かが見てて」

 ひと息に吐きだした。

「出たね」

 他人事のような来瞳の台詞を咎めるでもなく、鋭い顎を軽くうなずかせる敦子。

「髪の長い少女のシルエットだってことはわかるんだけど、でも、具体的に誰だかはわからなくって。そしたら、少しずつ影がこっちに迫ってきて、耳もとに……」

「敦子さんもすぐいくわ……?」

「寝惚けてたからアレなんだけど、確か、そんなような台詞だったと思う」

 すると来瞳は、

「アッちゃんって養護施設の出身?」

 話を脱線させた。急なことで、あたしは茫然と混乱するしかなかった。敦子もまた同様に言葉を失う。でもすぐに、

「あそっか。説明してなかったね」

 悪い悪い……と低い声で謝る。

「あたし、売春をやってた女の子供でさ、新宿のラブホで産まれたらしいんだよね。でも、そいつがウリを辞めらんなくって、育てられる能力がなくって、すぐ乳児院に入れられて。で、オートメーションで児童養護施設に流れついた、と。ちなみに今は里親のところでお世話んなってる……て、なんで施設出身ってわかったの?」

「会ったこともない父親……てところと、枕もとの人影に具体性を付随できる程度の冷静さがあったところ。だから、まぁまぁ特殊な環境下にいた人なのかなぁって」

「うん。6人定員のユニットケアだけど、基本、誰かがそばにいる環境ではあった」

 あたしにはノンフィクション小説でしか知りえないような内容なのに、あまりにも2人がアッケラカンとしているから、情報番組のコメンテータが眉をひそめるような重たい話には聞こえなかった。

「んで」

 相変わらず他人事のトーンで来瞳。

「その、謎の少女からのコールは、悪夢のつづきだとは思えなかった?」

 すると、うーんと唇を尖らせて、首筋を掻痒する敦子。

「あまりにも目の前に迫られすぎててさ、闇と同化しちゃってて。で、いつの間にか消えちゃってたんだよね。跡形もなく」

 再び前のめりになる。

「だから、さすがに最初は夢のつづきとも思ったんだけど、でも……」

「でも?」

「朝、ルームメイトの子がいうんだよね。昨晩、誰か部屋にきた?……って。だってアッちゃん、誰かと話してたよ……って。彼女とは2段ベッドを共有してて、彼女が下の段で、あたしは上なんだけど、なんか上から声が聞こえたって。あたしの声と、べつの声が。その他の家族も先生も、誰もウチらの部屋にはこなかったっていうし、彼女曰く、声が聞こえている時、ベッドのハシゴに足をかけている者はいなかった」

「わお」

 そりゃ典型的だね……と呑気にいって、来瞳はコーラのグラスを手にした。途端、雨垂れのような雫がグラスを滴り落ちる。黒いゴム製のソーサは水浸しだった。

 彼女に釣られてあたしもコーラのグラスへと手を伸ばしていた。でも、ち、小さく舌打ちをしてからすぐに引っこめる。もうどうでもいい、たくさんだと思いながら、しかしついつい2人の会話に耳を傾けて、あまつさえ釣られて喉を潤そうとしている自分自身に腹が立った。

 どいつもこいつも薄情すぎる。

 ソファから乱暴におりると、踵を踏んでローファーを履く。完全には履ききらないままで円卓をまわりこみ、憮然と見あげる2つのシルエットに、

「トイレ」

 ぼそっと残して乱暴にドアを開けた。

 途端に、廊下を支配していた有線放送の爆音が肌を叩いた。あたしの知らないそのロックは、ロックなのに幸せそうで、成功報酬に甘んじていて、ロックじゃなくて、ロックを模したポップスで、でもロックを気取っていてムシャクシャとした。乱暴にドアを閉めると、夕立から逃れるように、足速にトイレへと駆けこむ。先客はなく、すぐに雨宿りは叶った。

