逢着
偽りのカレンデュラ
目が醒めると、痛いのも苦しいのも吐きそうなのも、すべてが吹き飛んでいた。
もちろん、膨大な汗と、それに伴う疲労感だけは几帳面に残されていた。
つまり、目が醒めると、痛くて苦しくて吐きそうな状態だった。
悪夢の新たなる局面。
もう、あたしの心がモたない気がする。
昌 範
Section 3
逢 着
ホウチャク
22時就寝、5時起床という、高校生とは思えないほど健康的な一夜を選択し、それでもブルーな気分で朝の雨垂れを聞いた。どんなに早くに寝ようとも、悪夢は泰然としてそこにあったのだから。
1階のエレベーターフロア、窓枠に打ちつけられてあった
夥
おびただ
しい量の板は、すべて抜け落ちたままだった。で、ちらと窓から覗くと、いまだ
筏
いかだ
となって向こう側に伏せていた。どうやら、すべてがリセットされるわけではないらしかった。
でも、さすがにもう1度『
恩田
おんだ
病院』に向かう勇気はなく、エレベーターフロアでしばらくまごつき、窓枠の彼方に看護士の影を目撃、発作的に
来瞳
くるめ
の仏間をチョイスしていた。そして、年老いたママの号泣をイヤというほど耳にした。必然的に精神が衰弱し、すっと気が遠くなり、やっと目が醒めた。
いつもどおりの、ブルーな朝。
ナオの伏せる病室を選ぼうが恩田病院を選ぼうが、ブルーになることには変わりがない。いや、恩田病院のほうが、一昨日とすべて同じ展開ならばの話だけど。
『キィィィィイイイイイ』
人智を超越した音量の悲鳴に、まともに立っていられなくなり、あげくには崩落に巻きこまれるという物騒な展開。
ムリだ。
『カナエ』という子がなにかしたらしいのだが、まさか崩落を掻い潜って確認しに行く勇気なんてあるわけがなかった。
だから、ママの号泣で目醒めた。
いつもどおりの、最低最悪な朝。
ざ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ
約束の大地。
雨の西新宿。
日曜日にも関わらずスーツ姿さえ見受けられる、スバルビルの忙しない足もと。
2010/06/20[Sun]09:47
東京都新宿区西新宿 - スバルビルの前
7時間も寝ておきながら、失神しそうな意識を傘の
把手
とって
に濁す。これが悪夢のせいなのか、慣れない5時起きに細胞が憂鬱になっているからなのか、恐らくはどっちもだと思うけど、ふらふらしてまっすぐに立っていられない。だから、把手をぎゅっと握りしめて景気を促す。
湿気った電車にも乗ってきたんだっけ。どうりで疲れてる。
現場を目指す山手線の車内は、日曜日の午前だというのに適度に混んでいた。塵も積もれば山となる──の理屈で、徒歩での物見遊山を嫌悪した怠惰な雨人間たちが、こぞって雨宿りに逃げこんだあげくの混雑らしかった。
おかげさまで、お気に入りの紺のカバーオール、その足もとはすっかり、雨人間の傘攻撃に遭って黒く変色していた。さらにお腹のあたりにも、我が傘を守ろうと抱えこんだ名誉の傷が縦に1本、薄墨のように滲んで消えようとしない。早く乾く確証を得なければ、カバーオールの壊滅的予感に気が狂ってしまいそう。
靴は濡れても平気なサンダルを選んだ。雨ごときで壊れる心配がないと思いこんでいられる素材だからいいが、あまり雨中に似つかわしくないデザインだったようで、今度は人目が気になりもする。いっそ長靴でもよかったが、それはそれで人目が気になるだろうし、まさか初対面で長靴というのも気が引けるし、なにより、足場の安定しない長靴では、他の破壊を誘発するリスクが高いので履きたくなかった。
ホント、雨の日なんて大嫌いだ。色々と手間がかかって困る。
鋭い溜め息を吐き、右の肘を折り、巻きたくもなかった腕時計を見た。防水加工の、そこそこ高かった桜色の腕時計。防水だとわかってはいるが、実はちゃんと壊れるんじゃないかという不安感を一杯に満たしている腕時計。
