偽りのカレンデュラ 



 砂のように崩れ落ち、床に両膝をつくと同時、背後からあたしを抱き抱えたのは、痩せすぎだと嘆息される日もあるだろう、しかし、きっと誰よりもたくましい人なのだろう、小池敦子だった。

 背中には、柔らかな胸の体温。

 お腹には、細い細い腕の体温。

 首筋には、滑らかな顎の体温。

 なのに、昆虫が涌かなかった。

 心地よい。

 心地よいと、屈伏させられる。

 生きる……薔薇のプライドに。





敦 子
Section 3
誘 導ユウドウ





 でも、

「なんで、ここ、に?」

 そもそもこの世界は“あたしの悪夢”の延長線上にある世界なのであって、あたし以外の人間が入場することは、理屈としてありえないことなのでは?

「小池さん……なの?」

 自然、疑問は疑惑へと変わる。だって、扉を1枚だけ隔てて、カラオケボックスのトイレと恩田病院のトイレとを無理やりにリンクさせるほどの、馬鹿げた超常現象が起きている。今、目の前にいる小池敦子が幻覚でないとする保証はどこにもない。

 本当に、実在する敦子のほうなの?

 しかし彼女は、抱き抱える耳もとに、

「確かに疑惑はごもっとも。でもそれは、あなたが舞彩さんでない確率ともドッコイドッコイでしょ?」

 筋のとおったことをいってのける。

「あたしだって、こんなアホらしい世界に呼び寄せられたあげくに、まさか第三者と正常なコミュニケーションを取れるなんて思ってなかったから」

「呼び寄せられた?」

「いざなわれた……ともいう」

 心霊特番のナレーションのように勿体をつけていうと、ようやく、あたしのお腹を囲っていた華奢な腕をほどく。

 依然として昆虫は涌かない。


同日 〜 2010/07/01 [木] 22:41
恩田病院(裏)


 卒倒を免れたあたしは、固く目を瞑り、眉間に縦皺を寄せ、胸をさすりながら天を仰いだ。酸味と渋味でコーティングされ、猛烈な喉の渇きをおぼえる。腹や肩にも、筋肉痙攣がおさまった直後のような歯痒い乳酸の蓄積を感じる。壊滅的な倦怠感で、どこに視線を預ければいいのかわからず、立ちあがるだけで精一杯。この先にどんな艱難辛苦が待ちかまえているのかわかったものではないし、だったら、いっそのこと失神していたほうが楽なのかも知れない。

 そんな満身創痍のあたしとは対照的に、

「しかしまたスゲェ光景だな」

 なぜだか愉快そうな敦子のつぶやき。

「グロすぎ。臭すぎ。女でよかった。もし男だったら、まず臭いでノックアウト」

 いわれてみれば確かに、使用ずみの生理用品みたいな臭気に近いのかも知れない。しかも濃縮された臭気で、さしもの女でも明瞭な拒絶感は否めない。

 臭いから目をそらそうと、

「トイレから、きたの?」

「トイレ?」

「この、世界には」

 敗北者の呼吸で尋ねる。一方、挑戦的な微笑を浮かべて「階段からだけど?」と、相変わらずフットワークの軽い敦子。

「舞彩さんの帰りがあまりにも遅いから、もっかい来瞳さんとトイレに行ってみて。そしたらもうドアは開いてて、でも肝心の舞彩さんがいないじゃん。だからフロアをぐるっと探してまわって。でもいなくて」

