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今私の目の前に、ドドンと置かれた本には"明日君と出会う時"と明朝体を少し弄った鮮やかなパステルカラーのフォントでタイトルが刻まれていた。フォントの下にいる人物男女は頬を寄せ合っている。見るからに、少女漫画。私はそれをそっと机の脇に避けて、目の前に座る人物にじとりと視線を動かす。
するとその人物はにっこり、人当たりの良い笑みを浮かべると傍に置いた黒地にビビッドカラーをペンキの様に撒き散らしたデザインのリュックサックから一冊本を取り出した。
それは真っ白な表紙、そしてその静けさを切り裂くように黒で、先程パステルカラーになって男女の上に乗っかっていた"明日君と出会う時 10"というタイトルが寸分違わず載っていた。私は再び目の前の人物に無言で視線を向ける。すると、その人は無言で察せよという態度を改めたのかーー或いは諦めたのかーーばしん、とその白い本の上から机に掌を叩きつけた。その表情は些か面倒そうな色が見て取れる。そんな風にしてたら気にしてる頭皮が余計に大変な事になりますよ、なんて普段手鏡を片手に髪の毛を必死に触っているこの人には言えなかった。
「先生の漫画が映画化するんですよ!」
「はあ、おめでとうございます?」
ああもう!貴女の作品だろうに!と大袈裟な程に声を荒げた担当編集の荒井くん。黒縁眼鏡がトレードマークの穏やかな彼を毎度毎度おちょくるのが私の趣味だ。嫌がられているのはわかっていても毎回やっているので、荒井くんもそろそろ担当を代わりたいと思っているだろう。そうなってしまったら寂しいなあ、と思いながらすっかり熱のとれた角砂糖二つを溶かしたミルクたっぷりのいつものミルクティーを口に含む。丁度良い、いつもの甘さが舌を喜ばせる。
「映画化に当たって、先生にもしイメージに当てはまるキャストがいたら指定してほしいんですけど…」
ぽり、と頬を掻いて困った表情を浮かべる荒井くん。最近にしては珍しく、作者の意見を重んじるスタッフに制作していただけると思うとなんだか嬉しくなったが、それとこれと話は別だ。
「芸能人全く知らないんで、お任せします」
ですよねえ、荒井くんが乾いた笑いを漏らした。
ーーー
現役高校生というだけで売れない少女漫画家、だったみょうじなまえこと私。所謂現代ではオタクと呼ばれるような人が両親だった私は、幼い頃から少女漫画や少年漫画、青年漫画やらなにやらに囲まれて育って来た。身近な娯楽といえば漫画。そうして育った私が漫画家を目指し始めるのもそれは必然、というもので。小学生あたりから自然と描き始めた漫画。そして高校進学を機に投稿した少女漫画が有難くもちょっとした賞を頂いて、所謂担当さんがついてくれた。優しい男の人で、この人の言うことを聞いていれば間違いないのだと錯覚した。ーーこれは後に、読者アンケートという形で明らかになることだけれど、この人と共に作った作品は悲しいことに、どれも評価は高くなかった。
二度三度、高校生の漫画家という物珍しさからか私の漫画は掲載された。とはいえ、読者から反応はそれ程でもない上に、高校の勉強と並行して漫画を描くのは体力的にも精神的にも、限界を迎えていた。
そんな状況が続いていた日、父と母は夢を叶えるのは今でなくても良いのでは、と次の漫画で結果が出なければ区切りをつけろ、と言ったのだ。次で終わりならもう好きな様に描いてしまおう。そう思い立ったが吉、私は担当の話もなにも全部すっぱり断ち切って、好みの女の子ハルカと理想の男の子タカノが恋に落ちて行く話を描き上げた。
そうして、現在に至る。
私が描き上げたその漫画?明日貴方と出会う時?は短編という形で世に出たものの、読者アンケートにて沢山の支持を得て連載化、現在十巻まで発行されている。
