歌帆さん 〜 My Medicine■
証言者 019
陽向ケ原高等学校2年1組の生徒
次原 伊織 【 つぎはら いおり 】 続ける
母親を想起する時、次原伊織の頭の中には常に雪が降っている。
積もるほどの雪ではない。考えあぐねるような灰色の空を揶揄する、ノープランの軽やかさで舞い降りる粉雪である。その片隅、蝋梅の蜜色も慎ましく浮かんでいるので、2月ごろのヴィジョンだろうか。
炬燵から上半身を生やし、両腕を枕にして母親は卓上に頭を伏せている。眠っているわけではない。意識の外側にあるすべての情報を固く遮断しているかのよう。
とご。とご。時おり窓が前後に揺れる。どうやら風が吹いている。なるほど、右に左にと、ゆとりのある粉雪たちがサーフを楽しんでいる。ねっとりとして重みのある蜜色たちは、こらえきれずに震えている。
母親を見透かす先はいつもそんな景色だったように思え、だから、肌を突き刺すような凍てつく感覚も同時に想起される。
あの事件を境にして、母親は真冬の象徴となっていた。
不動産会社に勤める母親、とある新婚の芸能人夫婦に新居を紹介したとして、その希望する間取りや家賃の情報も交え、ついネット上につぶやいてしまった。有名人とコミュニケーションを取られた興奮によるもので、悪意はなかったという。確かに、入社時には情報を外部へと漏らさないように誓約書にサインしたわけだし、個人情報保護に係る研修も正しく行っている。実際、両者の幸せを祈るようなコメントも添えていたわけだから、いわゆる出来心の類だったと推測するに易い。
しかし、当然、彼女は叩かれた。個人情報の漏洩ではないかと、プロ意識が足りないと世間から叩かれた。いや、叩かれるどころではない、本名や住所をスッパ抜かれ、公にさらされた。
いわゆる、公開処刑。
かつて父親というキャラにあった男から「共有してやってくれ」と打ち明けられて知った騒動だが、小学5年生、せいぜいGPS代わりのスマホしか許されていない次原にとっては、わかるようなわからないような謎めく事件だった。なにせ、噂でしか聞いたことのない公開処刑とやらに、誰あろう母親が処されているのである。実感は皆無に等しく、しかし真実、会社を解雇されて以降、畳の居間、灯もテレビも点けず、炬燵のテーブルに伏せたきり微動だにしない母親が目の前にいる。まるで生きること自体を放棄したかのような空虚な姿に、次原は混乱し、恐怖した。
『たかがネット上での話じゃん!』
児童ながらの阿諛には違いなくも、この世界は広いと励ますつもりで丸い背中に投げかけることもあった。しかし母親は無言を貫き、ふと思い出したように炬燵から抜け、まっ暗なキッチンに立つのである。そのプログラムされた流れ作業は、これまで生き生きとしてきたはずの晩餐の支度がついに惰性と化したよう。
夕闇のキッチン、そこに母親の姿は視認できなかった。蒼い炎と調理器具の擦れあう音だけが、母子家庭を寒寒しく彩る。
心底、怖かった。
学生時代はヤンチャで通した女だったらしい。母親になってからも、特に、服の趣味、会話の語尾、座り方に名残として見られたそうだが、娘にとってはどれもが当たり前の初期設定だった。学力の面では圧倒的に頼りない人だが、滅多なことでは揺らがない腕白なメンタルといい、陽的なスタンスが唯一無二の教科書だった。実は下積みの人であり、事務のアルバイトから着実に評価を重ねて社員へと昇りつめるキャリアもまた、誇らしい参考書だった。
『バカには2通りあって。アクションの多いバカとアクションを起こさないバカ。で、伊織はどっちのバカなのかっつー話』
テキストであり、セキュリティだった。
その言葉どおり、非常に落ち着きのない母親ではあったが、時に孤立を深めやすい生来のおバカ少女、次原の目には能動的で頼もしい存在と映り、心の拠り所でもあった。我が正当性を暗に証明してくれ、常に自信を持たせてくれる存在なのだと。イジめられる生徒があれば盾となり、盾となるどころか矛にもなり、イジめた生徒の瞼を腫らせるほどに殴り、担任から厳重注意を受け、なぜか救ったはずの生徒からも恐れられてさらなる孤立を深めた時にも、間違ったことはなにもしていないのだという誇りをくれた存在なのだと。