 説明の最中、ジーンズのお尻のポッケを探ってフリスクのケースを取りだす。

「そしたら来瞳さんが、もしかしたら外にいるかもって、勝手にエレベータでおりていっちゃって……はい」

 ずいっとケースを掲げ、掌を出すようにうながした。釣られて右手をさしだすと、4個の顆粒。あ、どうも……ド低音で感謝すると口内に放りこんで潤す。

 なんだか遠足に向かうバスの中みたい。

「来瞳さんって、おっとりとした雰囲気によらず、思い立ったが吉日の人だよねー。だって一瞬にして置き去りにされたもん、エレベータの前に」

 その光景は、ありありと脳裡に浮かぶ。同時に、プリンを届けてくれた日の玄関も蘇った。

「ワンマンだもんなぁ、昔っから」

 解熱されつつある舌で応えると、敦子は「ふうん」と淡白な唇を突きだしてから、さらに経緯をつづける。

「でも、あたしもじっとしてられるタイプじゃないからさ。あとを追おうと思って、非常階段に向かったわけ」

 そこで台詞を切ると、左手に握りこんでいたらしいジッポーライタの蓋を立てた。絵柄までは把握できないが、細かな装飾の施されてあるシルバーのライタ。

 ぢ ゃ ふ ぉ っ

 根もとの太い、蒼炎をともす。同時に、タイミングよくあたしのモバイルライトが消えた。

 凪の中、蒼がゆらゆらと踊る。

 炎。

“それだけ”でしかない、確固たる存在。絶対的な安心感の存在。悪夢に対抗できる稀有な存在。おかげで、どうにもならない非現実の地獄の世界が、あっという間に、どうにかなりそうな現実の廃墟の世界へと落ちついた。

 考えられる頭も、復活の兆し。

「で」

 この人、喫煙者なんだろうか。

「階段を駆けおりてたらさ、そしたら急に停電になりやがって。すんげぇ焦った」

 いったい何歳なんだろうか。

「だから火をつけてみたら、いつの間にかあそこの……」

 背後の道を指さし、その指を、防火扉の右に向かってカーブさせる敦子。

「扉の向こうの廊下の、ずっと右の、突きあたりの階段フロアにいたってわけ」

 T字の交差点の先か。やはりあの開口の向こうには階段があったんだ。

 念のために、

「1階にはおりなかったの? 確かここ、2階か3階だと思うんだけど」

 尋ねる。あの“香苗の変”が起きた時に耳にした周囲の悲鳴を顧みれば、この階は少なくとも1階ではない。

 すると、敦子は、オリエンタルな美貌を渋くして、ほとんど存在しない眉毛を皺で表現。そして右の掌を扇いで「ムリ」と、ムにアクセントを置いて否定した。

「この階から下におりる途中で、ぶっとい血管が仁王立ち。アレを潰して進むのは、さすがに骨が折れるだろうね」

「潰……」

 物騒で気色の悪いことを簡単にいう。

「もとの階に引きかえしたり、は?」

「いちおう引きかえしてもみたんだけど、これもダメ。開けっぱだったはずのドアが閉まってて、しかもびくともしない」

 そして前を向き、

「残るはもうこのフロアの出入口しかないわけで、望むところだと思って、ひとまずまっすぐに歩いてきたんだけど、そしたら奥から、ぼそぼそと声がすんじゃん?」

 あたかも散歩するかのような歩調で前進すると、あろうことか天井から垂れさがるひときわ太い血管の腹をぺちぺちと叩いてみせた。その信じがたい暴挙に、あたしはぎょっとして固まるしかない。

 しかし、敦子は依然として強気なまま、首の関節を鳴らしてからいう。

「あたしさ、てっきり、ついに香苗が出てきやがったな……とか思っちゃったよ」

「はッ!?」

 自分のものとは思えない、素頓狂な声が口をついて出た。

「カナエ?」

 なんで敦子がその名前を知ってる?

 というか、この人って、

「洗いざらいに吐いてもらおうと思って、ちょっとだけわくわくしたんだけど、でもそこにいたのは舞彩さんだった」

 この人って、何者?

 東都医科大学病院における目まぐるしい出来事もあれば、この、孤独な状態からの解放に絆されたというのもあって、敦子に対して、一方的な親近感を抱いてしまっていた。それに、なにしろ月乃さんとも仲がいい様子だし、まるで、美園ママに対するような親近感とでもいうか。

 だけどあたしは、小池敦子という女性について、実際にはまだなにも知らないままなんだ。出身はどこで、年齢はいくつで、月乃さんとどのような関係にあって、なぜここまであたしに関わろうとしてて、なぜあたしの悪夢に登場するのかの、すべてについてを。

 ……あれ?

『舞彩さん』?

 思いだした。

 今日の昼、ナオとのデート中に美園ママから電話があり、心労で倒れてしまって、その直後に、ママに代わった敦子の台詞。

『あなたが舞彩さん?』

 なぜ、あたしの“本名”を知っている?