 尿意はなかった。とりあえずU字の蓋をあげると、ブレザスカートをぴんと張ってから便座に腰をおろす。

 どんな人の、どんな体温が宿ったのかも知れない便座。ただの物だと思わなければとても座れなかった便座に、今は躊躇なく座れる。スカートを履いてることはたぶん要因にはならない。その証拠に、あたしはさっき、ソファを乱暴におり、靴を乱暴に履き、そしてドアを乱暴に閉めた。

「偽ると縮まるって?」

 事故現場のコンビニ店員が敦子に伝えにきたらしいけど、それがどうした。

「もうどうでもいい」

 なにをどうしたって、月乃さんはもう、帰ってこないんだ。どこにもいなくなってしまったんだ。悲しむ頭・喜ぶ頭・笑う頭……月乃さんを彩るための頭が、もう機能しなくなってしまったんだ。完全に壊れてしまったんだ。

 膝を抱えるように、足もとを覗きこむ。

 踏まれた踵。

 初めてつけた折り目に、背中に這おうとする昆虫が1匹もいない。漫ろな気持ちにならない。異常事態でしかない。今までの人生、あれほどこの心を壊してしまわないよう、大切に大切に、物を壊さないように努めてきたというのに。

 きっと、今のあたしは理性的ではないのだろう。精神が圧し折れてしまっているのだろう。壊れてしまっているのだろう。

 ということは、今ならばきっと、

「触れられるんだろうな」

 でも、

「もうどうでもいい」

 大きなため息を吐く。

 蓋の背もたれに体重を預けた。

 両腕をだらしなく左右に落とし、そして顎をあげて、天井を仰ぐ。



“髪の毛”が覗きこんでいた。



 背後から、前屈みに、あたしの顔を。

「あ……?」

 ゴワついた、ヒジキのような髪の毛が、滝となって頭上へと降りそそがれていた。

 黒い視界。

 すると、



 ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ ぉ お お お



 つぼみだったものが早送り再生で花弁を開げるように、それでもゆっくりと視界が開けて、中央には、顎が上で、目が下で、まっ逆様の、

「ぎ」

 左半分の陥没した、

「ゃああああああああああッ!!」

 紅に染まった少女の顔面があらナオン。おーいーで!』

 メイレイすると、ナオンはナオーンってないて、ちょこちょこと、あたしのほうによってくるんだ。

 でもナオンは、あたしのテがとどかないところにまでしかよってきてくれなくて、あたし、きらわれてるのかなぁ。

『ちゃんと、ここ!』

 しゃがんで、なんどもなんどもジメンをたたいてメイレイするのに、でもナオンはナオーンってなくだけで、これいじょう、よってこないんだよ。

 ノラネコのナオン。

 クロネコのナオン。

 オヤのいないナオン。

 ちっちゃくて、とってもカワイイのに、さわれないからちっともカワイクないの。

 テのかかる、あたしのオモチャ。

 ナオンはミギのマブタにおっきなキズがあって、だれかとケンカでもしたのかな、ハンブンまでしかメをあけられないのよ。だから、だれともなかよくなれなくって、いつもひとりで、よべばよってくるのに、さみしがりやなくせに、だけど、いっつもさわらせてくれないの。

『それじゃあオトモダチできないよ』

 でもナオンは、ナオーンってなくだけ。

 しょうがないから、あたしはツナカンをおいて、そのばをはなれて、とおくから、ナオンがたべるのをみてるの。ムチュウになってたべてるのをみてるの。

 ちっちゃいカゲをじーっとみてるとね、なんだか、さわってないのに、さわってるみたいなキモチになれるんだよ。

『なつかれてもこまるだけじゃん』

 ゲンジツシュギのママはそういうけど、ナオンはあたしのオモチャだし、ちょっとむつかしいだけのオモチャだし、べつに、おウチのなかであそばなくったっていい。べつに、おそとで、ぷよぷよするみたいにてこずってるだけで、あたしはマンゾク。

『こまるもんか』

 ナオンにさわれたら、それであたしの、アタマをつかうゲームはクリア。だけど、ゴウインにさわったのでは、イミがない。ちゃんとアタマをつかって、ナオンのほうからさわられにくるように、しむけるのがゲームのダイゴミ。だって、あたしって、カクトウゲームがきらいだもん。アタマをつかわなくてもクリアできるゲームには、キョウミがないもん。センリャクをねってセカイをセイフクする、シミュレーションゲームのほうがすきなんだもん。

 なつかれるっていうのは、そういうことなの。なつかれたらゲームクリアだから、こまるのはなつかれるまでなの。つまり、なつかれてこまるってのはムジュンなの。

 わかる、ママ?

