偽りのカレンデュラ 



 それからあたしは、渋谷駅まで駆けた。

 何度も何度も膝に手を置いて休み、腰に手をあてて歩きもしたけど、息をつづけていられると確認次第、すぐに駆けた。

 フェンス越しに駅のホームを見渡せる、長い長い車道。スマートフォンを操る黒人男性や、カキ氷をかきこむ男子高校生や、噂話に花を咲かせるギャルママを不細工に追い越す。そして何度目かの休憩に仰いだ渋谷の天空はとうの昔に、絶えない明日を孕ませる偉大な夜となっていた。

 見慣れた夜景が、やっぱり馴染まない。





月 乃
Section 5
霊 安レイアン





 無心のまま、新宿駅に到着。渋谷駅までダッシュした革命的な疲労もあり、もはやスムーズに思考を機能させられる状態ではなかった。ピクトグラムがヒエログリフに見えてならない。

 件の病院の最寄り駅が新宿駅ではないという危惧もある。新宿区の規模もさることながら、区内を走る電車の数も豊富だし、乗りかえるのならば合理的に動かなくてはならない。こんなヒエログリフの肉体で、はたしてそれが可能だろうか。

 ひとまず、南口の改札につながる階段を這うようにしてあがる。改札を出、ガラス張りの案内所で詳細を尋ねる。都庁方面に向かって徒歩15分……駅員の案内を受け、地図でも確認。凄まじい遠距離に感じた。

 さすがにもう走る体力はない。徒歩でも苦難のよう。やむなく、南口を出てすぐにタクシーを拾う。小銭以外には5千円札が1枚だけしかなかったが、ここまでくればさすがに足りると踏んだ。

 たぶん生まれて初めての、ひとりきりで利用するタクシー。お持てなしを心がけた倫理的な車内だが、仄かながらも宿命的な運転手の加齢臭が却って引き立っていて、マンツーマンである状況が怖くもあった。

 恟々とするあたしにかまわず、黒い車は西口のロータリに滑りこむ。スバルビルの前を通過してすぐの交差点で左折。直進も間もなくに大通りへと出た。

 出て、ふと右手をふりかえる。

 まばゆい都会の闇の中、見たことのある門扉もまた賑わいの灯をともしている。

【Loafaway】

 ミルキーな声・女性的な身体つき・隠しきれない面皰・縦に線の入った爪……そのどれもに生きている証を感じたあの日を、顧みるも束の間、慣れたようにタクシーはそのスピードを落とした。

 現場は間近か。

 でも、多忙の窓や繁忙のネオンサインに絆され、この夜景のうちのどれが病院か、あたしにはとても見わけがつかない。


同日 〜 2010/07/01 [木] 18:57
東京都新宿区西新宿
東都医科大学病院


 手間取りながら710円を支払う。車をおりる肉眼に、ようやくそれらしい外観が飛びこんできた。とはいえ、どこに看板があるのかも探しあてられないほどの巨大な要塞で、思わず警備ロボットに射殺されるSFを連想する。

 東都医科大学病院。

 セレブの悪趣味かと思うほど間口の広い門を抜ける。反面、数えるまでもない台数しか恵まれていない寂しい駐車場を斜めに縦断。視界の右はしに小さな守衛所を望みつつ、ここ以外にないでしょうと皮肉らんばかりに立派な玄関を目指す。

 そのガラス越しに、医師や看護士の姿が見て取れた。しかし、患者や介護人の姿はなく、もしやとっくに外来時間は終わっているのかも知れない。

 自動ドアを抜け、オレンジ色の灯が籠る風除室に進入。熱中症警戒のPRや保険料の構造を紹介するポスタが左右の壁に並んでいる。さらにもう1枚の自動ドアを抜け、蒼白い待合室に到着。そのあまりの広さに逡巡が色めき立つ。

 ところが、広さとは裏腹に、ミカン色のベンチの上にはたった5人のお年寄りしか座っていなかった。診療か処方箋なのかはわからないが、なにをするでもなく背中を丸めて静止したまま、信じるより他にないプロのアナウンスを待っている。

