私が通う学校は、全寮制の学校だ。入学する前はかなり緊張して食事がロクに喉を通らず、父と母には笑われたものだ。というのも私は今まで日本に住んでいて、家ではどうしても日本語を使ってしまうから語学勉強も含めて全寮制の学校へ入ることを決めたのだ。イタリアという地は日本とのハーフである私にはもう一つの故郷なのだ。故郷で生活することに不便なのは、とても心苦しいことだ。だってまるでイタリア人である父を拒絶しているような気がしてしまう。だからこうしてまだあまり聞き取れないイタリア語を常に聞く環境を得られるということは私にとって喜ばしいことだった。
ハーフとはいえどちらかといえばジャッポーネの血を大きく引いているのかなんなのか、私はアジア特有の艶やかな黒髪をしていた。その割には瞳はイタリアの血に大きく影響されたのか、マスカットみたいな色をしていた。ジャッポーネでは後ろ姿はまさにジャッポーネなのに外国人顔と瞳が違和感だね、と失礼な言葉をよく掛けられたものだが、流石はイタリアーノ、女性を見たら褒めるのが当然とばかりにかなり多くの方に賛辞の言葉を頂いたのだ。嬉しいことは嬉しいが、ジャッポーネで生まれ育った私はそういう言葉に弱く、いつも顔を赤くして逃げてしまったのだ。寮で同室となったミカエラという赤毛の彼女は、そんな私をいつも陽気に笑い飛ばしていたのだ。ナマエは奥手ね!これがヤマトナデシコなのね!というのは彼女の常套句だ。いつか彼女には大和撫子なんてものは今の日本では絶滅危惧種で寧ろそれとは正反対のギャルというものが増加していると教えねばならないだろう。そんな彼女がある日、部屋の壁に何かを貼っても良いかと問い掛けてきたので、私は二つ返事で了承したのだが、それはどう見てもうちの学校の有名人の写真で、ギョッとして少ないお小遣
いの中から奮発して買ったジェラートを思わず吹き出しそうになってしまった(しかし吹き出しても彼女だったら両手を叩いて笑いそうだ)。
「んなッ、こ、これ、ジョバァーナ…?」
「そうよォ!ジョルノの写真!」
安かったから買ったのよォ、と壁に貼り付けた有名人ことジョルノ・ジョバァーナの写真をじぃっと見ながらミカエラははぁんと幸せそうに息を吐き出した。以前からミカエラはジョルノ・ジョバァーナの話を良くしてくる――今日のジョルノはこれこれこう言う本を読んでいたの!とか――ので彼女がジョルノ・ジョバァーナの取り巻きであるかどうかは知らないがファンの一人であるということは推察できた。私はジョルノ・ジョバァーナという人物を全く…顔くらいしか知らない。ああそうだ、いきなり黒髪から金髪へと変わっていて女子達が騒いだというのも一応知っている。どこの国でも美丈夫の扱いというのは変わらないものだなあ、と私はぱくりとジェラートを口に含む。丁度良い甘さが口内に広がって幸せを感じてへらりと笑ってしまった。ミカエラは相も変わらずジョルノ・ジョバァーナの写真をうっとり眺めていた。なんとなく写真の中の彼を見てみると、美しいブロンドの髪が眩しく思えた。さらりと視界に映り込んだ私の髪が余計に黒く見えた。…そういえば、これは勝手に撮って売られている写真なのだろうか。
腰辺りまで伸びた髪は、きっとジャッポーネにいたら友人に貞子と笑われただろう。しかしイタリアでは貞子を知る者は少ないのでそんなことはなかった。なので活発的ではない暗い図書館に私がいても貞子と揶揄されることはないので、少しだけ埃臭い図書室へと私は足を運んだ。人も少なく、静かなこの図書室は誰かが本棚の合間を本を探し歩く足音や、本の頁を捲る紙の擦れ合う音だけが響いている。陽気なイタリアも素晴らしいと思うがどちらかと言えば静かな方が好きな私にはこの図書室で過ごす時間は貴重なものであった。実のところ入学してからイタリア語の会話は問題は無かったのだけれど、読み書きが未だに得意ではなかった。だから時間があれば私はイタリアの児童書等を辞書片手に読み耽っているのだ。そんな静かな空間に、キャアア、なんて黄色い声が何処かから聞こえてきた。十中八九あのジョルノ・ジョバァーナとその周りの人達に拠る物だろう。此処にまで侵食してくるとは侮れない、そう感じながらぺらりと捲った頁に現れたのは拙い愛の言葉であった。今読んでいる児童書は、小さな犬の物語で、意地っ張りな犬が飼い主に漸く本心を伝えるところであっ