 月乃さんに聞いた?

 いや、それはない。だって、月乃さんがあたしの本名を知らないのだから。ずっとあたしのことを「雨音さん」……ハンドルネームで呼んでいたのだから。

 美園ママに聞いた?

 それもまた考えられない。だって、月乃さんが知らないのに、美園ママに知られるわけもない。彼女も月乃さんと同様、紹介されるままの「雨音さん」と呼んでいた。源氏名で呼んでくれていたんだ。

 初めて声を交わした時、敦子は唐突に、あたしの本名を口にした。知るはずもない人が、当然のように口にしたんだ。

 しかも、そんな彼女の口から「香苗」という名前まで飛びだす始末。

 小池敦子。

 この人って、何者?

「あの……」

 低吟するように問う。

「香苗って人、知ってるんですか?」

 すると敦子は、にやりと、意地悪そうに笑んだ。勇猛そうな常態の何倍も似合う、クレバな少年の笑み。

「やっぱり舞彩さんも知ってるんじゃん、香苗のこと」

 そして、こんなことを尋ねる。

「悪夢の中の恩田病院には、もうとっくに行ってるんでしょ? どこまで行った?」

「え?」

 まるでテレビゲームの進捗を探るような口ぶりに、思わず面喰らう。

「どこ、まで?」

「あたしは、いちばん行けた時が、確か、このあたりだったかなぁ」

 小首を傾げて、自分の足もとを指さして小さな円を描く。

「ここまでは来れるんだけどなぁ。でも、なにもできずに潰されるってのが怖くて、これがなかなか、思うように足が」

「悪夢って、あの、ええと……」

「カレンデュラの悪夢」

「見てるんですか!?」

 責めるように問うと、敦子、きょとんとした顔で沈黙。しかしすぐに「熱ッ!」と叫んでジッポーを右手に移しかえ、慌てて蓋をして闇にしてしまった。

「ライト、つけてもらえます?」

 オーボエのオーダに、モバイルライトを再点灯。毒々しく鮮やかな非現実の世界が蘇り、血と脂の悪臭までもが蘇ったよう。それから反吐した羞恥心の塊も、ついでに視界のはしに蘇っている。

 ジッポーの角をつまんで扇いで冷まし、特に動じるでもなく敦子、

「舞彩さんは“夏”って人、知ってる? ケータイ小説を書いてる人なんだけど」

「ナツ?」

 話を脱線させた。

 知ってるもなにも、ホームページにまで探りにいったことがある。

「まぁ、月乃さんからは聞いてますけど」

 周囲に目を奪われないよう、敦子の胸のあたりを凝視しながら答える。

 ぜんぜん大きくない胸。

 あたしといい勝負。

 つまり月乃さんの圧勝。

「あたし」

「は?」

「その“夏”ってのが、あたし」

 照れ臭そうな苦笑の頬をかいて、彼女は首を項垂れた。

『夏さんという作家さんともコンタクトをとってるんです。彼女も似たような状態にあるらしく……』

「……マジで?」

「そういや、まだ自己紹介してなかったんだよね。なんだかそれどころじゃなかったからさ、今日は」

「小池さんが、夏さん?」

「初めまして。雨音シトトさん?」

 あたしに恭しく一礼してみせると、頭をあげる勢いでぐるりと背中を向け、またも血管の氷柱をぺちぺちと叩いた。

 ……ホントに彼女が「夏」?

 あ、そういえば、

『大城舞彩が“雨音シトト”であり、小池敦子が“夏”であるように、高梨陽子にも“月乃”である理由がある』

 そんな台詞を病院で聞いた気が。

 今さら、なんとなく思いだした。

 確かにそれどころじゃなかった。

 だけど、それが真実だとしても、

「あの、じゃあ、あたしの本名を、どこで知ったんですか?」

 その疑問は解けない。

 ところが彼女は、

「悪夢の中」

 つぶやくようにいった。

「え?」

「ぜんぶ来瞳さんが語ってくれた」

「え? え?」

 余計に大混乱。

 しかし敦子は、

「それはまた追い追いに説明する」

 細いウエストに左手をあてると、上体を傾げ、氷柱の向こうを覗きこんだ。

「なるほど、確かに、お互いにわからないことのほうが多いんだよね。なにから説明すればいいのかがわかんないぐらい。でもとりあえず、そろそろさ、ここからの脱出方法を考えない?」