 広大な待合室に、命の揺らぎさえもない小さな5つの背中。遠近感が狂ったような不気味な錯視をおぼえる。

 ひとつ、濁音を立てて唾を飲み、受付と示されてあるカウンタへと向かう。

 さっそく、

「どうされました?」

 声優養成所に入門したばかりのつくったような細長い声で、年齢不詳の女看護士が問うた。こちらを見たのは一瞬で、あとはパソコンに見入ったままの機械的な質問。

 怖々と答える。

「あの、こちらに、月乃さん、という人がきてると思うんですけど」

「お見舞いですか?」

「こちらにいると、聞きまして」

「緊急ですか?」

 緊急なのかどうかもわからない。なにが起きているのかもわからなければ、ここにいるのかどうかさえも疑わしい。

「知人から、急に、電話が」

 しどろもどろになりながら、答えられる最大限の台詞を絞りだす。過剰なメイクで屍人のような肌色になっている看護士は、やや眠そうな目とぽかんとした口で静かに聞いていたが、途端、仕事人のような引きしまった顔をすると、

「お待ちください」

 突き放すトーンでいい、しかしわずかに前のめりになって、

「ツキノさん……ですね?」

 左の眉を傾け、鋭い視線で尋ねてきた。発作的に目をそらす。かろうじて顎を縦にふってみせると、看護士は再びパソコンと向きあった。

 待合室の、刺すほどに強く焚かれている蒼白の電灯、その脇の受付にも関わらず、パソコンのディスプレイの光のほうが強く彼女の顔面に映えている。南亜の超深海にしか棲息しないという稀少な発光深海魚の薫製を煎じて飲まされたせいで勝手に顔が発光するという残念な副作用に見舞われてしまった可哀想な女……と関係ないことを思った。そして、やはり白は光を反射する色なのだという科学を感じた。

「ツキノさんで間違いない?」

 妄想を遮断して、相変わらずパソコンに見入ったままの看護士が再確認。

「苗字はわかりますか?」

 と、ここでようやくあたしは「月乃」がハンドルネームだということを思いだす。これでは、どんなに検索をかけたところでわかるはずもない。

「ああ、いえ、あの」と取り乱す。またもぽかんと見あげる看護士。

「すすいません。あのぅ、その、ええと、ツキノというのは、諢名でした」

 だからなんだということを釈明。当然、ぽかんが止むはずもない。

 焦る。困った。恥ずかしい。弱った。

 助言もなく黙って見あげている彼女に、オノマトペにもならない呼吸音でひときわ激しく狼狽していると、

「あたしの知りあいです」

 背中に、深みのある声がかかった。

 わずかに空気の混じる、

「たぶんですけど」

 オーボエの声。

 目をむいてふりかえる。

 入口を背にして、いつの間にか、背丈のある、でも巨人ではない、すらりと細長い女性がたたずんでいた。両手の親指だけをパンツのポケットに挿し、右足をわずかに投げだしたレイジーな姿勢をしている。

 胸にくわえ煙草の外国人女性が描かれた白いTシャツと、ほどよく青の落ちかけたスリムジーンズと、ヒールの高いショートブーツを履いている。シンプルな着映え。だけど、あたしの目にはとても地味であるようには映らなかった。それどころかパリコレモデルを髣髴とする高級な着こなしに見える。当然、五感が落ちつかなくなる。

「舞彩さんですよね?」

 落ちつかない聴覚に芯のあるオーボエの声が刺さる。

「あ、そうです」

 気圧されながら、彼女の顔に目を注ぐ。

 細く切れ長な、キツネのような目。必要以上に盛られてはいないが、そうとわかるほどに長い睫毛。わずかに小鼻のあがる、小さくも北欧的な逆三角形の鼻。薄い唇を擁する慎ましい口。陰影以外にはラインを探しあてられるヒントのない、ほぼ皆無といっていい眉毛。

 メイクもシンプルだ。唇には本来の色艶だけが鎮かに照っているし、褐色の肌ではあるが、だからと特殊な薬品を塗っている感じはない。例えば乳液だけですませたといわれても疑問の余地はないほど。