約束の時間の13分前を指していた。
あと13分。
あと13分で、
月乃
つきの
さんに会える。
対面したこともないのになぜか親しい、なぜか
頻繁
ひんぱん
にメールも交わしている、それなのに、顔さえも知らない月乃さんに。
会える。
あと13分で、会える。
ところが、疲労のせいか緊張できないでいる。実感が湧かないという理由もある。騙されているんじゃないかという、不毛な可能性もある。
ホントに、不毛。
決して激しくはないが、貯水量に限界の見えないしぶとい雨。7つの海のひとつが雲になり、出し惜しみしながら降っているかのよう。つまり、排水設備が不沈の鍵になっているかのよう。
近代的なノアの箱舟。
壊れなきゃいいけど。
「
……
緊張しようよ、あたし」
目前の左右を行き交う、選ばれし無限の人込みに向け、溜め息をまぎらせてみる。
ブルーすぎて緊張できない。
それがなおさらブルーを加える。
だから、胸に、会えば緊張するはずだ──言い包めてみる。
2010/06/20 08:37
YOU LOVE BOOKS
MAILより
■名前:
月乃
■ホームページのURL:
http://**.****.**.**/*.***y=moonchild
■内容:
ですよね!
見た目がわかったほうがいいですよね!
私は
花柄ピンクのワンピースコートと
チェック柄のスキニーパンツと
……というか
ごめんなさい。
ハデな服を持ってなくて(涙
あとは
オレンジの髪をアップにしてます。
前髪はパッツンです。
そうだ!
三日月の模様が入った傘をさしてます。
傘でわかるかも。
念のために
雨音さんの見た感じも
教えてくださいませんか?
家を出る直前、月乃さんの今日の風貌を乞うた。すぐに返信があり、あたしもすぐ返信した。するとまたすぐに、
『了解です! あうう
……
緊張する』
朗らかなアンサー。
ハデな服は持っていない──そう読んだ時には、衣装の総取り替えを思ったぐらいだった。だってあたしのほうが、恐らくは遥かに地味なはず。でも、どうにも実感に薄いあたしは、瞬時に衣装チェンジを辞退していた。
おかげで朝っぱらから、地味を主張するメールを送ってしまった。だからか余計に実感が湧かない。
花柄のワンピースコート、オレンジ色の髪、三日月の模様が入った傘──入手した情報を念頭に置き、周囲を見渡してみる。本人はハデじゃないと言うが、充分すぎるほどハデだと思いながら。
該当者は、ありそうで、まだない。
あたしはこれから、月乃さんと、なにを話しあうんだろう。
もちろん、悪夢について。
そんなことはとうに知ってる。悪夢さえ見なければ、月乃さんと会うことは絶対に実現しなかったはず。
でも、だって、悪夢だよ?
悪質
・・
な
夢
・
なんだよ?
わざわざネットの枠を飛び越え、素人同士で話しあう類いのものなのかな。
いや、話しあいたいのは山々だ。聞いてもらいたいのは山々だ。毎晩の、恐怖とか緊張とか焦燥とか不安とか、ぜんぶ。
でも、心理学者でもない月乃さんに話を聞かせて、ちゃんと伝わるんだろうか。
だって、聞かせるってことは、あたしの過去や体温恐怖症についてにも、ある程度までは触れさせなければいけないのでは?
そうした、あたしの素質も含めての恐怖だし、緊張だし、焦燥だし、不安だし。
ナオにも、来瞳にも、両親にもいまだに上手く伝えられないくせに、初対面の、医者でもない月乃さんに、いったいなにを話して聞かせるって言うんだろう。
話す相手を、いや順序を、間違えてないだろうか?
ちゃんとした病院のほうが先だったんじゃないだろうか?
我慢して診てもらった上で、共感作業に向かうべきだったんじゃないだろうか?