 それはそうだ。こんな環境にいたら混乱するのはワケがなく、そしてキリがない。脱出してからのほうが順序を追って冷静に話しあえるに決まっている。

「でも、出られるんですかね?」

 無遠慮な敦子のおかげで、さっきよりもこの環境に慣れてきはした。でもそれは、漠然と視野におさめていられるからマシでいられるというだけのお話。相も変わらず床なんて見られたものではないし、それにフリスクの効果が切れつつある今、一帯を支配する悪臭からは一刻も早く逃げたい。

「脱出のあてはあるんですか?」

 とても高い所にあるスレンダーな背中を凝視しながら尋ねると、どうだろうね……まるで他人事のようなレスポンス。

「でも、香苗の独居房に導かれていることだけは確かな気がする」

「独居房?」

「旧入院棟に隔離されてたって噂だから、独居房みたいなもんでしょ?」

「その噂は、どこで?」

 あたしの情報源は如璃だ。しかし敦子は「それも追い追いね」とはぐらかした。

「たぶんこの奥。この廊下の突きあたり、向かって左の部屋が独居房」

「そうなんですか?」

「たぶんね。だって、悪夢の恩田病院で、その部屋から奇声があがって」

「念動力の暴走で崩落した?」

 あたしの台詞に、ちらりとこちらをふり向き、清々とした口角をつくる敦子。話が早いねぇ……と、なんだか嬉しそう。

「だとすればなおさらに怪しいっしょ?」

「まぁ、確かに」

 あたしの相槌と同時にライトが消えた。待ってましたといわんばかりにタイミングよく、ぢゃくん、ジッポーが点灯。

 紅色に馴染んだ、褐色の肌。

 似合ってる……そう思った。

 たくましさに対する憧れかも知れない。

「じゃ行きますか」と、やっぱり軽々しくいって敦子は1歩を踏みだした。出遅れの焦りに衝き動かされて、あたしも1歩を。

 彼女の勇気が真似できない。

「怖くないんですか?」

 細い太ももの影を踏みながら尋ねる。

「怖い?」

「この世界が」

 すると敦子は、

「10歳ぐらいの時だったかな」

 子守歌のように蕩々と話しはじめた。

「暇だったから乳児院に遊びにいったの。母校に凱旋って感じで。そこで餓鬼どもをアヤして、で、誼で泊めてもらえることになったんだけど」

 そういえば、施設の出身だったか。

「深夜2時ごろ、トイレに行きたくなって目が醒めて、で、トイレをすまして寝床に戻ろうと玄関をとおりかかったら、先生が飛びだしてきたところで」

「先生?」

「保育士の先生」

「なにがあったんですか?」

「宿直室のブザーが鳴ったらしい」

「ブザー?」

「赤ちゃんポストのブザー」

「赤、ちゃん……?」

「ポストに“投函”されるとね、自動的に宿直室の呼びだしブザーが鳴るんだよ」

「てことは?」

「投函されてた。しかも……」

 そこで、たくましい声がくぐもった。

「もう死んでた」

 背筋が、騒ぐ。

「血塗れの新生児だった。男の子だった。スポーツ紙に包まれてた。血は乾いてて、カピカピだった。すでに息をしてなくて、みんなが総出で蘇生にあたってた。深夜にばたばたして、あたしは部屋のすみっこで茫然としてた。なんにもできずに、茫然と見てるしか術がなかった。でも彼、少しも息を吹きかえさなくて、泣きだす先生までいた。しばらくして救急車がきて、病院に運ばれて、そして……」

 牛歩。だけど、歩いていないよう。

「彼は戻ってこなかった」

 ずっと敦子の背中を見ていたから。

「その朝の帰りぎわに、先生がいうんだ。アッちゃん、あれが現実よ。あなたたちはこの現実の中で息をしてるのよ。だから、誰よりも“命”を考えられる人でいてね。あの子の命を、短く終えてしまった命を、長く長く考えてあげてね……って」

