「......やっぱり、やです」
「やです、じゃないです。はやくご飯食べて下さい、柏木さん」
およそ万人にとって憂鬱な月曜の早朝、向かい合って朝食を共にする恋人の表情は暗い。
いつもならば仕事があろうと無かろうと笑顔で食べてくれるので、月曜だから憂鬱な訳ではないだろう。そもそも、今から仕事に行くのは私だけであって、彼は休みである――と言うのに。何故か彼の方が声色が優れないのは、気の所為ではなく。
***
世間一般のアイドルと呼ばれる職業に就く彼――柏木翼さんに定休なんて概念は存在せず、とりわけここ半年程はお互いの休みが丸っと被った日なんて両手で数えて余る。ましてや今はドラマの撮影が始まって超が付くほどの多忙な時期、今日のように朝からオフの日は貴重だった。
オフと知って共に過ごそうと決めていたのは一ヶ月も前で、その頃私は前職を辞めてから復職活動中の身であった。心身ともに疲弊し、しばらくはゆっくり過ごそうと決めていたものの、結婚している訳でもない恋人に経済援助を求め続けるのは気が引けたこともあって次の仕事の目処は立てていた。
不幸な偶然にも、新天地への初出勤が彼の稀有な休日と被ってしまったのが事の始まりで。それを告げた一週間前からというもの、顔を合わせれば「嫌だ」といい、メールに電話にと用件無く飛ばしてくれば「やっぱり……」と考え直すよう促し続け、とうとう当日の起きがけにまで、恋人の駄々は止まらなかった。
「オレが生活費出しますからなまえさんはゆっくりしてて良いのに……」
「そういう訳にもいかないですよ。それに趣味の方にだってお金、結構使いますし」
「……それって、麗くんのことですか?」
うっ。するどい。
柏木さんの指摘通り、私は麗くん、もとい、麗様に貢ぐ事を惜しまない。麗様は柏木さんと同じ315プロダクションに所属するアイドルであり、天より遣わされたかのような美しさを持つお人なのだが、彼の魅力はひとまず置いておくとして。彼らの共通のプロデューサーが私の十年来の友人であったことが切欠で私達は知り合い、お付き合いするに至ったのだが、紹介された時点で「彼女、神楽くんの大ファンなんです」と前置きされたため、柏木さんは私が彼のファンだと最初っから知っているのである。
「……まあ、否定は出来ません、けど。最近、麗様仕事が多いからブロマイドとか色々出るし…」
「むー……、オレと麗くんどっちが大事なんですか、とか言っちゃいそうなんですけど」
(なにこの24歳かわいい)
などとは、本気で言っている彼を前に口が裂けても言えまい。にやけそうになる頬を慌てて咀嚼で誤魔化して、食べ終わった食器を片付けながらかぶりを振る。
「判ってると思いますけど、麗様はファンであって付き合いたいとか、そういうんじゃ無いですよ」
「知ってますけど、やっぱり複雑ですよ。オレだってアイドルだし……名字だし……」
「私が家で柏木さんにキャーキャー言ってたら落ち着かなくないですか……名字なのはもう呼び慣れちゃったんで許して下さい」
「なまえさんが言うなら、薫さんと輝さんにもお願いしてここでライブしますよ!」
「ご近所迷惑なんで結構です」
嬉々と申し出た案は丁重にお断りを入れる。正直夢のような話だが、DRAMATIC STARSがマンションの一室に勢揃いなんてご近所に何を言われるか分からないし、何より勿体無さ過ぎるので勘弁願いたい。唯でさえ、柏木翼という世に愛される人の特別を独り占めしているのだから、彼の優しさに甘えてこの立場に居ることを当たり前にはしたくない。
そんなちっぽけで、私にとっては大事な矜持を尊ぶがゆえに、この身に鞭を打って仕事にゆかねばならないのである。
「それに……柏木さんに甘えっぱなしは嫌なんです。柏木さんって、優しいから……どんどん私、自堕落になっちゃうっていうか」
「オレは大歓迎ですよ?」
「えっ」
「え?」
「……、ええと」
「だから、オレだけに甘えて、オレだけを頼ってくれるなまえさん。大歓迎ですよ。寧ろ、そうなって欲しいです」
「……ソウデスカ」
こっちはこんなにも顔が熱くなっているのに、眉一つ動かさないできっぱり容認した笑顔が妙に憎らしくって、それってどういう意味ですか、などと追求することは出来なかった。聞いたら最期、さっきまでの覚悟が薄れて本当に柏木さん無しじゃ生きられない体にされそうだ。
そうこうする内、ジャケットに腕を通しながら時計を見ればもう家を出る頃合いで、急ぎ足に玄関へと向う。
「そろそろ出ますね。8時までには帰ると思いますので、柏木さんは今日はゆっくりしてて下さい」
「う〜〜……はい……それじゃあ、美味しいもの作って、待ってます。頑張って来てくださいね」
「…っ、ふふ、はい。期待してます」
しょんぼりとした表情で見送る姿はさながら大型犬のようで、なけなしの母性本能をくすぐるには充分すぎる破壊力だった。耳と尻尾があれば間違いなく垂れ下がっていることだろう。
「それじゃあ行ってき――、」
ます、と告げようと振り返った刹那。ちゅ、と軽い音が自分の頬に放たれるのと同時に、柏木さんにしては珍しい低められた、妖美な声が扉を締める直前に届く。
「――夕食の後は簡単に寝かせてあげませんから、楽しみにしていてくださいね」
タイミングよく、バタンと閉じてしまった扉を前に、呆然と立ち尽くした私は、その衝撃に目眩がするような心地だった。だって、夜を楽しみに、なんて想像が膨らんでしまっていけない。けして私がむっつりだとかじゃなくて、あの綺麗な顔ととろけるような声を向けられたら誰だってこうなるに決っている。
怖いような、愉しみなような夜に想いを馳せずにはいられなくって、嗚呼、落ち着かない。足取りは重いのか軽いのかよくわからなくって、こんなんじゃ初日から遅刻してしまいそうだと、荷物を抱え直しながら私は深い深い、溜息を吐くのだった。