誇りとは、あらゆるセキュリティの要である。他を守護し、よって自を防衛する、すべてのセキュリティの。保全の。
母親とは、次原自身が自己を保全するに相応しい最後の砦──存在証明だったのである。
『らしくねぇよ!』
怒鳴ってもなお、最後の砦はもう空虚な姿を崩さなかった。
たかがネット上での話なのである。日本国民、1億1999万9998人から非難を受けたわけではない。平素の彼女ならば、次原の知っている母親ならば「もうしません」と反省し、反省を守りつつも、しかし明るく前向きに捉えているはず。
理解不能の謎の姿でしかなかった。
そんな事件の発生から、3週間が経たんとする折りのことである。
「あら。意外と怺えていない」
目の前に、ひとりの少女があらわれた。
「強心臓なのか」
なんとも奇矯な出で立ちの少女である。
「いまだ知らないだけなのか」
喪服としても用いられるだろう、まっ黒なワンピースの礼服が膝まで下りている。皺のないスカートの裾からは網目の細かな黒いストッキングが伸び、その先端には、インナーボアが敷きつめられてあるのだろう、柔らかそうな黒のフラットシューズ。
「玄関や壁に落書きが為されていないことを鑑みて、後者と見るべきか」
首には黒いマフラーを巻いている。毛玉の見られない、滑らかなマフラー。
「賢さは感じられないわね」
黒髪をオールバックに撫でつけている。領脚は長いが、雑な印象は微塵も受けず、耳にかけられる鬢も整っているとわかる。宝塚歌劇団の男役を思わせる、凛としたヘアスタイル。
黒い少女だった。
「少なくとも知者ではない」
「急に誰だテメェは」
いつもどおりの、クラスメート全員から怖れられるという静かな1日を終え、帯同する仲間のいない静かな帰路、その終点に静かに待ち構えていたのがこの少女。
「まったく賢そうに見えない」
「賢い人間なんて存在しねぇ」
背丈は、11歳の次原と変わりない。大人と比較すればだいぶん低い。ごく平均的な小5の児童と比肩するほどである。しかし、醸し出される雰囲気は大人っぽく、中学生程度にも見える。少なくともランドセルの似合う子供らしさは感じられない。この、大人に憧れ、小遣いを貯めて買った赤いスカジャンが幼稚に見えるほどに。
「みんな専門分野以外はバカだ」
我が家の門前、年齢不明の黒い少女が、お臍のあたりで掌を重ね、硬質な視線をまっすぐに向けている。澄んではいるが、柔くはない、硬水のような視線。
「少しでもバカならバカだろうよ」
「怖い」というよりは「強い」と表現したほうが腑に落ちる。拳や蹴りの餌食としてきたどんな生徒にもいない、男児にもいない、手強そうな風情。
「つまりオメェもバカだ」
次原の防衛本能が、咄嗟に喧嘩腰の買い言葉を選択していた。これがそこらへんの男子児童だったら有無をいわずにドロップキックを放っていただろう。
しかし少女は、珍しく冷静沈着な次原を驚くでもなく、あくまでも不敵な微笑を浮かべたまま「あら賢い」と聞かせる。
「賢いおバカさん」
「用件を述べろや」
右手の小指で耳をほじくるジェスチャーを見せつけながら促すと、
「まだ用件はない」
「ケンカ売ってんのかよ」
「もとより、そういう用件はない」
「だったらなにしに来たんだよ」
「なにがあるのかと思って」
意味のわからない台詞を頷く。
「なにかがあれば用件になる。でも、まだなにがあるのかはわからない。つまり、まだ用件にはなっていない」
グランドピアノの中音域のような声質である。台詞のひとつひとつこそは単音に違いないが、高音、中音、低音と、それぞれの波が微妙に調和しあって単音が為されてある。ゆえに容赦なく耳を傾けさせる。理不尽なアリア。まさに、ピアノの有する、美しさという名の野蛮さのソレである。
4分休符を置き、再びピアノが歌う。
「ツギハライオリへの用件は、まだない」
「てめぇ……」
その台詞に、にわかに次原は戦慄した。我が耳を疑った。
なぜ、
「なんであたしの名前を……」
知っている?