 だから、あたしは、だんだんとメイレイしなくなった。ツナカンでつってみたり、シタウチでキをひいてみたり、キノエダにティッシュのポンポンをつけてオユウギをさそってみたり。

『ヒジョウショクのイミ、わかってる?』

 そのうち「ツナカンキンシレイ」をママからだされて、しょうがなく、オサシミをぬすんだりもしたよ。ぬすみはハンザイ。でもあたし、まだヨウチエンセイだから、ザンネンながらタイホされません。

『ぬすんだユウキは、かうものよ?』

 ジョウにうったえかけたりもしたけど、でも、ナオンはなびかない。コウリャクのむつかしい、わるいコ。

 であってから3カゲツもたってるのに、あたし、さわれたことがなかった。

 ちょうどそのころだったかな。なぜか、いきなりパパがフンパツして、あたしに、ジテンシャをかってくれたの。ピンクの、オンナノコヨウの、ジテンシャ。いかにもオンナノコヨウですってかんじの、べつにカワイクもなんともないジテンシャャ。

 あたしのカンがただしければ、おウチのビヒンにシショウがでるから、ナオンからキョウミをそらすために、ママとパパとでキョウボウして、ジテンシャで、あたしをつろうってかんがえたんだよ。あたしってアタマがいいからね、オトナのアザトサはおみとおしで、だけど、ハンコウするのはゲイがないから、

『わぁ。ジテンシャ!』

 ちゃんとよろこんでおいた。

 さいしょは、アタマをつかうかんじじゃなかったから、ジテンシャにはキョウミがなかった。でも、のってみたら、ぜんぜんのれなくて、アタマをつかうかんじだったから、どんどんムチュウになった。コケてスリキズだらけになっても、おしえたがるママをムシして、ヨウチエンからかえってきてからヨルゴハンになるまで、アタマをつかいながら、コウリャクしてたの。

 ケガするカノウセイがあるだけ、ナオンよりも、てごわかったよ。でも、ちょっとのれたら、カタルシスがスゴくて、だからうれしかったよ。カタルシスってコトバ、しってる?

 ナオンは、もうしらない。

 すぐに、のりこなせるようになったよ。ナオンみたいに、あきてしまうのは、もうジカンのモンダイだだったね。

『マイ、スゴいじゃん。ヨウチエンセイでのれるなんてさ。あたしなんて、たぶん、ショウ4ぐらいだったよ、のれれたの』

 おだてがうまいね、ママったら。でも、たしかにあたしのまわりで、ジテンシャにのれるヒトなんてんて、いなかったかな。

 セカイセイフクって、こういうこと。

 ミンナよりもさきにできちゃうこと。

 コドクといううギセイは、ツキモノ。

 あたしは、ひとりで、カゼにのってた。ジテンシャをシハイしして、ダイシゼンもシハイしてたよ。あとは、そうだなぁ……ヨルゴハンのソラにうかぶ、オツキサマをシハイするぐらぐらいだったたかな。

 ツキ。

 どうすれば、シハイできるんだろう。

 コウリャクできるんだろう。

 さわわれるんだろう。

 さわるなんてブツリテキキにムリだっておもいながら、でもあたしは、あのヒももジテンテンシャにまたがてが、オレンジにかかがやくまんまるまいツキをめざして、はし、はしりまわまわってたてた。