物語は至ってシンプル、平々凡々な容姿を持った少女がクラスメイトの人気者に恋をする話だ。それが二転三転、ちょっとやそっとじゃくっ付かない正に王道の少女漫画だった。現在十巻にて漸く初デート、という現状を思えば二人の進展のなさは作者の自分としても大丈夫か?と思うところがなくもない。……いや、齢二十三にして未だに彼氏という存在がいたことのない枯れきった私にも言われたくないか。
「好きな俳優さんを、ねえ…」
荒井くんが帰った後、暫く詰まった予定もないので一日オフとした仕事場兼自宅には静寂が訪れていた。ずずり、普段なら殆ど聞こえないミルクティーを啜る音がとても大きく聞こえた。普段ならばアシスタントさんたちの私へのトーンの指定がどうなっているのかあやふやだ、というような割とガチな指摘やら切羽詰まった時には怒号が響いているような場所なので、静かな空間は余計に新鮮に思えてしまう。音楽が常に鳴っていないと集中が出来ない、そんな理由で仕事中のみ付けっ放しにされているテレビの電源を何気なくぷつり、と入れる。何も映さないモノクロの画面から、パステルカラーのスタジオを背景にトークを繰り広げるバラエティが映った。
そこに出て来た、ゲストの俳優さん。最近人気なんですよ知らないんですか先生!なんてアシスタントの神崎さんにめちゃくちゃびっくりされたのは記憶に新しい。容姿端麗、よく響く低音の心地よい声。それでも彼は、私の描いたキャラクターではない。どうせやるならトコトンと、そんな気持ちはなきにしもあらず。でも専門外の私が声を出すよりも、その道のプロの方々に任せた方が安泰だろう。そう自分に言い聞かせて、再びテレビの電源をぷつり、と落とす。
ピンポーン、と静寂を打ち破ったのは呼び鈴の音。原稿の催促やらでしか鳴らないこの部屋の呼び鈴が鳴るなんて、一体全体どういうことだろうと思わなくもない。暫くネット通販は控えようって決めたし、宅配業者ではなかろう。仕方ない、まだ昼間だし。そう結論付けて「お待たせしました」ガチャリ、ドアを開けた。
「初めまして、隣に越して来た……?大丈夫ですか?」
漫画の形容詞でキラキラ、っていうものがある。光っていたり、華やかなものの傍に置く言葉だ。私は人生でそんな言葉を使うような人間には、テレビという箱の中でしかお目にかかったことがない。そんな私が唐突に、それこそ漫画みたいに、ドアを開けたらキラキラが超絶似合うイケメンが立っていたら、腰を抜かすに決まっている。そして何が起こったのかわからず、もしかしてヤクザの取り立てか何かだろうかと思ってしまうのも仕方ないことだろう。驚き方までイケメンなその人が慌てるのを凄い……と思いながら慌てて立ち上がる。
「ひっ、あ、いや、大丈夫です」
「それなら良かった。改めまして、隣に越してきた御剣です。ご迷惑をお掛けすると思いますが、よろしくお願いします。」
琥珀よりも明るい瞳、黒曜石を溶かした様に艶やかな色を持ち、柔らかくウェーブしている髪、元からなのだろうか?少しだけ浅黒い肌、全てが絶妙にマッチした、テレビで見るイケメンよりもイケメン。語彙力の無さは漫画家ならでは、と言ったら誤解を招くだろうが許してほしい。というより、何より、彼は”理想の男の子タカノ”そのものと言っても過言ではない程に、瓜二つだった。私が街中で偶然見かけた彼をモデルにして漫画を描いたんじゃないか?と言われても反論が難しそうな程、その人はタカノに似ていた。
猪突猛進すると周りが見えない私は、ふと気が付いたらそのお兄さんの両手をがしりと無意識で掴んでいた。目の前のイケメンの顔が驚きの表情を浮かべるのを、やっぱりイケメンはどんな顔をしてもイケメンだなあと頭の端で思いながら口を開く。
「あの!映画に出てくれませんか!?」
この出会いが私の自分の描く少女漫画なんか目じゃない程の、漫画みたいな恋の始まりであったことを、この時の私は知る由もない。