た。なんだか胸がほっこりとしてしまって一人にこりと口角を持ち上げてぱたんと本を閉じた。
「Mi fa piacere stare con te…君と一緒にいたい、ですか」
くつり、笑い声が空気を揺らした。まさか誰かに見られているとは思わず、振り向いてみれば、いつも暗い図書室のお陰で点けた机の上のランプに仄かに照らされる、二つのエメラルドみたいに美しい瞳が、視線を向けてくる。じりり、と胸の内から身体を焦がされるような気がした。さらり、と彼の肩に流れた金髪が、ランプに照らされてさながら太陽の様にきらきらと輝いていた。ごくり、ジョルノ・ジョバァーナが纏う雰囲気は何か神聖なもののように思えて、無意識に固唾を呑んでいた。成る程、彼を見たことはなかったが、写真と実物では何もかもが大違いだ。写真では伝わってこなかったのが不思議なほどに、ジョルノ・ジョバァーナからはプレッシャーにも似た何かが脳を揺らしてきた。
「素晴らしい言葉だと、思いませんか?」
ゆるりと上げられた口角、形の整った唇から目が離せなかった。未だに私を映すエメラルドは視線だけで私を焦がし続けている。熱を持った心臓がばくばくと鼓動を奏でながら騒がしく震えている。彼に話し掛けられてからぴくりとも動かず固まったままの私に、彼は再び最初と同じ様にくつりと笑って振り返る私の正面にぎぃっ、と椅子を引いて座った。その座るという一挙一動でさえも息を呑む程の圧倒的な存在感を感じさせたのだ。そこで私は――漸く、と言っても良い程遅いが――彼、ジョルノ・ジョバァーナに対して恐怖を抱き始めたのだ。私が今まで生きてきたなかで、これ程までに圧倒的な存在は居ただろうか…勿論、居なかった。今まで私が出会った人物の存在感が1だとするなら、彼は10だと言っても過言ではない。素直にそう思った。ミカエラ含め、この学校の女子達はこの得体の知れない足元から這ってくる恐ろしさを感じないのだろうか、いや、寧ろ感じない方が幸せなのかもしれない。彼の持つ雰囲気はイコール恋にもなるし、イコール畏怖にもなる、受け取り手によって形を変える珍しいものだと直感した。
「ああ、怯えないでください。それは僕の望む反応じゃあない」
困ったように形の整った眉を寄せて八の字を描いた彼に対して、私は依然閉口したままだ。彼は眉を寄せたまま再び口角を上げ、私の顎へと陶器のように美しく、白い指先を滑らせた。その拍子に、私は彼の改造された学生服を目の当たりにした。胸の部分はハート形に切り取られ、胸板がさらけ出されていて、その横につけられた二対のテントウ虫のブローチはランプの光でぼんやりと光っていた。見なければよかった、と咄嗟に目を逸らしたものの、他に見る場所もなく彼の瞳へと再び視線を動かしてしまった。二対のエメラルドは、何が起こっているのかわからないが、燃えていた。錯覚なのかもわからないが、エメラルドは燃えてルビーへと変化していたのだ。すぅ、と細められたその宝石に、焦がされ続けていた私の心臓ががしりと掴まれた錯覚を起こした。
「Mi hai urbato il cuore」
私の顎をついと持ち上げて、ルビーの瞳を細めて笑う彼のブロンドの髪がさらりと私の頬に落ちてくる。太陽を溶かしたように輝くそれと、暗闇と形容した方がわかりやすい私のそれは驚くほどに不釣り合いに見えたのだが、妙に馴染んで見えたのだ。きっとこのマスカット色も、この美丈夫にかかればルビーに馴染んで見えてしまうのだろう。そんな妙な確信を抱いて、私は静かに落とされるであろう唇を囁かれた甘い言葉をリフレインさせながら待ったのだった。
Mi hai urbato il cuore.
※貴方は私の心を奪った