「はい、それではその日程で。宜しく御願い致します。」
ぱたん、とスケジュール帳を畳むと同時にピッ、と通話を切る。その間暇な右手は早速所属アイドルの予定を書き込むようにしているホワイトボードに先程の電話で決まった仕事を書き込んだ。縦に割ってあるそのホワイトボードには収まりきらないほどの文字が書き込まれていて、ふう、と一息吐く。
「お疲れ様です。皆さんの仕事、随分増えましたね!」
「お疲れ様です!本当ですよね、凄い増えました…!」
315事務所設立から2年、最初は空白ばかりが目立っていたホワイトボードもどんどんスペースが無くなって、道端で会う素敵なお兄さん達をスカウトしている間にどんどんホワイトボードに書くユニットが増えて、今に至る。ホワイトボードがその名の通り純白を誇っていた時から共に仕事をしていた山村さんとがしりと握手を交わす。最初の頃の苦労を思えばハグでも交わしたいところだが、私達にはジャパニーズの血しか流れていないのでそんなアメリカンな行為は気恥ずかしさの方が勝つので、その提案は内心却下した。そんな古参の二人が感激している最中、ガチャン、事務所のドアが開く。
「Wow、良い雰囲気?」
「舞田君、茶化す場面ではないぞ」
「……はは、確かにね」
雑誌の撮影を行っていたS.E.Mの三人が事務所に戻って来て、各々私達の光景を見た感想を述べる。「僕なんてなまえさんには似合わないですよ」なんて謙遜する山村くんにまたまたあ、とぺちりと腕を叩けば「A good friend!だね、ミスターやました!」と、舞田さんが山下さんの方を向いたものの、山下さんは彼から視線を外して「…そうだねえ」と小さく呟いた。その唇が、更に何かを紡ぐのを、私は見逃さなかった。
「皆さんもうお仕事終わりですよね?明日は…久々の一日オフですね」
ちらり、とホワイトボードのS.E.Mの欄に目を向ければ、山村さんが先程まで書いてあったS.E.Mの雑誌撮影と書き込まれている部分を消していた。また後で、消された部分に新しく仕事を書き込まなければならない。仕事が入るのは良いことだ、彼等が人気を得ている証拠なのだから。
「オフといえば、明日はなまえさんもオフでしたね」
「そうなんです、久々の一日オフです…何かあればすぐ駆け付けますけどね!」
ぐっと拳を作ってそう笑えば、硲さんが真顔で「いや、君はしっかり休息を取るべきだ」と言ってくれたので思わず「はいそうします」とついつい答えてしまった。硲さんの持つ独特の空気に、はっきり言って私は弱いと自覚している。何というか、昔お世話になっていた先生に発言が少し似ているから、だと思う。会話に一区切りついた所でS.E.Mの三人は各々スケージュール帳を取り出して明日から一週間の予定を書き込み始めた。今時の若い子達…例えばHigh×Jokerはスマートフォンでの予定記入が多い為、私も同じくスケジュール帳愛用者として親近感が湧いてくるのはいつもの事だ。三人が書き込みを終えたのか顔を上げたと同時に、私はにっこりと笑顔を浮かべて口を開く。
「硲さん、ちょっとお話があるので山下さんをお借りしても宜しいですか?」
「ちょ、プロデューサーちゃん俺は物じゃないんだけど!?」
「ああ、大丈夫だ。山下くんを宜しく頼む」
「ちょっとはざまさん!?」
私と硲さんの間でさらりと決まる次の展開に山下さんは焦りながら私と硲さんの間で視線を右往左往させる。その間も、私は山下さんをきっちりと見ているのに、山下さんは私と視線を合わせることはない。にっこり笑顔で帰り支度を終えた山村さんの肩を押して「それじゃあhave a nice holiday!」と舞田さんは颯爽と去って行き、その後に続いて硲さんは棒立ちしたままの山下さんと、隣に立つ私に一礼して去って行った。パタン。事務所のドアが静かに閉じた。
「……」
「……山下さん」
一瞬静寂になった瞬間に、山下さんは黒の革張りのソファにとすりと腰を下ろす。私の呼びかけに答えることもなく、山下さんが小さく息を吐く音が鼓膜を揺らす。実のところ私と山下さんはプロデューサーとアイドル、という関係でありながら恋人同士という立場にいた。誰にも教えたりはしていないものの、勘の良い舞田さん達ならばきっと気が付いているだろう。何より本人に自覚は無いだろうけれど、少しだけ、歳上の恋人はわかりやすい。
「山下さ〜ん、お返事してください」
「……はいはい、何ですかプロデューサーちゃん?」
声を掛けながら山下さんの隣にすとんと座ると、山下さんは少しだけ身じろいで返事をくれる。けれど視線は、目の前のガラステーブルに注がれたまま。なんてわかりやすい人なんだろうか、この人は。
