しがない文官である私、なまえは上司であるジャーファルさんのそのまた上司であるシンドバッド王のお陰でつい十分前に初の四徹という未踏の域を達成した。人間、案外やれるものじゃないか、とへらへら笑いながら右手を動かしていたのだが、異様に笑う私にジャーファルさんは共に四徹明けを迎えたせいか蒼白い顔に隈を作りながら私を奇妙なものを見る目で見てきたのだ。とは言えジャーファルさんも四徹明け。ジャーファルさんのそろそろ一段落ついたし寝ましょうか、とシンドバッド王への怒りに満ちているのか眉間に深い深い皺を刻みながらそう言ったのだった。ウワァイ!とばかりにばたんと扉を開く同僚達の背中は歓喜など微塵もなくただただ疲労に満ちていたように思う。まるで敗戦したかのような陰を負った背中に同情の視線を送って、終わりを意識した途端に全身を襲った眠気にくああ、と大きな欠伸をした。
「……やばいっスジャーファルさん、私此所で寝れそう……」
「それは止めてくださいね…」
ジャーファルさんの注意する声にも覇気はなく、二人して溜め息を吐きながら部屋を後にした。私とは逆方向に向かうジャーファルさんの背中を見送っていたら「あのクソ王……」という恐ろしい言葉が聞こえてきたのは四徹明けの幻聴ということにしておこう。
四徹明けともなると外に出るのも久々で、日に当たるのも久々で、更に言えば食事を運んでくれた侍女さんと四徹仲間以外の人を見るのも久々なのだ。何だかすべてが始めてみたときのように新鮮に感じられる。ああ彼処の麗しい桃のようにたわわな美しい胸を持ったお方とまな板はヤムライハ様とピスティ様か…久々に見たせいかピスティ様のまな板が更に板に見えるような…あ、いやこれは言わないようにしないと四徹から漸く解放されたというのに私は殺されてしまう…。
余計なことは考えないようにと視線を違う場所に移してみれば、わいわい騒ぐヤムライハ様とピスティ様をこれまた騒々しいシャルルカン様と正反対に寡黙なマスルールが少し離れたところでお二人を見ていることに気がついた。シャルルカン様がヤムライハ様になんだか色々突っ掛かっているのは周知のことだし、マスルールを後輩として可愛がっていることも周知の事実なので、どうやらマスルールを巻き込んで何かしようとしているらしいことはすぐに理解できた。……マスルールに会うのも、随分と久々だ。四徹明けで色々支障のある状態で出会いたくないとちょっぴり思っていたので、彼を巻き込んでくれたシャルルカン様に感謝の気持ちを抱くがそう簡単にいかないのが乙女心というやつで。…何だか少し悔しくもある。
怨めしそうに二人を眺めていると、なんだかその身長差が目についた。シャルルカン様も結構な身長の高さをしているというのに、マスルールは更にそれを越えて行く。実際、私は今までの人生でマスルールよりも身長の高い男性を見かけたことがないのだ。私の身長は一般的な女性よりも少し小さい。マスルールと並ぶと、彼を見上げて首が痛くなるほどなのだ。まあ、こんなに身長差があると色々と支障もあるわけで。実を言うと、私達は恋仲という関係であるのだが、至って淡泊なお付き合いをさせていただいている。別に欲がないとかそういう訳ではないのだが、マスルールは肉食系かと思いきや余り手を出してこないのだ。勿論、そういった行為はもっての他、キスも無い。誰にも言うつもりは無いが私は正直キスが好きなので、寂しいのだ。以前、溜まりに溜まったせいで、立ち話を二人でしているときに周りに人が居ないのでキスをしてやろうと決意して決行したのだが、身長の高いマスルールに標準より小さめな私が届く筈もなく、背伸びをしても届かないので泣く泣く諦めたということもある。
どうにかならないものだろうか、と歯痒さが募るが、そろそろ眠気のピークなのか目の前がぼやけてきた。マスルールの姿も景色に溶けたかのように見えなくなってしまったので、仕方無く私は自室へと向かう足を再開させようと思ったのだが、目の前がぼやけているのでそれも出来る筈はなく。ついに疲労が足を蝕んだのか、かくりと力無く膝が折れたのだ。ここの床は石だから正面衝突は痛いだろうなあ、とぼんやり思いながら目を瞑ろうとした時、紅い何かが映り込んできた気がした。
―――
ふわふわと、身体が浮いているような心地がした。しかしそれは間違いで、私の首と膝裏に暖かな何かがあって、それが私を持ち上げているようだった。振動で上下に僅かに揺れる身体に、瞼を持ち上げてみると、天井がゆっくりと視界を右から左へと流れていた。ちらりと左へと視線を動かすと、きらきらと光る金色の鎧に包まれた逞しい身体が見えた。そして、その愛しい存在によって未だ夢現だった脳味噌が一気に覚醒した。
「マス、ルール」
「……起きたか」
ちらり、と一瞬だけ視線を私に向けたマスルールは再び前を向いた。不安定な空中というのに不安になったのと、久し振りの近さに思わずマスルールの首に両腕ですがり付けば、彼は一瞬だけ瞠目すると首を支えてくれていた腕を私の背に移動させて安定させてくれた。気遣ってくれる彼にきゅうん、と胸が高鳴った。となれば、私にも欲が現れるわけで。首に抱き着いたことにより近付いた唇、の下にきらりと光るピアスにちゅう、とキスを落とした。
「ん、久し振り」
「……心配、した」
その言葉はどれに向けられているのか。口数の少ない彼のことだ、多分今までの全部に言っているのだろう。四徹明けのこと、倒れたこと、いきなりの行動。他の人にはわからないかもしれないが、少しだけ眉根を寄せているマスルールはどうやら腕の中に今私がいるというのに心配が晴れないようだ。
「大丈夫、だよ。それよりも、お姫様抱っこされると身長差気にならないね」
ね、と笑えばマスルールは狐につままれたみたいな顔をする。そんな表情も可愛いなあ、そう思って今度はマスルールの唇にキスすると、気付かぬうちに私の部屋へと辿り着いていたのか、優しく寝台に落とされた。微睡みに手招かれる私の上に覆い被さってきたマスルールの重みで、ぎしりと寝台が泣いた。重なり合おうとする唇を、人差し指で遮れば、マスルールが少し不機嫌になったのがわかった。
「先、お風呂入る」
「……一緒なら」
許す、ぽつり、とそう囁かれた低く甘い声に私はくすくすと笑った。珍しく私を求めてくれている彼に、嫌な気はしないし寧ろ嬉しくて昇天しそうだ。だからこそ、四徹明けだとしても少しでも綺麗にしておきたい、そう思った。マスルールは私の上から退くと、すっと手を差し出してきた。それに手を重ねれば、マスルールはすたすたと足を進める。繋がる手からマスルールの顔へ、視線を動かした。高い高いところにある顔は、少しだけ赤くなっているようで。身長差っていうのも良いものではないかなあ、と思ったのだ。