 マンゲツゲツの、ゲツのヨルだっだったたたたたる。ツのヨルだルだた、。。

『あ、ろかから、』!』と、だナオオオン

 いきなる、あたの、メの、まに、メ、のままえ、メメのまメ、えに、メののまえまメメメメのま、のの、メのメのメのまのまえメのえのののメのまええのごメの、えのののメのののののののメきのののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののあののののののののののののののののののののっのののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののののの




 夜 用 は 高 ぁ い ぃ



「舞彩? 舞彩さぁん?」

「んぁ?」



 購 買 に 勇 ぅ 気 ぃ



 あたしの名前を呼ぶ声と、ごんごん……平たい物を叩くような重たい音、そして、ソリッドなロックが聞こえ、あたしは目を醒ました。

 白い、小さな部屋の中だった。

「舞彩、入ってる? 別人がイキんでたらゴメンだけども」

 来瞳の、籠った声が聞こえる。



 ハ ン グ リ ー 殺 ぉ せ ぇ



 おもむろに見渡す。左手に、トイレットペーパーがハメられてた。ご丁寧にも取りだし部分が三角形に折られてある。

「ああ、トイレか」



 端 金 で は
 靡 か ぬ 所 存 ぉ ん




 そういえばトイレにきてたんだった。

「便秘!? 大城舞彩、便秘!?」

「フルネームでいうな!」

 怒鳴ると、ドアのノックが途絶えた。



 ウ ェ ル カ ム ト ゥ
 世 界 ぁ い ぃ




「舞彩。カラオケボックスの便所は15分も籠城するような場所じゃないんだ。狙った獲物に狙われるための化粧をちゃっちゃとすませる女の戦場だとキモに銘じなさい」

「じゅ」



 パ ー リ ー は
 ブ ギ ウ ぅ ギ ぃ




「15分……も?」

「ああ!? 籠ってて聞こえなーい!」



 女 が 女 ぁ を ぉ



 籠ってるくせに来瞳の声はよくとおる。

 天井聖識の歌声にも引けを取らない。



 隠 し て 飾 る
 風 紀 を 愛 で ぇ よ ぉ




「出すものを出して出てらっしゃい」

「15分もあたし、なにしてた?」

 思いだせない。



 不 ッ 幸 ぉ な ぁ 女 ぁ



「痔になるよ」

「寝てた?」

 トイレで?



