私の彼氏、は世の中に広く知られた人間だ。そしてその人は、彼女がいるなんてことを知られてはいけない人間だった。夢を売ること、それが職業。……そう、アイドル。私たちの恋は彼がアイドルになる前、教師時代…より前、大学時代から始まった。
大して主張の強くない私、たまたまゼミで一緒になった彼が私に気さくに話し掛けてくれたことから私が一方的に恋をした。今まで人に恋したことの無い私が、初めて人に恋をした。必死にもがいて、どうにか彼と付き合うまでに至ったのが人生で一番頑張ったことかもしれない。頑張ったけれど、それでも伊集院さんと同じくらいかそれ以上、という程におモテになられていた彼がどうして私を選んだのかわからなくて悩んでいた時期もあった。
そんな時、彼繋がりで知り合った伊集院さんは「マイケルが君を選んだのは、俺には分かるけどね」なんてウィンクと共に言われたことがある。私は彼に選ばれて、彼は私を選んでくれた。なんてことのない、ただの男女の付き合いなのかもしれないけど、私にはそれが特別なことにしか思えなかった。
大学時代から何年も経った。彼の目指した道は今は違う場所になったものの、私が好きになった彼は変わらない。私の気持ちは何一つ変わらない、のだ。
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人が集まっている列の中で私は一人静かにスマートフォンの画面を眺めていた。周りの人達はこれからパレードカーで登場するアイドル達の話題で大いに盛り上がっていて、その声で寧ろ耳が痛い程だ。すり、隠す様に指先でスマートフォンの画面を撫ぜる。画面に映る人物は、カメラに向かって目線を遣りながら片手に花束を持って唇に人差し指を当てていた。「Suprise!」という題名で送られてきたメールに添付されたその画像は世の中に出回っていない私だけに送られてきた画像だった。ホワイトデーというイベントに則って、プロデューサーさんへと315プロダクションの皆さんでサプライズプレゼントを贈った時の写真だったらしい。万が一、周りに見られた時が恐ろしいけれど、少しだけの優越感に浸りたくてこうして今も彼の画像を見てしまっていた。
この画像に写る彼は私だけの彼。これからやってくる彼は皆の彼。ふう、と一つ息を吐いて心を落ち着かせる。これからも、これ以前も、何度も経験することなんだ。
数人が前に立っているものの、なんとか車に乗るアイドル達を見られる場所を確保した。装飾こそ異なる物の、お揃いの白いスーツに身を包んで手を振りながら通り過ぎる姿は他社のアイドルに対して詳しくない私でも、圧巻の一言だ。
数台の車が通り過ぎ、漸く目の前を315プロダクションの車が通った。ひらひら、と手を振っているアイドルの彼らは眩い。隣に立っている人は315プロダクションのファンなのか「ヤバイ!」と何度も繰り返しながら何かを祈るかのように両手を握り合わせていた。その瞳は煌いて、輝いている。と、その時。ぱちり、と彼としっかりと目が合った。彼は一瞬目を見開いたものの、すぐに笑顔を浮かべると、掌に唇を寄せ、離す。ちゅ、とウィンクと一緒に投げキッスをしてきた。
え、と思った私を置き去りに「ギャア!」と隣の女性が断末魔の様な声を上げた。隣の女性、だけじゃない。周りも皆頬を紅潮させて黄色い声を上げていた。きっと、私に向けられた投げキッスだったんだろう。けれどそれを受け取ったのは私の周りにもいる、この場の全員。何故だか、その事実に心臓が冷えたような心地がした。
☆★☆
アイドル達のパレードが終了して、プレゼントコーナーが始まった。配られた番号札で、抽選で選ばれた人に、サイン入りのハートのカードがプレゼントされるという企画だそうだ。さっき隣で死にかけていた女性は、今度は必死の形相で番号札を握り締めていた。橘くんが「18番のカード」と声を出した瞬間に項垂れていたので、どうやら彼女は外れてしまっていたらしい。18番を持った女性がステージに上げられると、私達やアイドルを背に立たされた。私達から見れば、これから彼女に送られるプレゼントというのが315プロダクション全員からだというのは容易に予想できた。そして始まった、そのプレゼント。……まるで、恋人に愛を囁くかのような言葉の数々に、私は息を呑んだ。
「君に花束を…俺の心ごと、受け取ってくれるかい。My dear?」
本来なら、きっとこの心臓は熱くなるはずなのに。彼のその言葉に私の心臓は逆に静かに冷えて行った。どうして、どうしてなんだろう。
☆☆★
何かが変わることはない。あのイベントの後も彼とは変わらず連絡を取っていたし、彼からすれば何があったかなんてわからないだろう。なにせあのイベント以来会っていないのだから。お互い重なった休みである今日、会おうか、という彼のお誘いに二つ返事でオーケーを出して、私は彼の自宅のマンションの前に立っていた。芸能人が住んでいそうだとは到底思えない、所謂普通のマンション。基本的にインドアな私と、アイドルである彼が会うときは必ずお家デート、というのがお決まりだった。なんで今日に限って彼の家なんだろう、なんてことは言えない。腹を括って彼の部屋の前までやって来て、インターホンを鳴らせばすぐに反応が返って来る。彼の足音が近寄って来て、ガチャリ、扉が開いた。
