初めてその人に出会った時、私の身体にびりびりっ、と雷の様な鋭い何かが走り抜けたのを覚えている。我等が315プロダクション所属アイドルプロデューサーの後ろに少しだけ不安そうに立つ彼が、事務所内を確認するように動かしていた視線がぴたりと私の視線と合わさった時。私は彼に、一目で全てを奪われてしまった。
これが、恋。
奇しくも私の初恋は、社会人二年目、新しい事務所に転勤という形で配属された翌々日のことであった。
「なんつって、お前の初恋相手アイドルじゃん!終わり確定じゃん!ってね!」
「あはは…」
765プロダクションの全力を尽くした年末カウントダウンライブ翌日は決まって皆のスケジュールは空けておき、翌日打ち上げをするのは恒例のことであった。今年も例に漏れず、以前いた765プロダクションの打ち上げにチョロっと顔を出すつもりだったのだが、315プロの社長である斎藤さんが765と同様に打ち上げをすると言い出したので諦めることになった。代わりに可愛い765のアイドル達に今年もお疲れ様、のメールを出したら各々個性的な返事をしてくれたのが今年一番初めに嬉しかったこと、だ。
765プロから315プロへと転勤という形で移ってきて早半年。765プロの高木社長と知り合いだったという斎藤社長の315プロの立ち上げに貢献するようにと言付けされて兎に角必死で仕事をして来た半年間だった。アイドル達も事務所に慣れ、私もまた315プロの一員として誇りを持つようになったところだ。そんな訳で、私が打ち上げでハイボールを飲んで隣に座る山村くんに絡んでいるのも仕方のない事なのだと思ってほしい。
「なまえさん、あんまりお酒呑み過ぎるの良くないですよ」
「酔ってないので安心してください」
「真っ直ぐ嘘つかないで下さい…」
顔真っ赤ですけど…と困り顔で丁寧に返答してくれる山村くんはとても良い子だ。事務所立ち上げから一緒に頑張って来た唯一の同じ立場の同僚である事務員の彼には、同じ苦労を分かち合って来た仲間という意識が一番強いせいで何でも相談してしまうし何でも言ってしまう癖が付いていた。その結果が先程の恋心の暴露なのだから、お酒の勢いというのは笑えない。
アイドルに恋をしてはならない、はアイドル事務所で働く者としては当然のことだ。が、蓋を開けてみれば一目惚れという避けようのない恋の落ち方。我ながら、笑うしかない。しかしながら私にもアイドル事務所で働くなけなしの矜持というものがあって、酒に酔わされた頭でもそれは何とか発揮されていた。そう、とてもギリギリのラインではあるが、「アイドルに聞こえない距離での会話」という形で発揮されていた。
私達の打ち上げパーティーは所謂大人組と未成年組がそれぞれお酒などの兼ね合いで別れており、そこから更に少し離れてスタッフ組のテーブル、という形になっている。先程パッション斎藤こと社長は鳴り出した携帯の対応をしに外に出たし、未成年組よりも近い場所にいる大人組は信玄さんと道流さんとの白熱した腕相撲に夢中になって各々歓声をあげているのでそもそもが聞こえてないだろう。未成年組に至っては大人組のお陰で掻き消えて聴こえる筈も無い。
「山村くん、人生って難しいね…」
「まだまだこれからですよなまえさん」
くつくつと喉で笑いながら言う山村くんに私もまた笑いながら「恋をするって難しいね〜!?」だなんてけらけらと笑う。そろそろ身体の芯までやたらと暑くなって来たし、これ以上の飲酒は明日の生活に響くだろう。元々酒に弱いので先んじて置いていた水のグラスに手を伸ばす。
「なまえ、好きな人、いる?それ、ボク?」
「ピエールのことも好きだけどね〜そうじゃなくてね〜」
「そうなの?じゃあ、好きな人、誰?」
「仕方ないピエールだけに教え…」
はた、とそこで気付く。そもそもピエールと自然と会話をしてしまっていたし、何より先程まであれ程うるさかったこの空間が驚くほどの静寂に包まれていることに、気が付いてしまう。
ピエールの可愛らしい声は通りやすく、そこまで小さな声で話していたわけでもないからきっと聞こえてしまったのだろう。ぎぎ、と機械のように首を動かして隣で私を見上げる可愛いピエール、そして各々固まった状態でこちらに顔を向けているアイドルを見渡した後、山村くんを見る。流石の山村くんも、焦った様な表情を浮かべていた。ゆっくり、そこから気付かれない様にあの人を盗み見れば、彼もまたこちらをじっと見ていたので、ただでさえ早鐘を打っていた心臓が止まった様な気がした。
「あああ、あのど、そ、そ」
「あっなまえさん、!」
口が回らないのは動揺と酒の影響だろうか。兎に角さっさと水を飲もうと手近にあったワイングラスをがしっと掴んで、そこに入っていた透明な液体を一気にごくっと嚥下した。 視界の端にちらりと映った山村君はとてつもなく焦った表情を浮かべていて、一体どうしたのだろうかと思ったものの数瞬後、私は本能でそれを理解する。喉元に訪れる冷たい感覚に身体の芯が冷えるかと期待していたのに、私の身体に訪れた反応はそれとは真逆だった。とろり、喉を通ったその液体が過ぎ去った後はまるで炎が通ったかの様に熱く、肌を焼く様な心地を覚えた。
「それ、社長の日本酒です…」
がっくり、肩を落とす山村くんに何かを言おうとしたものの「やはふやふん」と山村くんの名前も呼べない程に呂律が回らなくなっていた。隣に座るピエールも心配してくれているのか、心配そうな表情で私を見上げているし、優しく背中をさすられているのを感じる。ピエールの手にしては大きい様な、そんな感じがするが…頭が回らないので深く考えられない。というよりも既に限界が近かったらしく、ぐらぐらと視界が揺れてきてしまう上に、ピエールの心配する声も正直キンと頭に響く。ぐらぐら、ぐつぐつ?よくわからない。目の前が段々どろどろと溶けたスープの様な?感じ?