見ず知らずの少女である。記憶の中には存在しない少女である。まっ黒な衣装にまっ黒なオールバック、しかも見た目だけでは年齢の読めない、とてもクロい少女である。こんなにも奇妙な少女、仮に会っていれば永遠に忘れないはずである。しかし確信を持って断言できる。まったく見ず知らずの少女なのである。
なのに、次原の名前を知っている。
「どこで調べた?」
警戒の上目遣いで尋ねると、少女はわずかに首を傾げた。
「やっぱり知らなかった」
「あぁ?」
「単に無知なだけだった」
「まどろっこしいんだよ!」
初めて声を荒げる。しかし、少女は怖めず臆せず、目を細めて嗤う。
「七夕の日に産まれた次原伊織」
大きな垂れ目。二重瞼と相俟って優しげではあるが、反面、眉尻はわずかな勾配で吊り上がっていて、冷徹そうにも見える。
透きとおって滑らかな白い肌。
まるで、菩薩。
「神西小学校5年5組の次原伊織」
それを耳にした刹那、背中に負う、なにも入っていないはずのランドセルが重く錆びついた。赤いはずなのに、黒く、重く。
「だからなんで知ってんだッ!?」
ちょっとしたことではビビらない次原だが、新鮮なほどに血の気が引いている。あたかも寒さをおぼえるほど。季節は関係ない。個が寒がっている。
「それを言えや!」
叫んでも、軽くも暖かくもならない。
だから、
「ゆえやッ!」
飛びかかろうとした。ここまできたらいつもの倣い、強行手段に訴えるまで。胸座をつかんで引き倒すか、あるいは蹴りこんで転がし、馬乗りになって、なんなら殴って吐かせるまでである。
その第1歩目、絶好のタイミングが、
「母親の処刑だけでは済まされなかった」
呆気なく、ピアノの旋律に阻まれた。
「次原伊織。娘の名前もまたネット上に曝露されている」
「あ?」
「母親の氏名、住所、出身地、自宅の電話番号などに加え、愛娘の氏名、誕生日、通学している小学校名までもが暴かれ、公開処刑の材料とされている」
母親?
「次原伊織。あなたの個人情報はすべてネット上にバラされている」
愛娘?
「一部のスレッド内には顔写真までもが流れる始末。あげく児童性愛者たちの自慰ネタ候補として褒めそやされる始末」
誰のこと?
「現時点では特に被害が出ていないようだけれど、暗暗裏に個人情報が蹂躙されるという悲劇が起きていることは事実」
自分のこと?
「あなたの母親の、軽率な行動のせいで」
それってもしかして……?
「その事実を、娘であるあなたはまったく知らなかった。小学5年生ですもの、携帯電話でできることなどタカが知れている。パソコンにだって制限がかけられている。ゆえに知らなくて当然なのかも知れない。しかし、事実、次原伊織という名前は全国各地に、世界各地に流布され、ちょっとした有名人となり、しかし当の次原伊織本人は知らなかった。小学生という立場に甘え、知ろうともしなかった」
少女の台詞が否応なく耳に飛びこんでくる。耳たぶを塞いでも聞こえそう。
「すでに母親は知っているはず。娘の個人情報がネット上にさらされていることを」
あまりにも暴力的な、ピアノの音色。
「娘を守って然るべき母親が、逆に娘を危機的状況に陥らせてしまった」
そう聞こえるのも無理はない。
「娘を守れなかった母親の深刻な落胆を、しかしこの娘は理解せず、忖度せず、むしろ自分の物差しで母親らしくないと決めつけては勝手に見損なっている」
だって、図星なのである。
「さて。母親の心中や如何ばかりか?」
なにがあっても明るく前向きな母親。多少の失敗ではヘコたれない強い母親。良くいえば楽天家、悪くいえばおバカな、いずれにしても頼もしい母親。もしや他の父兄を辟易させているのかも知れないが、娘にとっては太陽のように普遍的な母親。そんな絶対的な母親が、世論とも民意とも断言しきれない、統計としては常に曖昧な数字でしかないネット上での非難に、炬燵からも出られないほどに落ちこんだ。娘の励ましにも応えられず、惰性の呼吸をするまでに落ちこんだ。この娘をして、理解できない謎の変貌と恐怖させるほどにまで落ちこんだのである。
娘の個人情報をさらされたから?