 小 ッ 悪 ぁ く 魔 ぁ 女 ぁ



「肛門に神経は集う」

「なんだっけ?」

 まったく思いだせない。



 一 ッ ち ぃ 途 な ぁ 女 ぁ



「血の物流がモノをいう」

「なんだったっけ?」

「停滞、それすなわち、痔」

「るさい!」



 選 ッ り ぃ 取 り ぃ
 見 ぃ 取 り ぃ




 集中力を殺がれて、乱暴に立ちあがる。危うく水を流しそうになるもどうにか思いとどまり、節水の2文字を脳裡によぎらせながら鍵を解く。

 金色のノブを倒して、ドアを開けた。

「痔ぃ痔ぃ痔ぃ痔ぃうるさい……」



 ど ッ い ぃ つ も ぉ
 あ た し ぃ




 闇だった。



 ど ッ れ ぇ か が ぁ
 あ た し ぃ




 ノブを握ったまま、固まる。



 ヴ ァ っ リ ぃ ア ス ぅ な
 あ た し ぃ




 誰もいない、先の見えない、闇。

 闇が

「早く出てらっしゃい」

「えッ!?」

 咄嗟にノブを手放してしまった。

 だって、ドアの向こうから、来瞳の声。

 そして、

 ご ん ご ん ご ん

 ノックの音と、天井聖識。

 でも、もう、



 い ざ ぁ
 指 名 さ ぁ れ ぇ た ぁ し ぃ




 ドアはもう、開かれている。



 オ ゥ イ エ ー



 ドアの中央を見つめる。

 瞬きもできない。



 源 氏 名 は あ た し ぃ



「んじゃあ、戻ってるからねー」

 やっぱり来瞳の声。それと、

「大丈夫なの?」

 遠くから、敦子の声も。

「予想外に元気そう」

「だったらいいけど」

 声が一気に遠ざかる。



 メ リ ッ ト い っ ぱ い
 強 気 に 見 え る ぅ




 闇しかないのに、ドアの裏側では2人の声がしてて、でも、遠ざかっていく。

 遠ざかっていくのに、闇には2人の姿はなくて、闇しかなくて、

「ちょ、待、待って」

 混乱して、ドアの中央に右手をあてた。

 い ー い

 軽々しい音をふり撒き、軽々しい角度を広げて、ドアが“向こう側”に消えた。

「く、くる、来瞳? 来瞳?」

 たわんだ声で呼びかける。でも、ドアの向こうには誰もおらず、ドアの裏側からも反応はなく、闇があって、でも天井聖識の歌声もある。



 見 え る 見 え ぇ る



 汗が、頬を伝う。

「来瞳? ねぇ、来瞳!?」

 泣いているような声になる。

 だって、闇。

 背後の、トイレの電灯をものともせず、それはそれ、これはこれと、ドライな闇が広がってる。

 1寸先が、完璧な闇。



 見 て て 見 え て て ぇ



「なんで。わかんない。どうしよ。来瞳。もうなんなの。来瞳? 来瞳ぇ!?」

 肩をすくめ、腕を抱え、内股で、上手に出せない大声で親友の名前を叫んだ。勘のいい女だから、ピンときて、踵をかえしてきてくれるのを期待しながら、どこに叫ぶともなく叫んだ。

「くぅるぅめぇッ!!」



 ご 破 産 な く ら い
 注 ぎ 込 ん で ぇ




「もう、もう、もうヤだぁ来瞳! 戻ってきてぐるめぇぇぇ!!」

 今度は涙が伝う。



 夜 明 け ま で に は
 乗 り 越 え て ぇ




 どこからが現実?

 どこまでが悪夢?

「だずげでぇぇぇ!!」



 オ ゥ
 見 え る 見 え ぇ る




 と……突如のことだった。



 見 て て
 見 え て て て て て




 ドアの裏でガナっていた天井聖識の声が音飛びをしはじめた。



 



 深く傷ついたCDみたいに。

「ヤ、ヤ、ヤ……!」



  てん てん てん てん



 回転数まで落ちていく。



 てん てん でん でん でん



 さらに厚みを増して、



 でん で ん で ょ ん で ょ ん



 引き伸ばされて、



 で ょ ん で ゅ お ん で ゅ を ん



 大地を這うように低い、



 ぎ ゅ を ん ぐ を ん ぐ を ん



 あの、



 ぐ を ん ご を ん ご を ん



 耳慣れた音になった。



 ご を ん ご を ん ご を ん



 機械室の、音

 どこの、なにかはわからない。たぶん、直接には聞いたことがない。でもたぶん、なにかのモータのような、ジェネレータのようななにかが収納されている、どこかの機械室のような音。

 システムを司る音。

 どんなシステムなのかは、わからない。詳しく教えられても、たぶん、あたしにはさっぱりわからない。油圧をうながして、ピストンをまわして、ボディを動かしたりするための、システムを司る音……としか表現しようのない音。



 ご を ん ご を ん ご を ん



 油圧ではなく、血液かも知れない。

 ピストンではなく、骨かも知れない。

 ボディではなく、肉かも知れない。

 システムではなく、脳かも知れない。



 ご を ん ご を ん ご を ん



 いつの間にか耳をふさいでいた。でも、この音をシャットアウトできない。もしや手が震えているから、すきをついて入ってくるのかも知れない。

 両脇をしめ、頭を抱えるようにして耳をふさぎ、内股で身を屈め、首から下を凝固させて、あたしはただただ周囲を警戒するだけだった。ははぁ、ははぁ……不規則な呼吸をいさめることもできず、右に左に、引っきりなしに眼球を泳がせる。

 ……停電?

 なワケない。トイレはついてる。

 ……分電?