 必要のない要素をすべて削ぎ落とした、エコな顔相。少なくとも背後の看護士とは比較にならない“引き算”。

 おもむろに、

「小池です」

 なぜだか不服そうにうつむくと、右手で髪をかきあげた。シルバーアッシュのボブヘアはさらりとほぐれ、癖がつくことなくもとのフォルムに戻る。

 ピアスが見えた。シルバーのピアスが、右に3つと、左に2つ。

「さっき電話に代わった者です」

「小池、さん」

「小池敦子といいます」

「あ」

 コイケアツコ。

『アッちゃんはどうなの?』

 来瞳のハンドベルが蘇る。

『小池敦子は、ずっと家族でいられる?』

 常軌を逸したモデル体型に圧倒されて、何者かと考えることさえも忘れていた。

 コイケアツコ。

 この人が。

 小池敦子。

 ここにきて悪夢が現実味を帯びたことはわかったが、でもあまりの急展開の連続、絶望的な気持ちになれるはずもなく、

「大城です」

 とりあえず初対面を装い、上目づかいでぼそっと挨拶するしかない。

「オオシロ……さんね」

「あの、月乃さんは?」

 すると敦子は、さっきよりも遥かに深くうつむいた。途端、ほっそりとシャープな顎のラインがさらに尖り、贅肉のない頬が病的にヤツれて見える。

 わずか間を置き、やおらに顎を起こしてまっすぐにあたしをとらえると、彼女は、

「こっちです」

 見限ったように背中を向けた。

 この一連の流れが、ますます、あたしの不安を焚きつけた。

 たぶん平均値よりはのっぽなあたしが、仰ぐほどの高い背を追いかける。ブーツのヒールを引いたとしても180センチ弱になるだろうか。我が校にはいるはずもない異世界のプロポーションに足が覚束ない。そして、モデル業界の闇のような華奢さを誇りつつも、いっさいの同情を挟ませない強引な存在感を感じるごとに、覚束なさがいっそうの肥大。

 なんだか、勝てる気がしない。

 ひとつ置きにともされる電灯をボーダに浴びながら、長い廊下を突き進む。たまに医師や看護士とすれ違う程度で、民間人と出会うことはなかった。病院ではなく研究施設のような錯覚さえもおぼえる。

 雑音のない静寂の廊下。安定的にライトアップされているのにも関わらず、まるで深海魚にでもなった気分。視覚以外に頼るしかなく、泳ぐでもなく泳いでいる気分。

 そういえば、病院に特有の薬品の臭いがあまりしない。きっと、先導する背中からほんのりと漂ってくる、高貴な花の香りのおかげ。薔薇の尖った甘さ。

 時おり、きゅ、ローファーの底が無粋に鳴く。人さし指を立てて叱りたくなる。

 左に、またもや熱中症のPRをかすめる。すでに夏ははじまっている。

 ……不安で不安でたまらない。

 どうしても、現実逃避するための最善のオブジェを探してしまう。目・耳・鼻と、全神経を働かせて、エスケープの手立てを画策してしまう。

 だって病院は、命の、最後の砦だから。でも、必ずしも常に砦が守りつづけられるとはかぎらない。時には“死神”の侵入を許してしまうことだってある。病院という施設の、それが普遍の現実だ。

 この不完全な砦のどこかに、月乃さんがいる。罷りならない緊急事態を抱え、この砦の、どこかに。

 壊れそうな月乃さんが。

 儚い月乃さんが。

 無視してしまった月乃さんが。

 だから逃げだしたくてたまらない。

 でも、引き寄せられる。

 薔薇の香水とは別に、全身に向かい風を感じる。風除の施される病院の中だから、錯覚だとは思う。だけど、確かに感じる。今日1日、こつこつと積みあげた体温が、呆気なく霧散していくのを感じる。

 ああ、これは冷気だ。

 前から……先導する敦子のもっともっと前から、向かい風と錯覚させるに相応しい冷気が漂ってくる。いや、もしやあたしのほうが、冷気のエリアに足を踏み入れたのかも知れない。

 涼しい。

 冷たい。

 寒い。

 きゅ。摩擦の音でさえも冷たく感じる。玲瓏・怜悧・冷徹……あらゆる神知を統合した、これが「霊気」というものなのかも知れない。

 引き寄せられる。

 霊気に引き寄せられる。

 生命が引き寄せられる。

 唾を飲みこむ。ごくる。いつもどおりに飲みこめず、嫌な音が立つ。瞬時、そこに躊躇が芽生えて唾を誤嚥しかける。

 顎を引いて喉を調整。同時に、

「こっちです」

 ふりかえりもしないで敦子が指示。左に折れ、階段のエリアに踏み入る。

「エレベータを使ってもいいんですけど、大嫌いなので」

「はぁ」

 階段のエリア。光量の乏しい白い空間。明るいのに暗い。あるいは「暗い」というよりも「眩い」と表現したほうが適切かも知れない。光量と色彩の絶妙な錯視には、眩暈すらもおぼえるから。

 上昇するかと思いきや、敦子は躊躇なく地下に向かった。診察棟や入院棟といえばたいてい上の階にあるものなのに、それが地下だなんて。違和感が湧いた。地上階と同等の採光設備がもしや地下にも施されてあるんだろうか。患者にとって快適な空間なんだろうか……漠然と疑問視しながら、階段の段差をもってしてもあたしと背丈の変わらない超モデル体型を追いつづける。