ちゃんと自分の素質を把握し、ちゃんと説明できる準備が整ってから、会うべきなんじゃないだろうか?
徒労に終わりはしないだろうか?
せっかく、月乃さんに、会えるのに。
今日1日に、納得を宿す自信がない。
でも、同じ悪夢を月乃さんが見ていることは間違いない。まったく同じではないみたいだけど、属性の同じ悪夢を。
リンク元
・・・・
の同じ悪夢を。
月乃さんからもらった今までのメールを思い出す。
『悪夢を見つづけていませんか?』
『髪の長い女の子』
『まっ赤なワンピース』
『色白の女の子』
『エレベーターのある環境』
エレベーターを抜けるあたりまではほぼ同じ内容らしい。ちゃんとワンピース姿の少女もあらわれるみたいだし。
ただ、確か、こうあった。
『霊安室につうじているんです』
霊安室。
あぁ、月乃さんは、霊安室なんだ。
ナオの扉の先は病室だった。ある程度の生活環境が保たれた白い病室。少なくとも霊安室ではなかった。で、来瞳の扉の先は言わずもがな。
いや、2部屋とも、広い意味での霊安室と言えなくもないけど。でも、ドラマによく観る霊安室とは、段違いに掛け離れた環境。第三者にとって、大小なりに生活の色香を帯びた環境。
あの病室も、あの仏間も、霊安室というワードへは優先的に導かない。
月乃さんは確かに「霊安室」と記した。そう記すに抜かりのない風景が、月乃さんの目の前に広がっていたからなのだろう。
霊安室。
あたしは、行ったことがない。
5年前、おばあちゃんが死んだ時にも、霊安室に安置されることはなく、病室から葬儀屋のワゴン車でダイレクトに自宅へと搬送された。あたしやママが静かに見守る中、パパや、担当医や、慌てて駆けつけた葬儀屋の手でストレッチャーに乗せられ、裏口からワゴン車へ。深々と黙祷を捧げる医者たちを残し、パパの車に先導されて自宅へと戻ってきたのだった。
車の中、虚ろなあたしの目には、左右を流れる雑居ビルが、まるでセレブな墓石のように見えたっけ。
目に見えるすべてが、虚構だった。
もし霊安室を体験したとしても、SFの1シーンでしかなかったのかも知れない。
「霊安室
……
誰なんだろう」
月乃さんは、いったい誰の
死
・
に立ち会っているんだろう。
苦しんでいるんだろうか。
あるいは月乃さんも、自分の死に怯えているんだろうか。
本当にすべてが同じなんだろうか。
あたしの見ている悪夢と、月乃さんの見ているだろう悪夢。
違いがあるんじゃないだろうか。
そこに、なにかヒントはないだろうか。
現状を打破するヒントが。
会っていいものかと躊躇に駆られつつ、胸の隅にはずっと期待感があり、だからあたしは月乃さんに会おうとしているのかも知れない。
「ヒドい女」
あたしは、月乃さんを利用しようとしているのかも知れない。
「自分が可愛くてしょうがないや」
呆れてつぶやいたのと同時だった。
目の前を、三日月が横切った。
グレープフルーツ大の直径をした黄色い三日月が、紺色の夜空、白い水玉の星空に浮かんでる。弾き返された本物の水玉と合わせたら、もはや星雲に匹敵する星空。
そして、その下にピンクの花弁が舞い、まるで艶やかな夜桜のよう。
たちまちのうちに緊張が走る。
三日月の傘、太ももにまでおりた花柄のワンピースコート、ブルーデニムの要所に黄緑のチェックプリントが入ったスキニーパンツ、そして髪は
……
傘で見えない。
歌舞伎町の出入口だったら地味なのかも知れないが、西新宿ではまだ派手なほうのこの姿。
たぶん、きっと、この人が、
「つ
……
」
でも、二の句が出てこない。それどころか手も足も出せない。心臓だけが口から出てきそうで、あと汗も出て、息も荒く出て、いや、出ているもののほうが圧倒的に多いくせに、肝心の、呼び止めるためのものがまるで出てこない。あんぐりと口を開けたまま、ほんのわずかな前傾姿勢でフリーズするしか術がない。