 わかんない。あたし電器屋じゃない。

 でも、ドアを開けたら、闇だった。



 ご を ん ご を ん ご を ん



「くるめ」

 でもすぐに呼ぶのをやめた。まさかとは思うものの、万が一に“変なモノ”を呼び寄せないともかぎらない。目立った言動に走ることが無性に躊躇われる。

“どうしよう”

 ただそれだけに集中する。

 たぶん、いつもの悪夢の“発展型”だと推理したほうがいいと思う。だとすれば、どこかで“醒める瞬間”が訪れる。今まで醒めなかったことは1度もない。だけど、問題なのはここで、今まで、悪夢から目を醒ます直前のあたしは、必ず“失神に近い状態”になっていた。

 単に目がくらんだり。

 悲しくて意識が遠のいたり。

 絶望して意識が遠のいたり。

 窓枠の下敷きになったり。

 たとえわずかでも意識が薄れれば、神経衰弱すれば、それをスイッチにして、現実世界へと引き戻される。

「どうしよう」

 あたしの神経衰弱こそが、ただひとつの悪夢の出口。裏をかえせば、現実世界へと戻るためには、必ず“最悪に近い展開”を経なくてはならない。



 ご を ん ご を ん ご を ん



 過去のデータを精査する冷静さは皆無に等しいけど、経験則からいって、とにかく悪いことが起こる予感しかない。それは、あたしの望む・望まないには関わらない。

 悪いことが、起こるの?

 でも、

「どうしよう」

 その場に固まっているしか、術がない。つぶやいているしか、なす術がない。

「どうし」



 



 視界の右上。

 なにかが落ちるのが見えた。

 黒いなにか。

「もう、ヤだ」

 即座に経験則が働く。

「ホント、ヤなん、ですけど」

 ゆっくりと、落ちた先に目を移す。

 マーブル模様の、大理石の床。

「あぁ、もホントにヤだぁ……!」

 出来損ないの、クラウン。

 赤黒い、血痕。



 ご を ん ご を ん ご を ん



 いや、ペンキかも。

 わかんない。あたし塗装屋じゃない。

 だから、血にしか見えない。

「おねがいおねがいおねがい」

 余計な出来事が起きていないように祈りながら、引きつった顔で、怖々と上半身をふりかえらせる。そして天井を見あげた。



 ご を ん ご を ん ご を ん



 ヒビが走っていた。

 幾重にも枝分かれした、細かなヒビ。

 毛細血管みたいな、クラック。

 よく見るとそれは、向かいの壁を這い、床にまでおり、すぐにまた便器をあがり、便器と便座の隙間にもぐりこんで、そして排水溝の中に

「ち、違、う」

 1歩、室内から退く。

 真向かいの壁、蜘蛛の巣のようになっているクラックから、さらに枝分かれをしたクラックたちが、天井に向かって派生し、少しずつ、毒々しい触手を伸ばしていた。

 そう、逆だ。

 クラックが、よじのぼってる。

 上半身だけで便器の中を覗きこむ。

 赤黒い、血溜まり。

 あたしのじゃない。

 だって生理、まだ先だもん。



 ご を ん ご を ん ご を ん



「ヒビじゃ……ない?」



 た た た た た



 天井に伸びるクラック。その窪みから、黒い液体が滴り落ちている。

 いや、窪みじゃない。

 クラックそのものに“膨らみ”がある。黒い液体は、膨らみの中からじわりと滲みでてきたもの。

「けっ、かん」

 クラックじゃない。

 文字どおりの、毛細血管。

 便器の中から這いあがった毛細血管が、真向かいの壁をよじのぼり、天井を伝い、蜘蛛の巣を描き、黒い血滴を雨漏りさせ、さらに触手を伸ばして今、すでにあたしの頭上をも覆いつくしつつある。

 縦長の蛍光灯にまで触手が伸びている。白い光に透かされて、そこだけが鮮やかな紅となり、わずかに室内を赤く染めているようにも見える。

 雨漏りの、落ちた痕を見る。

 出来損ないのクラウンはすでに固まり、絹糸のような血管が触手を伸ばしていた。まるでカビのような斑点となってますます領土を拡大している。

 その時だった。



 ぢ ぱ ぱ ぢ



「ヤ。ヤ。ヤ!」

 毛細血管に支配されつつある蛍光灯が、突如、不規則な明滅をはじめた。途端に、あたしは絶望的予感に襲われる。

 まさか、ここも、闇に?