 そして敦子は、本当に歩みを止めた。

「あたしも捨てられた人間だ。でも、今は幸せだと思ってる。だから、親がいないと子供は幸せになれないっていう決めつけは嫌いだ。幸せは誰が決めるものでもない、自分で決めるもので、あたしはちゃんと、幸せに生きてる。自分で決めていられる。だってあたしは、生きてるから」

 肩が、厳つく見える。

「育てられないのなら産むなという表現はもっと嫌いだ。だって、その表現の中には“産まれてきた子供”が介在していない。産まれてきた子を無視して、産んだという親の決意ばかりを否定してヒステリックに嘆いてる。実際に産まれてきた子の立場がないじゃん。命が報われないじゃん」

 怒ってる。

「だって、あたしは、産まれたんだ。もう変えようのない事実なんだ。この事実は、呼吸をしている“あたし”は、誰にも否定できない。誰にとっても肯定するしかないもの……それが“命”というものなんだ」

 すうっ。ひとつ、息を吸うと、

「なんで生かして届けなかった!?」

 一気に吐きだした。

「彼は、産まれたのに、幸せも不幸せも、肯定も否定も考えられない。生きたいとも思えないし、死にたいとも思えないんだ。彼のそんな命が……なんにもさせてもらえなかった命が、あたしに痛みをくれるし、悲しみをくれるし、恐ろしさをくれるし、そして、怒りさえもくれる」

 あたしは、小さく固まろうとする敦子の左の拳に意識を奪われていた。せっかくの綺麗な指が自らの握力に潰されて、悲鳴をあげているかのように見える。

「あたしにとっての恐怖とは、なにもすることなく“終わらせられてしまう”こと。そうやって終わった命があたしにとっての恐怖で、唯一、あの日の彼だけがあたしにくれる大切な感情」

 そして「なにが怖いもんか」と笑った。

「あたしはまだ生きている。考えて、行動できるチャンスがある。香苗だって、そうするように導いてくれている。たとえこの先で死んでしまっても、チャンスを拾っていられるだけ幸せなことなんだ。あの日の彼がこの胸の中にいるかぎり、こうやって前進できているだけであたしには……」

 泥臭くて、綺麗だ。

 美しくて、気高い。

「怖いものがあるはずもない」

 力強くいい、再び敦子は歩きはじめた。

 さっき、再会の時、彼女に背中から抱きしめられ、確かな体温を感じた。なのに、不思議と昆虫の涌く気配がなかった。幼いころから、ずっとあたしを苦しめつづけてきた“ごぢょごぢょ”の昆虫が、1匹も。

 今、その理由が少しだけわかったような気がする。

 あたしごときで、小池敦子という人間は壊れないんだ。もしも壊してしまったらというあたしの弱音なんて、絶対に彼女には通じないんだ。それほどの確固たる信念が彼女にはあり、気配として、芳香として、圧力として察知したあたしの体温のほうが敗北を認めてしまったんだ。ナメるな……昆虫たちが制圧されてしまったんだ。

 この世に、そんな人間がいただなんて。少しパラダイムの揺れる驚きだったけど、同時に、新鮮な希望でもあった。前向きになれそうな、ほつれていた胸の中が、また正しく編みなおされているような感覚。

 チャンスを拾う……か。

 たとえ残りわずかな人生でも、確かに、拾うことぐらいはできるのかも知れない。そしてそれは、敦子のいうとおり、怖がることではなく、むしろ幸せなことなのかも知れない。

 手がかりを拾う……月乃さんの“先”を見るための手がかりを。

 すると、

「なんてね」

 鼻で笑って、敦子の自虐。

「エレベータを怖がってる人間のいう台詞じゃないんだけどね」

「それは、悪夢の?」

「だって、あのエレベータって卑怯だよ。なんにもさせてもらえないし、とはいえ、なんにも起きないわけでもないし。自分が無力に思えてくる空間なんだよね」

 確かに、犯されているような気になる。

「無力って嫌い」

 前方の闇にかすかな光の反射が見えた。しかし、かまわずに彼女はつづける。

「風邪を引いて熱を出した時に頻繁に見る夢があってさ、それが、赤ちゃんを抱えてアヤしてる夢なんだよ。一方的にあたしが喋りかけて、歌まで謡ったりして。でも、赤ちゃんの顔をよくよく見てみたら、実はその子、死んでんの」