「ウソ、だろ?」
小さな冷風が、頬を、額を、顎を撫でた。
風に乗り、仄かにハーブの香りがする。目の前の少女から漂ってくるとわかった。およそ4間の間合いがあるために不快感をおぼえる濃度ではないものの、抱擁できる距離まで近寄ればどれほどの濃厚な香気なのか知れたものではないと推理できる。このフレグランスには、そう推理させるに足る無慈悲なまでのクオリティがあった。
ハーブにわずかな甘みが混在している。無慈悲であるがゆえに、味音痴の次原にも明瞭にわかった。だからか、冬の風なのに幻想的な暖をおぼえる。
ただ冷たいだけの風であれば、この黒い少女のことを「まっとうな敵」と認識することができたはず。しかし、暖をおぼえてしまい、敵か味方かの定まらない不安定な情緒を手に入れさせられている。仮に敵であっても難敵に違いなく、味方であっても難敵とさえ思える。きっと手強く、少なくともタダ者ではない。
無慈悲な香り。
菩提樹蜂蜜の香り。
流石に、頭の悪い次原が菩提樹蜂蜜という存在を知るよしもない。ただ、イヤに気持ちを落ち着かせる香りだということだけはわかった。本当は落ち着きたくない。今、この瞬間には、この高まる感情こそが次原の命綱である。次原伊織を次原伊織たらしめる核である。決して見失ってはならないのがこの感情なのである。しかし、菩提樹蜂蜜の香りが大切な感情を無慈悲に強奪していく。勝手にリラックスさせていく。あまつさえ勝てる見込みがないとする劣等感を勝手に植えつけていくのである。
この香りを嗅いではならない──次原の野性の本能がにわかに訴えた。
「ママが落胆してるってなんでわかる?」
必死の抵抗。しかし黒い少女は、
「落胆しているのでしょう?」
小春日和の涼やかさで笑む。
「あなたはすでに見ている。知っている。母親が落胆していることを。母親らしさを失っていることを。そして、あなた自身がそれを恐れていることを」
知っているはず──と重ね、わずかに顎を上げた。
見下している。
抽象的で迂遠な台詞まわし、年齢不明のミステリアスさ、舞台俳優のように堂堂とした振る舞い、簡単にイニシアティブを奪うダイレクション──導火線の短い次原を爆発させるに要素の欠かない少女。
しかし、こうして見下されてもなお、次原の炎は勝手に鎮火していく。鎮火させられていく。ピアノの旋律がアルファ波を出させ、菩提樹蜂蜜のフレグランスが鎮静効果をもたらし、演劇的な所作が現実味を省く。有象無象の意味を否定しているかのような嘲笑的哲学が彼女に感じられ、観劇する次原自身、なにに意味があってなにが無意味なのか、真贋の、虚実の見極めができなくなっている。生まれて初めて観る理性否定芸術にすっかり翻弄されている。
「誰なんだテメェ」
舞台に向かって声をかけるような、ふわふわとした心地で尋ねる。観客は、絶対に演劇の一員にはなれないのである。問いかけても役者の誰も答えてはくれず、ゆえに黙って観劇するしかなく、気持ちをコントロールされたまま劇場を後にするしかない。絶対に腑に落ちることのない、それは絶望的な問いかけなのである。
しかし、この少女を「まっとうな敵」と認めたい次原は問わずにいられない。敵が敵であるうちが最も楽なのだから。
「名乗れや」
すると、少女は大きな垂れ目を細めた。まるで次原を値踏みするかのよう。
「名前を知ったところで──」
嘲笑の音色でそこまでつぶやくと、思いとどまったように台詞を止め、右と、左に黒目を往復させた。そして、まぁいい──淡い吐息を流すと、
「歩帆」
「あ?」
「歩帆。私の名前」
「ホホ?」
「呼びにくいでしょう?」
小首を傾げて微笑んだ。
「いくつだ?」
矢継ぎ早に尋ねても、
「あなたと同学年」
歩帆とやらは微笑を崩さない。
リアリティがない。
頭がくらくらする。
「11歳?」
「ええ」
「見えねぇな」
「見えない側の責任」
「どこから来た?」
「横浜」
「目的は?」
「まだない」
「その意味がわかんねぇ」