 ぢ ぱ ぱ ぱ ぢ ぱ



「ムリ。それ、ムリ……!」

 忙しく左右に頭をふりながら、あたしはもう半歩だけ後退りし



 



「ぎゃあッ!!」

 蛍光灯が破裂した。

 一瞬にして、闇。

 チラチラチラ……破片の撒かれる音。

 あたしは、腰を抜かして尻餅をつくと、勢いあまってひっくりかえっていた。

 上半身だけが、出たくもなかった部屋の外へと強制退去。



 ご を ん ご を ん ご を ん

 た た た た た



 後頭部に鈍痛。ひっくりかえった拍子にぶつけたようだった。

 右手で後頭部を押さえ、それを枕にして仰臥したまま、大股を開き、丸見えだろうブレザスカートの中身を、だけどどうすることもできずに、

「ぁ……ぁ……」

 ただ泣くしかなかった。完全な闇の中、もはや声も出せず、でも怖くて、でも疲れはて、だから喉の奥で泣くしかなかった。

 恩田病院を探険した時のような元気は、今のあたしには毛ほどもない。代官山から渋谷駅まで全力疾走し、病院の中をムダに動きまわり、体力を使いはたし、心も使いはたし、空っぽになって、そして夢遊病のように訪れたカラオケボックス。たぶん、本来ならば来瞳に担がれながら帰宅して、なにも手につかず、風呂に入れず、歯磨きさえもできず、釈放されたフォルムのままベッドに寝転がって、いつもの悪夢を見ているはずだったのに。

 この状態はなんだ?

 意味がわからない。

「ぁ……ぁあ……」

 号泣だった。無呼吸症候群の号泣。

 感情に、肉体がついてこられない。

 だって、困難に立ち向かうことも赦されなければ、諦めることも、無になることも赦されない。絶望的未来で戦意を失わせ、白昼堂々とあらわれては諦観をかき乱し、あげくには唯一の安息地だった現実世界にまで侵蝕の触手を拡げ、無になろうとするあたしを徹底的に阻害する。

 どうすれば赦してくれるんだ。

 理不尽すぎる。

 これじゃあ、ただの“呪い”じゃん。

“ただそれだけのもの”じゃん。

『呪いというのは理不尽なものだよ』

 いつだったか、来瞳が説明してくれた。あたかも自分がすでに幽霊になっていると嘯き、イジメたとする人々に向けて怨恨の数々を連ねる……そんな、物語として成立していない主観的なケータイ小説があり、タイトルは確か「僕を愛してくれなかった人たちへ」だったか、レビューは散々で、怨み節を公開したがる心理に興味の湧いたあたしはそれとなく、

『呪いってなに?』

 来瞳に尋ねてみたのだった。

 すると、彼女は迷わずにいう。

『呪いというのは理不尽なものだよ。ただそれだけのもの』

『ただそれだけのもの?』

『だって主観のきわみだもん。自分本位でなければ成立しないんだもん。他に対する憎悪はあっても、配慮なんてあるわけないじゃん。優しさなんてあるわけがないし、相手がどうなろうと知ったことではなし。つっか、むしろ相手には、自分と同じか、自分よりも酷い状態になってほしいと願うほどでさ』

『まぁ、確かに、怨んでいるわけだから、善意なんてあるわけがないか』

『つまり、相手や無関係の第三者からしてみたらさ、呪いなんてのは理不尽なものでしかない。ネガティブで主観的で短絡的で幼稚なもので。裏をかえせば、負の要素が不充分で、文学に富んでいたりするような表現手段のことを“呪い”とはいわない』

