「高いところがお好きなのですか?」
純粋な疑問に満ちた声にジュダルはその漆にも似た艶のある髪を掻き毟りたくなった。だが下で一心に自らを見上げる女に少しの動きも見せたら面倒なことになると今までの経験で理解していたので、彼はその言葉を無視した。
「神官殿」
尚も空気を震わす声に、ジュダルは空を見上げながらぐっと眉根を寄せた。女は不思議そうに首を傾げるとざくざくとその足で芝を踏み鳴らしてジュダルに背を向け去っていった。その音が石畳を踏む鋭い音に変わった時、ジュダルは溜め息を一つ漏らし、誰に向けてでもなく舌打ちをした。
女との出会いはジュダルにとって思い出すのは難しい。女は物心ついた時には既に傍に居たのだ。共に歳を重ね、共に育った。だが、彼女とジュダルは会話という会話をあまりしたことがない。それは先程の様子から察せるように、ジュダルが彼女をいつも一瞥するのみで言葉を返さないからだ。だが女はいつも反応が無いと知りながら、ジュダルに話し掛ける。
「良い天気ですね」「お仕事お疲れ様です」毎日毎日、飽きもせずよくやるな、と同僚からも言われているのを見掛けた時には全くその通りだ、これで離れてくれれば良いのにとジュダルは思ったものだ。しかし何時だって彼女は変わらない。毎日毎日、飽きもせず、話し掛ける。反応が無いと知りながら。
バルバッドの一件以後、ジュダルはこうして木の上で何をするでもなくただ空を見上げる時間を過ごすようになった。それは何か思うところがあってなのだが、その胸中を知る者はいない。微動だにせずただ空を見上げていたジュダルの傍で、再び足音が鳴る。ざくざくと芝を踏み締める音が止んだかと思えば、ジュダルの身体を乗せた木がゆらりと軋んだ。足音で誰かはわかっていたのだが、まさか木に乗ってくるとは思わず、ジュダルは振り返り、すぐ横に両手を膝の上に載せ、足を揃え座る女を見開いた目一杯に映した。
くつりと笑いを携えた少女はジュダルの方を向き、二人は向き合う形となった。鼻先が触れそうな程の距離にいる少女に、ジュダルはぐっと喉が詰まるのを感じた。
「良い景色ですね」
ふわり、蕾が花開く様に緩やかな笑みを浮かべた少女の視線はただ一心にジュダルの紅色の瞳のみを映していた。景色なんか見てねえだろ、そう唇を動かそうとした筈なのに、ジュダルのそれは微動だにしなかった。
ジュダルは女が苦手であった。自らの周りを漂うルフと彼女の周りを漂うルフは、確かに同じ筈なのに、ジュダルから見ればそれは輝いていた。自らの周りを舞うそれよりも美しく、儚げに。それは彼にとっては眩しく、疎ましいものであったのだ。彼女と会話をしたくないというのはそれも要因の一つであった。自分と違うものを受け入れられなかったのだ。
意思を持ったかのように動かぬ唇を、どうにか動かそうとしたジュダルから笑んだまま視線を外した少女はぶらぶらと足を揺らし、地面を見詰めた。段々とその身体の重心が全面に乗っていくのがわかったジュダルは、彼女が降りようとしているのを直感した。漸く居なくなる、そう思う何処かで、少しだけ侘しいという気持ちが湧いていることにジュダルは気付こうとしなかった。ただ勝手に動く腕を、止めようともせず。
「…!、神官殿…?」
ジュダルの片腕が、少女の降りようとする細い腰に回り込み、それを阻止した。そのまま少女の身体を自らの腕の内に引き寄せると、戸惑う少女をそのままに、ジュダルは彼女の首元に顔を埋めた。仄かに馨る慣れ親しんだ香の匂いがジュダルの胸を暖めた。身じろぐ様子を全く見せず、ただ為すがままにジュダルに抱かれた少女の表情は、今までよりも穏やかに、慈愛に満ち溢れていた。
「…なまえ、行くな」
か細く震えるように呟かれた自らの名に、少女は嬉しさのあまりにくすくすと笑って、後頭部に添えられた掌の導くままに、ジュダルの背に腕を回し「勿論です、ジュダル」と囁いた。眩しくて、手が届かなかった。傍に居ても、遠い気がしていたのだ。分かり合うだけ無駄だと思いながら、その実依存していたのは、
ジュダルは目蓋の裏に焼き付いたなまえの笑顔を噛み締めたまま、その言葉に応えるように更に強く、その身体を抱き締めた。