絶え間ない通行人の激流に押し出されるようにして、スバルビルの爪先へと座標を落ち着ける夜桜の女性。ちょうどあたしの右手、3mの軒下に立つ。
髪が見えた。目の醒めるようなオレンジだった。わずかながらにシルバーが入っているらしかった。手入れのされた色艶が、後れ毛もたっぷりなラフな感じでトップにまとまってる。
確かにバングはパッツン、やや内巻きに仕上がっていて、髪と似た色の鋭角な眉が露になっている。
大きな目。涙袋がぷっくらしてる。よく笑う目だとわかる。そして、丸くて小さな鼻、その反対に大きくて下唇の厚い口が、白い丸顔におさまっている。
背は、160pもない。あたしよりも遥かに小さい。でも、
溌剌
はつらつ
とした印象。肥満ではないけれど細身でもなく、失礼ながら適度にポッチャリしていて、総じて健康的なイメージを持った。
いや、髪や服装がそう見せているのかも知れない。いずれにせよ、地味なあたしの預り知らぬ人種──俗に言うギャルっぽい人だった。
ギャルママ──そう思うごとに気後れが膨らんでいく。
自分で自分の出鼻を挫いたまま、なのに目配せをちらちらと
捻出
ねんしゅつ
する。前傾姿勢もすっかりと後傾に移ろい、彼女のほうから気づいてほしい一計でちらちら。
だって、カバーオールって、あたししかいないじゃん。紺色のカバーオール、赤いステッチがちらほらと混じってて、あと、ポケットがたくさんついている──伝えておいた情報に該当する者は、今のところ、あたししかいないじゃん。
気づいて、ないの?
ちらちらと目配せ。ちらちらしすぎて、あるいは震えているように見えるのかも。汗ばむほどの梅雨時の最中、小刻みに顎を震わせる不審な女。あぁ、だから近寄ってこられない
……
とか?
でも、ちらちらと見ざるを得ない。だって、早くそちらから歩み寄られたい。もはやこちらから歩み寄る気概など失せている。
と、小脇に抱える、赤に紫に緑の交じるカラフルなカゴバッグ、持ち手の根もとに植えられた長いフリンジを揺らがせながら、中身を探った。そして折り畳みの白い携帯電話を取り出すと、どうやら時刻を確認。防水かどうかはサテ置き、雨天なのによく取り出せるものだ。
とはいえ、釣られて、あたしも腕時計に目を馳せた。
10時02分、約束はオーバー。
同時に気持ちが焦り、まぎらせるために天を仰いだ。
「へ
……
ぃぎしッ!」
思いの他に鋭いくしゃみが出た。一面の雨雲をまぶしく感じたらしい。
「あー」と余韻の吐息を引きずりながら、鼻を啜りながら右手を見やった。
大きな瞳とぶつかった。
思考回路がダウン。フィルムが途切れて空回りするしかなくなった映写機みたいな腑甲斐なさ。回そうとはするのになんにも浮かばない。
ぱちぱちと濃いめの瞼を瞬かせ、黒目を上下に往復される。品定めされてるような感覚が湧き、とたんに恥ずかしくなる。
そして、
「あ」
1歩、待望の歩み寄り。なのに、あたしの心は1歩後退。それでも彼女は、
「あ、ま、ね、さん
……
」
4歩で間合いを詰めると、
「
……
ですかもしかしてやっぱり?」
ラストスパートの前傾姿勢で尋ねた。
フルートみたいな声だと思った。そして、乳製品みたいな声だとも思った。それほど緊張のピークに達していた。
「雨音さん?」
「あの、つ、きの、さん?」
「はじめましてぇ」
涙袋をぷっくらと膨らませつつ、安堵の笑顔でフルートを奏でた。
子守歌を聞いたのであろう息子さんが、なんだかとっても羨ましく思えて、まさか彼女もまた悪夢を見ているだなんて、とても思えなかった。
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