「死」

「なんとなくヤな予感はしてるんだけど、でも夢の中のあたしは疑いもせずに、喋りかけたり謡ったり。それで、しばらくして赤ちゃんが死んでるって気づいて、猛烈な無力感に襲われて、そこで目を醒ますの。まぁ、ここ最近は、カレンデュラの悪夢のおかげで見れてないんだけどね」

 良いんだか悪いんだか……ボヤきながらジッポーを高くかざした。

「お、終点かな?」

 急にトーンを低くする。

 倣って敦子から目を放す。ひさしぶりに赤系統の世界を見渡した。

「……あぁ」

 深いため息が出た。

 例えるならば、樹齢数千年の大樹、そのウロの中にいるようだった。

 目の前には、さっきよりも豊かに肥えた血管のアーチ。廊下の面影は微塵もなく、もはや壁と天井の境目も読み取られない。どくどくと確かな鼓動を打つ様子からは、風の谷のナウシカに出てきた巨神兵の繭を髣髴としないでもない。

 床は……形容する気力さえも萎えるほどだった。釣具屋で大量のミミズを購入して顕微鏡で拡大すれば、こんな感じだろう。

「なんのイメージなんだ?」

 その床を満遍なく見すえて敦子がいう。あたしはもう見ない。

「病巣のイメージか?」

「病巣のイメージ?」

「ここが香苗の精神が具現化した世界だというのなら、彼女のイメージしたなにかが封じられていても可笑しくない」

“迫真のヴィジョン”なのではないかと、確かにあたしも思ってた。それに加えて、ミクロ化して体内を歩いているかのようなこの感覚……。

「香苗って、不治の病だったんですよね。なんの病気だったんですかね?」

「脳腫瘍って説があるけど」

「脳腫瘍」

「行かないとわかんないのかもなぁ」

「行くって?」

「岐阜県の神榁に」

 そうして敦子はあたしをふりかえって、にっと笑った。

「どのみちあたしと舞彩さんと来瞳さんの3人は、そう遠くない未来、神榁とやらに物見遊山にいくらしいんだけどね」

 それは、悪夢のお告げ?

 あたしの場合は、敦子のお告げだった。

『来瞳と3人でいった岐阜県は、神榁は、怖かったけど、会えなかったけど……』

 怖かった?

 会えなかった?

 敦子が怖がるようなことがあったの?

 で、誰に会いにいったの?



 ご を ん ご を ん ご を ん



 ああ、そういえば鳴ってたな。

 天井聖識の音飛び。

 この音ももしや、香苗のイメージの産物なのだろうか。この音を聞きながら、感じながら、生活していたのだろうか。なんの音なのだろうか。実験機材の音だろうか。それとも、もっと別のなにか……?

「悪夢の中を旅してるだけじゃあ、きっと真実にはたどりつけないのかもな」

 シルバーアッシュのボブをかきあげて、敦子が独り言のようにつぶやく。

「否が応にも行くのかしらん、岐阜に」

「真実、か」

 なにをもって「真実」なのか、どう定義すればいいのか、さっぱりとわからない。月乃さんの“先”がそうなのか、それとも香苗の実像がそうなのか、さっぱり。

『偽ると縮まる』

 悪夢の謎なのか。

『死にとぅない……まだやのに』

 香苗の謎なのか。

 どれもなのか。

 どれでもないのか。

「コレだな」

 あたしの思考を遮り、敦子は、向かって左にジッポーの灯をそそいだ。太い血管でできているウロが、1ケ所だけぽっかりと口を開けている。

 口内には開き戸が……観音扉があった。右の扉にはノブがついており、それ以外になにもない。左の扉には曇ガラスがはめてあり、それ以外になにもない。ちなみに、左の扉は固定タイプだと思う。この側面に設けられるT字のロックを床の穴に落としこんで固定するカラクリであり、こういう施錠システムを確か「フランス落とし」という。なぜベルギーやイギリスじゃなくてフランスなのだろうと、本か雑誌で知って素朴な疑問に駆られた記憶がある。