「Welcome my home!なまえ」
「おはよう舞田くん。今日も元気そうで何より」
きらり、眩いほどの笑顔を浮かべた彼が私に「さあ入って」と促した。彼に倣って私も笑顔で「うん」と返事をすると、彼は一瞬ぴたり、と固まった。どうしたの、と声を掛ける間も無くすぐに彼はいつもと同じ様に私の背中を優しく押した。
相変わらず彼の部屋はセンスの良い家具であふれていた。私はいつもこの空間に自分がいることにどうしようもなく違和感を感じてしまうのだが、前に彼にそれを言ったら「いつか一緒に住むのに?」なんて冗談ともそうでないとも判断し難い返答をされてしまった。
「会うのはひさしぶり…だよね。舞田くん元気だった?」
「Of course!モチロン!」
私をソファに座らせるなり、お茶を出そうとキッチンへ向かった舞田くんの背に問えばいつもと変わらない明るい返事をくれた。それにほっ、と息を吐くと、私のマグカップにアップルティーを注いで、彼が目の前に置いてくれた。有難う、と礼を言えば、彼は私の横に座った。
「なまえは?」
「…え?」
「How are you?元気だった」
舞田くんから同じ質問を返されるとは思わず、一瞬ぽかんとしてしまったものの「うん、もちろん。オフコース!」なんて嘘を吐いた。本当は元気があるかないかで言われれば、全くなかった。あのホワイトデー以来、コマーシャルやらで舞田くんを見るたびになんとも言えないもやもやが心を覆い尽くして、あんまり眠れていなかった。でも彼は聡いし優しい人だから、メッセージではいつもと変わらない様子を演じていたのだ。だって私は、彼の彼女として今存在しているだけでも厄介なのに、これ以上彼の足枷にだけはなりたくなかった。
舞田くんは私の答えを聞くと、ゆっくりと左右に顔を振った。その表情がどういう感情で浮かべているのかわからなかった。
「You’re lying…ねえ、俺には言えない?」
「嘘、なんて……」
「わかるよ、なまえのことならなんだって」
だから、言って?そう囁く彼に、心臓がどきりと揺れたのがわかった。あの時と違う、冷たいなんてことはない、寧ろ熱くて熱くて、すべてが溶けてしまいそうだと思った。
「わかんない……わたしにもわからなくて、舞田くんが私以外の人に、夢って言えばいいのかな、とにかく、アイドルするのがなんだかもやもやして……」
「……」
「舞田くんのこと、舞田くんの道、応援したいんだしたいのにこんな感覚を覚えてる自分が嫌で……そしたらなんだか舞田くんと会うのも……」
「ねえ、なまえ」
舞田くんは私の言葉を静かに聞いていたけれど、私の言葉を遮るように声を掛けてきた。一体何だろう、と舞田くんへと目線を動かすと、舞田くんは何故か真っ赤になっていた。へ、と変な声を上げれば、舞田くんは私の両肩に手を置いた。
「……Are you jealous?」
「……や、きもち……?」
舞田くんのその台詞に、ぼぼぼ、顔に火が付いた様に熱くなるのを感じた。やきもち。……やきもち?アイドルの彼氏を持った私が、ファンにやきもち?これが本当にやきもちだとして、それは許されるんだろうか?ふと、頭の中にあのホワイトデーイベントの日に隣に立っていた女性の姿が過った。投げキッスやウィンクをして貰っただけで、悲鳴を上げてしまう彼女達。……こうして、隣に居て、恋人として傍に居られる私。寧ろ私が、ファンの子達にやきもちされて然るべきなんだろう。なのに私は、彼女たちに嫉妬している。なんて、傲慢なんだろう。彼の全てが私じゃなきゃ嫌なのか。
「舞田くん、私怖いよ。私は、舞田くんの全部が欲しいみたいで、怖いよ……誰よりも、傍に、いるはずなのに…」
「俺は、嫉妬してくれて、嬉しいよ。大学生の時、いつも北斗に相談してて、俺には何も言ってくれなかったから…今本音を言ってくれて…」
舞田くんは私にそう言った。舞田くんでも、嫉妬することがあるんだな、と意外に思ってしまった。先程よりももっと真っ赤になったその表情は、なんだか見ていてとても気恥ずかしくなるし、私も私でとんでもないことを口走っているから余計に恥ずかしい。どうして二人でこんなに真っ赤になっているんだろうか。舞田くんは一度ぺち、と自分の頬を叩いたかと思うと、私の瞳を今度は真っ直ぐに見据えて来た。その瞳に、冗談や茶化しの色は全く見られない。
「これから先もきっと、俺は君に嫉妬させてしまうと思う。でも…俺の全部は君のものだから、俺には君じゃなきゃダメだから、お願いだから……傍に居て」
舞田くんが、英語を使わないときは本当に真剣なとき。昔からの付き合いで、それを良く知っている私は、心臓がどくどくと高鳴っているのを止められなかった。ねえ舞田くん、わたしたち、こんなに好きなのに、答えは必要なんだろうか。