『観念的なものではないのだね?』

『そのとおりだワトソン君。呪いに対して道徳や倫理やマナーやエチケットを訴えたところでムダなのだよ。そうした観念とは対極のところで、みっしりと凝り固まって微動だにしないのが“呪い”なんだから。だって考えてもみなよ、例えば、リングの貞子に、人殺しはダメ!……そんな説教がつうじると思う?』

『結晶……かぁ』

『ご名答。第三者を理不尽な思いにさせるエレメントのみで構成された運動の結晶、それが“呪い”だ』

 そして、こう締めくくった。

『燃えるなと説教したところで、炎は炎であるより他にない。呪いも同じこと。ただそれだけのもの』

 とてもガールズトークとはいえず、本線からも大きく脱線してたし、だからなんの役にも立たない会話だろうと思っていた。それがまさか、こんなところで蘇るとは、夢想だにしてなかった。

 もしもコレが“呪い”ならば、あたしの気持ちなど知ったことではないんだ。どう抵抗しても、どう諦観しても、常に隣りに控えていて、ころあいを見計らっては容赦なくあたしに襲いかかるだけなんだ。炎が炎でしかないのと同じ、あたしにとっての“理不尽”に特化した、シンボリックな、あたり前の現象なんだ。



 ご を ん ご を ん ご を ん



 ……いや。

 ここに“意志”はないんだろうか?

 なんの“意志”もないの?



『死にとぅない……まだやのに……』



 本当にコレ、呪い?

“呪い”で合ってる?

 恩田病院の崩落の直後、脳裡を支配した少女の声がふと蘇って、あたしは泣くのをやめた。闇の天井を仰いだまま、芽生えた疑念を整理する。

 あの声は確かに、生きたいと切望した。死を拒んで、生を望んだ。そう聞こえた。

 そう感じた。

 生きたいという憧れや願いが固まって、こんなにも理不尽な展開を、容赦ない追いつめかたを、エゲツない光景を見せるものだろうか。殺してやる、苦しめ……そんな無差別な怨恨ならばまだ話はわかるけど。でもあの時、あたしの頭を支配した切実な思いは、生きたいというポジティブなものだった。少なくとも、マイナスを目指した台詞ではなかった。



『死にとぅない……まだやのに……』



 ある意味では当然のものだろう、人間であるかぎりは普遍のものだろう生に対する執着心が、こんなヴィジョンを生む?

 本当にコレ、呪い?

 悪夢も?

 あたし、なにか勘違いしてない?

 なにか“気づいてほしいこと”があるんじゃない? あるいは“知ってほしい”という意志が、秘められてあるんじゃない?

『知れば怖くない』

 おばあちゃんもいってた。

 そう、この光景は、切実だからこその、迫真のヴィジョンなんじゃない?



 ご を ん ご を ん ご を ん



「つき、の、さん」

 上半身をねじって手をつくと、下半身を引き寄せて、四つん這いになる。

 胸のポケットを探る。

 硬い感触。

 ポーチの封印を解く。

 携帯電話を取りだす。

 震える手で開く。

 ディスプレイに灯をともす。

「つきのさん」

 きっとこの場所こそ、悪夢こそ、パパのいっていた「此岸」なんだ。

“此岸の結晶”なんだ。

 此岸を歩む者として試されていたんだ。諦めずに、ジタバタと、乗り越える努力ができるのかどうかを。



『偽ると縮まる』



「ムダにしません」

 此岸の果てで、月乃さんは、その遺言にたどりついた。

 そして、託した。

 ならば、託されたあたしは、遺言のその先を目指さなくてはならない。

 努力をしなくてはならない。

 最後まで。

 最期まで。

「だから」

 左から右へと、覚悟を決めて涙を拭う。そして天高くにディスプレイを掲げると、

「月乃さん」

 絶望の闇の中に、

「あたしに……勇気をください」

“太陽”を射した。





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Nanase Nio




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