「なまえっちが倒れたーっ!?」
「四季、うるさい」
ゆらゆら、揺れている様で安定している。それがなんだか心地よくて、思わず暖かいそれに頬を押し付ければびくりと少し震えたのが面白くて、くすくすと笑ってしまう。「起こしちゃいましたか?」優しい声が耳を擽る。あの人の声にとても似ているし、あの人の香りがとても近くに感じられて、あの人が側にいるんじゃないかと錯覚してしまう。そんなことは、叶わない夢なのに。
キィ、ガチャン。
扉が開く音がした後に、ふと嗅ぎ慣れた自分の家の匂いがする。私の家はもし何かあった時に緊急として使えるようにアイドル達に場所を知らせられている。これは私も必要であるからそうしているし、その結果偶に事前連絡有りでアイドルが訪れてくることもあるのでなるべく綺麗にはしてあるのが救いだった。
「ちょっと、失礼しますね」
ふわり、と体が浮く様な感覚を覚えた次の瞬間。とさりと柔らかなベッドが私の身体を受け止めてぎしりと軋んだ。慣れた手付きで枕を自分に引き寄せて、そこに頭を乗せる。そんな私の様子を黙って見ていたその人は、ベッドの端に静かに腰を下ろすと私の頭をさらりと撫でる。
「……好きな人、いるんですね」
柔らかで、それでいて悲痛さを込めたその声は私が今までに聞いたことのない声だった。目の前にいるその人は、酒に呑まれてとろとろの頭では誰なのか認識出来ない。どうにか誰かわからないと困る、そう思って目を擦るものの、電気を付けていないから暗い上にぼんやりとしたままの視界では理解出来ない。手を伸ばして、服の裾を摘んでみたら、どうやらそれはニット素材のようだ。ニット素材を着ていて、私の家まで運んでくれるなんてきっと、これは、……山村くんだろう。好きな人いるんですね、とはこれまた面白い発言なので酔いが抜けてまた会った時には飴でもあげよう。
「知ってる、のに…」
「え?」
「わたし、の、好きな人……」
柏木さんだって
さらり、と私の頭を撫でている手が固まった。心地よいそれが突然止まったことにとても寂しくなってしまって、自分から頭を押し付ければその手は再び私の頭を撫でてくれる。ゆるゆると撫でられる度に、眠気の波が意識を攫う。
「好きです、俺も……なまえさんが」
優しい声が耳を撫でる。柔らかな声はあの人によく似ていて、もしかしたら目の前にいるのは山村くんではなくて、柏木さんその人なのかもしれない。なんて、惚けた頭はあり得ない想像を繰り広げている。酒の力ってやつは偉大だなあ。
「また今度、ちゃんと、告白させてください」
さらり、と頭を撫でていた手が私の前髪を掻き分けた。ひやりとそこに風が当たって気持ち良いなあ、なんて思って目を瞑った瞬間。ちゅう、とリップノイズが奏でられる。…?リップノイズ? ぱちり、思わず目を開ければそこには雑誌の撮影の時に見る笑顔よりも蕩けたような、そう感じる笑顔を浮かべた柏木さんの顔が目の前にあった。
「…え?」
「あ、酔い冷めました?」
がばっ、と焦りながら身体を起こせば柏木さんはそっと立ち上がった。相変わらず、私が初めて出会ったときと同じようにすらりとしたその脚にひゅ、と小さく息を呑む。そんな私をくすりと笑った柏木さんを月光が照らしていて、その怪しげな表情にどくりと心臓が高鳴る。あの時あった彼は、アイドルの原石だったけれど、今目の前にいる彼はアイドルそのもの。外見がものすごい変わったわけじゃないけれど、纏う雰囲気が変わったのをまざまざと思い知らされる。というより、そんなことより、どうして柏木さんが私の部屋にいるんだ。山村くんはどこへ。
「ちゃんと鍵、閉めておいて下さいね、なまえさん」
それじゃあまた明日、と柏木さんは颯爽と去っていった。いやいや待って頭追いつかないですよ柏木さん。悲しきかな、取り敢えず身体は彼に言われたことを忠実に守ろうとカシャン、と扉に鍵を掛けた。数分前までの出来事がよくわからなくて、実はお酒による幻覚じゃないのかな、なんて思ったのだがそこで額に触れたあの熱が、まだ引いていないのを思い出す。
「……でこちゅー……」
…明日から、どんな顔して会えばいいのかわからない。ぐり、と扉に頭を押し付けて、私は明日からの生活に頭を悩ませた。
しかし、今となっては、私はでこちゅーよりも、酒に呑まれた時の会話を覚えておくべきだった。私達は、私が覚えていないだけで告白しあってしまった仲だったのだから。