「やっぱり誘われてる」

 敦子は、スクワットで扉を調べている。得体の知れない物を見たくないあたしは、扉と敦子の背中を漠然と見ている。

「この扉にだけ血管が張られてない」

 彼女のいうとおり、その扉には毛細血管すらも触手を伸ばしていなかった。自然な物を探しあてるほうが難しい世界ながら、あまりにも不自然な扉。

「入れってことか?」

「でも罠だったら?」

「他に出口があると思う?」

「もう探す体力がないです」

 入るしかないらしい。

 いつもの、悪夢のエレベータと一緒だ。なんにもさせてもらえなくて、でもきっとなにかが起きる。すでに起きてはいるが、これ以上の脅威が絶対に待ちかまえてる。

 選択肢のないこの窮地の最中、あたしはふと、あるいは敦子ならば悪夢の少女……紅のワンピの少女に触れたことがあるかも知れないと思っていた。胸ぐらをつかみ、髪の毛だらけの顔を覗きこんだことがあるかも知れないと、彼女の素顔を見たのかも知れないと、気休めのように思っていた。

 敦子は、どこまで把握してるんだろう。

 あたしは、まだなんにも知らない。情報不足のままに誘導され、情報不足のままに脅迫されている。あげくフランス落としがどうのと思ってみたり、敦子が少女を恫喝している様子をイメージしてみたり。

 無力にもホドがある。

 いや、無力なのは、単に自分のせいだ。単に、あたしに行動力がないというだけの話で、勇気がないというだけの話で、でも無意味な蘊蓄に逃げる立派な瞬発力だけは備わっているというだけの話だ。

 敦子のいう無力とは意味が違う。

 またも、自信がなくなりかけた。

 月乃さんの“先”なんて、夢のまた夢のような気がしてきた。

 胸は、たぶんまだ、ほつれたまま

「あ!」

 大事なことを思いだした。

 フランス……胸……。

 ワイシャツの胸ポケットに右手を挿す。分厚い四つ折りの紙を触診。そして敦子を呼ぼうとするも、すでに彼女は扉のノブを握っていた。

 暗黒を封じる曇ガラスを見つめたまま、華奢な背中がこんなことをいう。

「舞彩さん、知ってる? これはあくまで彼女からの情報にすぎないんだけどさ」

“彼女”?

「香苗って、真実に近づけば近づくほど、その人の目の前に頻繁にあらわれるようになるんだって」

「え?」

「まっ黒な礼服の姿で、頻繁に、思わないところからあらわれるようになるらしい」

 まっ黒な礼服の姿?

 頻繁に?

 真実に近づけば近づくほど?

「そうやって、真の真実にたどりつくまで離さなくなるらしい」

 真の真実?

 離さなくなる?



『お命が続くまで離しません』



「それが香苗に認められた証なんだって。で、離さなくなる代わりに、真の真実へと導いていくんだって。その真実がどういうものなのかは、もちろんわかんないけど」

 あらわれてる。

 今日、代官山で。それから、もう1度、どこかで見たような気もする。

 そう、あらわれてる。

 香苗に認められた証?

 なにを?

 なにを認められてるの、あたし?

「この扉を開けたら、ウチらの目の前にもあらわれるようになるのかね?」

 胸に手を挿したまま、あたしは固まっていた。あの“実験者”の名前もどこかへと吹き飛んで、トルソーのように動けない。

 しかし、

「ま、いくらでもあらわれてみろっての」

 強気な敦子はノブをまわすと、

「そいつもエレベータの香苗みたく……」

「ちょ、待っ」

「顔が陥没してたりしてね」

 とうとう、手前に、一気に引いた。



 紅の液体が吹きだした。



「なッ!?」

「ぉわ!!」

 待ちきれなかったかのように勢いよく、扉の中から、大量の、しかも真紅の液体があふれてきた。室内に充満していたのか、その量はプールをひっくりかえしたほど。

 鉄砲水……いや、鉄砲“血”。

 咄嗟に敦子が閉めようとするも、激しい水圧に敗れ、いとも容易く飲みこまれた。

 粘り気のある、真紅の液体。

 錯覚?

 しかし、一瞬にしてかき消される炎。

 なにが起こったのかもわからないまま、た





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Nanase Nio




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