「意味を得る必要はない」
「値踏みしてんのか?」
「あら。やっぱり賢い」
「あたしのなにを測ってる?」
「賢いおバカさん」
「あたしは商品じゃねぇ。商品じゃねぇんだから価値はねぇ。踏んでも測っても無駄だ」
「そう。人に価値はない」
「なにしに来たんだよ!?」
「母親に守ってもらえなかった賢いおバカさんには、もっと価値がない」
「だったら守りゃあいいんだろよッ!」
いい加減、腹の立つやり取り。次原は、とうとう悲鳴を上げるように叫んでいた。
この黒い少女──歩帆の謂いが正しいのならば、母親の凋落、その要素に娘が噛んでいる。要因ではないが、要素として、次原が一枚噛んでいる。今のところ被害が出ていないから知らなかったことだが、次原という1人娘の個人情報流出沙汰をもって初めて母親は凋落した。もしも母親だけが公開処刑されていれば、ああも落ちこみはしなかったのかも知れないのである。
娘が危機的状態に置かれていない時の母親は、つまり守っている自負が保たれている状態にあるわけで、ゆえに、前向きな頼もしい存在でいられたのだろうか。
脆くも娘の個人情報は流出した。母親自身の浅はかな行動によって娘が危機的状況に陥った。つまり母親の自負は破綻、ゆえに、前向きな頼もしい存在でいられる道理がなくなったのだろうか。
畢竟するに、それが真相なのか。
なるべくして、ああなったのか。
ならば、そもそもは母親が悪いのだが、二次的に、次原のせいともなる。
絆とは、そういうものなのだから。
だからこそ次原は、
「これから守ればいいんだろが!」
母親を責める気にはなれなかった。
むしろ、
「あたしを嘗めんな!」
レゾンデートルとして利用してきた毎日が、甘えるだけ甘え、守られるだけ守られてきた毎日が、途端に恥ずかしく、情けないことのように思えてきた。
なるほど、母親は今、自分で自分を責め苛めている。思い当たる点は五万とある。最も悪いのは彼女であり、自業自得であるのかも知れない。しかし、同時に、娘である次原の責任でもある。
責任とは、時に善悪とは無関係なものである。時に正義とも無関係なものであり、時に秩序とも無関係。
決して悪くない次原にも責任はある。あると感じた。母親に対する愛着があってこその、痛恨の責任感だった。
今度は、
「守ってやろうじゃねぇかよ」
次原の番なのである。
母親を守ることができるのは、守護し、擁護することができるのは、娘である自分しかいないのである。
歩帆に焚きつけられ、そう気づいた。
気づかされた?
いや、どっちでもいい。
「守ってやる──!」
漲溢る次原を前にして、当の歩帆はといえば、意外そうな顔をしていた。眉毛を持ち上げ、口を半開きにしている。呆気に取られているかのような、抜けた表情である。そして、拍子抜けしたピアノで「そう」と相槌を打ち、全休符を空けて、
「そう」
今度は確かに重ねた。
「知らないだけのおバカさんは」
落胆の面持ちにも見える。
「強心臓でもあったというわけね」
顎を落とし、腰の左右に手を当てる。凍えるアスファルトの路面に視線を移し、明らかに項垂れてしまう。やれやれとでもいうように軽く頭を振り、
「入団は不成立か」
「あ? なんて?」
「用件はなかったということ」
溜め息。
それから、瞳孔さえも窺えないほどの漆黒の瞳で、まっすぐに次原の目を見た。
「それで──どう守ろう?」
「どう?」
「これから守ると宣言したけれど、では、どのような方法で母親を守る?」
そこまでは考えもしなかったが、次原は、
「簡単だ」
躊躇なく答えた。
「守るという方法で守るだけだ」
「守るという、方法?」
「守るってのはそもそも方法だろうよ。方法は方法なんだから、どのような方法もヘッタクレもねぇ」
歩帆は、再び口をぽかんとさせている。
「擁護すればいい。弁護すればいい。守護すればいい。通り魔に襲われたら盾になればいい。テロリストの自爆なら亀になって覆えばいい。結果を考えず、恐れず、方法を実践すればいい。どうせあたしはバカなんだから、守るっていう方法以外に方法なんて浮かびゃしねぇんだ。どうせソレしかできねぇんだから、ソレをやるだけに決まってんじゃん」