 3回、Uターンして、階段は途絶えた。防火扉の開け放たれた敷居を跨ぐと、再び細長い廊下に出る。

 左右を流れる廊下。右を見る。等間隔にスライドドアが並び、その終点には銀色の巨大なドア。エレベータらしい。

 それとは逆に、左に折れた敦子を追う。こちらにも同じようにドアが並んでいる。いったいどういう部屋なのか、あたしにはまるでわからない。それぞれのドアの上に掲げられる部屋の役割を示すプレートを、認識しようとする頭がない。

 その代わりに、香りを認めた。

「蒼い」

 思わずひとりごちる鼻孔に染みたのは、恩着せがましい線香の香り。白いのに蒼く見えるこの廊下と、なぜか好相性な香り。

 敦子の薔薇もかき消されている。

 この香りで弔ったのを思いだす。

 夢の中にいるかのようなあの日。

「おばあちゃん」

 まだ、夢の中にいるかのよう。

 歩いているという実感もない。

 ふらふらする。

 ふらふらする。

 ふらふらする。

 と……背中にぶつかった。いや、腰かも知れない。とにかく、立ち止まった敦子にぶつかり、体温を感じるよりも前に後退。

「ごめんなさい!」

 エコーのかかる謝罪。でも敦子はなにも応えなかった。仁王立ちで、廊下のずっと先を注視している。

 身体を横に傾げ、その細い腕をかすめた先を、あたしもうかがう。

 15メートル、その突きあたりまでには、特に目立つ物はなかった。いや、スライドドアが2つだけ連なり、その手前、茶色いベンチが遜るように座ってはいる。

 突きあたりの大きな扉はエレベータか。なにやら貼り紙がしてある。はっきりとは読まれないが、かすかな「搬送用」という文字を認めた。

 あるにはあるけど、なんにもない。

 ……このどこに月乃さんが?

「ここです」

 察するように敦子がいった。それから、細長い、消え入りそうなため息をひとつ。

 蝋燭の煙のような、震えるため息。

「ここ?」

 しかし黙したまま歩きだす敦子。覚悟を決めて壁にぶつかりにいく挑戦者のような前進。だからか、彼女のいた場所に陽炎のようなものが燻るのを錯視した。

 陽炎を迂回し、あとを追う。

 奥から2番目のドアの前、すぐに、再び立ち止まる敦子。彼女に倣って立ち止まるあたし。牛歩の追尾。

「この部屋、に?」

 たまらず尋ね、その流れでドアの上部を見た。この部屋の役割を、確認した。

 確認してしまった。

 掲揚される、白いプレート。




霊 安 室




「れい・あん・しつ」

 ……って、なんだっけ?

 見慣れない、でも、どこかで見たことがあると確信できる漢字3文字。

 不吉な3文字、でも、なにが不吉なのか具体的にはわからない3文字。

 平易にはあつかえない3文字、つまり、なにかが隠匿されてあるのだろう3文字。

【霊安室】

 説明のつかないものを隠すための部屋。

 とっとっとっとっ……まだ謎でしかないはずの3文字を前にして鼓動だけが逸る。

 いつもの虫が、這いそうな予感がする。

 なんか、嫌だ。

 この部屋、入りたくない。

 ヤだよ。怖い。

 後退するために足の爪先に力をこめる。同時に、敦子がドアの把手に手をかけた。それを見て、力をこめるリズムが乱れた。爪先が弛緩して膝が折れた。後退するはずだったのが、1歩だけ踏みだしていた。

 イレギュラバウンドをしたボールを捌き損ねるなどして、左の胸にあててしまったさい、稀に意識を失うことがある。鼓動のリズムとドンピシャで胸が叩かれることによる心筋梗塞……思いがけずに踏みだしたわずかの間にそんな蘊蓄を思っていた。

 イレギュラなどありえなさそうな敢然としたリズムで、敦子がスライド。音もなくドアは左の戸袋に収納され、彼女が1歩を踏み入れる。釣られ、あたしの爪先もまたさらに踏みだした。

 2歩・3歩と、千鳥足で入室。

「霊安室」に、入ってしまった。

 12畳ほどの、広いとも狭いともいえない空間だった。目立つ家具も仕切りもなく、壁の白さもあってか広く見える。ところが四方の壁の生えぎわは思ったよりも手前にあって、だからか狭くも見える。細めれば広いし、凝らせば狭い。