「話をする時は、」
「ッちょ!?」
「目を合わせましょうね」
ぐい、と山下さんの両頬を両手で包み込んで、無理やりに自分の方へ向ける。ざり、と掌に山下さんの髭の感触を覚えて少し口角を上げる。驚愕の表情と共にぱちぱちと瞬きを繰り返す表情は長い付き合いで初めて見たから、少しだけ胸の鼓動が高鳴ってしまう。こういう瞬間に、私はどうしようもなくこの人が大好きで、この人の全てを記憶に残したいと思ってしまっているのを、いつも思い知らされる。一介のプロデューサーが抱いて良い感情ではないだろう、顔見知りのあの眼鏡を掛けたちょっぴり頼りなさそうな雰囲気を持つ他事務所のプロデューサーである彼もきっと、こんな私たちの関係には良い顔をしないだろう。でも、他の誰に何を言われようと、私は私達が納得している形ならそれでいいと、恥も外聞もなく思う。
「当てられたくないでしょ、でも当てちゃいます」
私が何を考えているのかなんてきっと思いついてもいないだろう、なんだかんだで心根まで優しい山下さんに、そのままの体勢で静かに笑う。私の考えていることはわからなくても、山下さんはきっと私が見抜いていることなんてわかっているのだろう、瞳に恐れの様な色が浮かんでいた。それでも私はそれに、気付かないフリをする。
「山村さんに嫉妬して、私にも怒ってるんですよね?でもそんな自分に自己嫌悪して今どうしようもなくなって私と目が合わせられない……違いますか?」
ぐ、と私の肩に触れていた山下さんの手に力が入る。彼の藤色の瞳がぐらりと揺れて、また視線を外される。でも今度は彼が視線を外したのを許してあげることにした。だって、頬が真っ赤に染まって、耳まで赤くなってしまった。こんなに余裕がない状態で羞恥を受けている表情は私がスカウトしてから今まで、ライブでも雑誌でもどこでも見せたことの無い、完全なる彼のオフでの表情だ。それに、少しの優越感を覚えて背筋がぞくりと震える。
「自分より歳下の、山村さんの方が私には、お似合いだって思ってる。だからさっきも『俺よりもずっと』なんて呟いてたんですよね」
「…たはは、気付いてたのか」
更にカッと顔を赤くして山下さんは、今度は手のひらで自分の顔を覆ってしまう。諦めたような笑いと共に吐き出された言葉に、私は呆れて息を漏らす。何度も繰り返したやりとりで、何度も繰り返し言い続けてきたことなのに、この人は自分を肯定することが出来ない。誰にも渡したくないと思いながら、自分よりも似合っている人間がいるならそちらに譲るべきだと思って、そんなことを考える自分が嫌で、そして気安く触れられる私も嫌で、堂々巡り。恐ろしく不器用で、優しい人。
山下さんの頬を覆っていた手の平をそのままゆるりと滑らせて、首の後ろで交差させる。ぐ、と力を込めて山下さんを引き寄せると、大した抵抗もなく彼は従ってくれた。それを良いことに、引き寄せられた首筋に勢いそのままに唇を落とす。音もなく触れたそこが、びくりと震えるのに心地よくなる。きっとこの人なら、首にキスする意味をいつか知って笑うだろう。首にキスされるとは思ってもみなかったのか、驚きを隠せないままの山下さんにくすりと笑えば、彼は両手を持ち上げて「まいった」と言いながらその赤い頬を隠すように、天井を見上げた。そんな可愛らしい照れ隠しもなんのその、私は更に彼にぐ、と寄った。私達の間にはもう隙間なんてない。
「山村さんじゃないですよ、私が好きなの。貴方です。山下次郎、次郎さんです。大好きです。私のスカウトした最高のアイドル。」
どっ、どっ。次郎さんの鼓動が早くなるのを、直に感じる。私の言葉にまたも照れてしまったのか、お手上げだと挙げた手を再び自分の額を覆うように持ってきた。かと思えば、その手をおずおずと私の腰に回してぎゅうと引き寄せるのだから、堪らない。きっと私の早くなっている鼓動も、彼に聞かれているんだろう。
「…っは、すごい殺し文句だねなまえちゃん……若い証拠、って感じるよ。俺だったら、恥ずかしくなっちゃう」
小さく囁くようなそのセリフは、私の耳元で囁くように呟かれる。その内容に、くすり、と笑うと次郎さんは不思議に思ったようで「何笑ってるの?」と私の腰に回した腕に力を込めてくるのでさらに笑ってしまう。
「だから私達お似合いなんですよ、次郎さんが言えない分、全部口にしてあげます。大好きですよ、愛してますよ」
ちゅう、今度は唇に。聞き分けのない大人には、これで充分。
シロップたっぷり、ミルクたっぷりの甘いカフェオレと、砂糖もミルクもないコーヒー。私達は例えるならば、きっと、そういう関係だ。