この表現、ほとんどが言葉の綾なのかも知れないが、詭弁ではないとする自信がある。嘘ではなく、偽りでもなく、出鱈目でもないとする自信。
「あたしは賢いおバカさんだからな」
いまだ、菩提樹蜂蜜の香りはしている。クリアな、チルアウトな、ともすれば人を善にさせ、議論するための戦いのエネルギーさえも強奪し、劣等感のような気後れを相手に植えつける理不尽な香り。しかし、開きなおってしまえば理不尽さも意味を無くす。イニシアティブという概念が消滅するのだから、戦う必要がなくなり、後は自分の信じる善を胸に認識するのみである。
この少女は、味方であるはずもないが、敵でもない。しかし難敵であり、しかも無敵である。戦えば遅かれ早かれ完敗することは必至。
戦えば──の話である。
戦わなくてもいいのである。ヤンチャな次原にとっては初めての経験だが、今の彼女には、母親との絆を認識し、信念と固めることのほうが急務である。もしもそう促してくれるのがこの菩提樹蜂蜜の香りであるのならば、この風、いくらでも望するところである。
丸めこんだか──初めて自嘲の笑みを浮かべ、歩帆がつぶやいた。
「守りきれる?」
「それはあたしが決める」
即答を返す。
「方法を行使する側が決めることだ」
我ながら、よく難しい単語を知っていたものだと照れ臭さもおぼえるが、
「それとも心配してんのか? ネットの個人情報を盗み見ただけで愛情が芽生えるようなお茶目さんなのかオメェは?」
ひとたび動き出した舌は、くすぐったいほどに滑らかなものだった。
「なんだよ。賢いお茶目さんかよテメェ」
生来の代謝のよさと高揚感が相俟って、汗ばむほどの熱気を感じる。ゆえにか、却って息が白い。吐かれてしばらくの間は、硬質な塊となって宙に棚引き、なかなか雲散してくれない。
対照的に、歩帆の白色はすぐに消える。どうやら興奮状態にはないらしい。いや、やはり落胆しているということか。またも視線を足もとのアスファルトに落とすと、ソフトペダルの効いた音色で「ふうん」とこぼした。耳に響かせるには至らない、内に籠った感嘆符。
「これだからヤンキーの卵は……」
恨み節まで口にする。
「あ? なんて?」
「褒め言葉です。激賞」
上目遣いでこちらを見、腰に添わせていた掌を再び手前に組む。これにて、呆気なく落胆の気配は消えた。なにかを悟ったような、まっすぐに背筋のとおった当初の歩帆へと戻っている。斜に構えて「それはどうも」と次原が威を張れば、
「見込み違いでしたね。あなたではきっと役不足でしょう」
「それがなんなのかを言えよ」
「どうでもよいこと。忘れて」
吟ずるように、あくまでも舞台女優然とした気取ったトーン。鍛練された所作だと見て取れる。簡単には手強さが揺らぐことはないだろう。やはり次原の知るどのヤンキーよりも胆力があるとわかる。
と、不意に、黒い少女が身を翻らせた。首から下を先に振り返らせ、遅れて顎を追いつかせる。背中を向けたというよりは翻らせたというに相応しい、演出のある、呆れるほどに演劇的な所作である。
「しかしながら」
その翻りしな、
「結果を恐れる日が訪れるかも」
まるで用意してきたかのような台詞。
「特に、女性には、いずれ」
菩薩の千里眼か。
「これでも心配しているんですよ?」
今さら、次原の興味が湧いている。
「私、賢いお茶目さんですから」
こんな少女、どこにもいないから。
「ふん。言ってろ」
次原のつぶやきを待って、歩帆はちらとこちらを見た。微笑んでいるとわかった。しかし、すぐに整った領脚を見せつけると、彼女はブロードウェイの大舞台さながら、刻を踏むような大胆な脚捌きで遠ざかっていった。
菩提樹蜂蜜の、濃密な残香。
「……腹立つ」
奇妙に惜しい、名残の香り。
歌帆さん 〜 My Medicine : 寒い女 ■