 煌々と焚かれた蛍光灯が眉にまぶしい。やっぱり白って光を反射する色だ。網膜を痛めない程度に目を細め、そうやって広くした空間をさらに見渡す。

 入室したドアと隣りあう壁を隔て、もう1枚、同型のドアがあった。学校の教室でいえば、担任がホームルームにやってくるドア。つまり、あたしたちを迎えたドアは遅刻して怖々と入るほうのドア。

 その、前後のドアに挟まれる間仕切りの壁のまん中のあたりに、体操座りでもたれかかっている女がいた。

 オレンジアッシュの長髪を豪勢に盛り、まっ黒なドレスをまとっている。必然的に華やかなパーティを髣髴。でも、体操座りなので、はしゃぎすぎて酔い潰れた印象。実際、ドレスのスリットは開け、肉づきのよい太ももがぎりぎりまで露に。そして、肉づきのよい腕で両の膝を抱えこみ、その輪の中に顔を埋めている。

 キャバ嬢か、ホステスか、いずれにせよ水商売の女性とわかる。

「誰もいないんですか?」

 遠慮もなく敦子が尋ねた。静かながらも芯のある声に、ひくっ、女が顔をあげる。

「みんな美園さんのところですか?」

「知らねぇし」

 視線を床に落としたまま、投げやりな、自嘲の笑みで女は応える。

 パーツが中央に寄ったような面立ちで、古風なアジアンの愛らしさがある。でも、どことなく傲岸不遜な印象を持ったのは、座りのあるまなざしとわずかに尖った口のせい。アジアンビューティが潔さを崩すと独裁的な印象になるらしい。

 独り言のように女はつづける。

「いくらあたしが怪談が好きだからって、こんな場所で留守番を任されるのはワケが違うじゃん」

 のそっと立ちあがる。そして腰に両手をあて、苦虫を噛んだような顔でいった。

「もうウンザリ。行っていい?」

「もちろん」

 あまり友好的といえない「だから?」というようなトーンで敦子が応える。でも、その台詞を聞く前からすでに女は、気怠い歩調で退室に向かっていた。

 退室して早々、

「入ったばかりのホステスみたいですね。こんな時間に眠そうにしてるってことは、水商売の前歴はなし……か」

 敦子の解説。間違いなく女にも聞こえる声量で、火種になって喧嘩にならないかと戦々恐々。敦子とドアとを交互に確認。

「美園さんは、たぶん、上の階のどこかで休んでると思います」

 淡白に、ドアに背中を向ける敦子。

「仲間のホステスも美園さんにつくことを選んだみたいですね」

「どうされたんですか? 美園さん」

「心労です」

 さらりという。

「ショックが強すぎて」

「ショック?」

 さらりと。

「だって“愛娘”が死んだんですから」

「まなむすめ?」

 あまりにもさらりというのが却って胸に引っかかる。

 一瞬、美園さんにも子供がいるんだ……そう思って次の展開を期待しかけた。が、敦子の言い方が、すぐにそういう意味ではないと思いとどまらせた。

「愛娘」とは、そういう意味ではない。

「あたしにとっては、心配性の“姉”って感じの人だったけど」

 大きく肩でブレスしてから、敦子はそういって展開を延ばした。そしてゆっくり、4歩で部屋の中央につめる。細めずとも、ずっと視界のはしにおさまりつづけていた白いベッドの脇に。

 上掛けのない、白いベッド。

 クッションマットがやけに分厚く、凸凹していて、なんだか寝心地が悪そう。

「舞彩さんにとってはどんな存在?」

 ……クッションマット?

 よくよく観察してみる。

「きっと、他人ではないんだろうね」

 クッションマットじゃない。

 何者かが仰向けに横たわり、その上に、シーツのような薄手の上掛けがかけられている。可笑しなことに、顔まで。

「他人ってことは絶対にない」

 3つの突起が、山が、トライアングルになって聳え立っている。

 低い山を頂点にして、

「だって、舞彩さんのこと、何度も何度も聞かされました。メールでですけど」

 母性的な山が、2つ。

 憧れの山。

「同じ悪夢を見ていること」

 憧れの山に、

「心配していること」

 霊峰に、

「もしや自分が感染させてしまったのかも知れないと怖がっていること」

 線香の煙が棚引く。

「それから」

 つんと、

「舞彩さんが体温恐怖症だということも」

 目に沁みる。

「なのに、身体を支えられてしまったと」

 だから、

「詫びてました」

 涙が落ちる。

「悔やんでました」

 わからない。

「舞彩さん」

 意味がわからない。



「月乃さん……死んじゃったよ」



 意味がわからない。





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Nanase Nio




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