「やっどおわっだ……」
ぐぐっ、と両手を上に突き上げ背筋を伸ばしながらはあ〜、と特別に長い溜息を吐き出す。腕を下げると同時に眼鏡を外し机の上にぽいと放り投げ、そのまま机の上に右頬を下にして頭を乗せる。そんな私の眼の前にことん、という音と共にお気に入りの猫のキャラクターの描かれたマグカップが現れる。
「なまえさん、お疲れ様です」
「山村さんお疲れ様です〜!」
やっと終わりました、と有難くマグカップに注がれた紅茶をごくりと一口嚥下する。丁度いい砂糖の量と茶葉の濃さ。カフェイン摂取で寝起きもバッチリだ。まだ太陽が頭上にあるうちに始めた筈なのに、既に空は太陽が身を隠し、月が光を放っている。そんなに時間が経ってたのか、と時計をちらりと見ればその長針は既に22時を回っている。確か始めたのは、と思ったところでその思考をシャットアウトした。どうかんがえても落ち込む結果をわざわざ確認する程私も馬鹿じゃない。
「山村さん付き合わせてごめんなさい、私が事務所閉めますから先に帰宅してください」
「有難う御座います、お言葉に甘えてお先に失礼しますね」
それじゃあまた、と山村さんは手を振って去って行った。ひらひら、と私もそれに手を振って返す。バタン。扉が閉まったところで大きな大きな息を吐く。実は、山村さんを返す為にちょっとだけ嘘をついたのだが…まだ作業は終わっていない。そもそも明後日提出だというのに全く手をつけていなかった私が悪いのだけれど、そんな事態を引き起こしたこの事務所の事務員不足にも苦言を呈したい。…まあそんなことをぐだぐだと言っていては終わるものも終わらない。仕方ない、と再度紅茶を一口嚥下してブルーライトを放つパソコンに向かい直す。
今日は彼も確か撮影が深夜辺りまで入っていたし、きっと彼の撮影終わりには迎えに行ける筈。いや間に合わせる。ぱちん、と目を覚ます為にぱちんと両頬を叩く。さよなら眠気、こんにちはやる気。
ーーー
さらり、さらり。何かが頭を撫ぜる感覚がある。まるで宝物を撫ぜるような優しくて温かいその感覚。身を委ねていたくなるその気持ち良さに、思わず少しだけ笑んで「きもちい、」と小さく呟くとくすりと笑う声が聞こえた。
「Good morning?My sweet Sleeping Beauty」
流暢に流れる英語。よく聞き慣れたその声に気分が和らぐ。……英語?どこで?誰が?
「っ!?、」
「あ、残念」
ガバッ、と起き上がる。パソコンの画面の右下にある時計を真っ先に確認すると、そこに記されていた数字は01:23。まずい、なんで、迎えに行かなきゃ、と立ち上がろうと脳から指令を出した瞬間、その次に目に入ってきたのは、ドアップの顔。鼻先が触れ合いそうなほどの近さでその人は大きな瞳をぱちりと瞬かせてからりと笑った。ひっ、と引きつった声が思わず口から漏れてしまうと彼は更にくすくすと笑って私の頬に指先で触れてくる。
「な、なんで、舞田さん、」
「プロデューサーちゃん…ううん、二人っきりだし名前でいいよね?」
「!?だ、だめです!」
「Why?二人っきりだよ?」
二人きりとはいえ、事務所ですから!と声を張り上げる私に舞田さんはむう、と頬を膨らませた。大凡成人男性のやる顔ではないのだが、年齢より若く見える彼の場合それすらも様になっているのが事務所の所属アイドルとしてなんだか誇らしく感じてしまうのは根っからのプロデューサー根性だろうか。そんなことを考えながら彼の次の仕事はどんな方向でアプローチしよう、なんて考えていると先ほど頬に触れていた指先がむに、と頬を優しく摘んだ。
「寝落ち、しちゃダメっていつも言ってるよね?」
「うっ…は、はい、それは…」
「事務所とはいえ、office hours以外で他の男と二人きりになるし…」
I'm worried about youと囁かれた言葉。舞田さんの表情はというと少し不機嫌そうで、申し訳なく思ってしまう。他の男、というと山村さんのことだろうか。…?、舞田さんは今日はS.E.Mとして映画のお仕事が入っていたから事務所に私と山村さんだけが居たことなんて知らないと思うんだけど。はて?とクエスチョンマークを浮かばせる私に気付いたのか、舞田さんは頬を摘むのをやめると先程山村さんに淹れてもらった紅茶をごくりと一口嚥下した。そして、ぺろり、と赤い舌で自分の唇を一舐めした。見間違いかもしれないけれど、その瞬間の舞田さんの瞳はまるで捕食者の様に激しい光を放っていて、思わず固唾を呑む。…のだが、舞田さんはケロリと表情を笑顔に変えてみせる。
「撮影の合間に事務所に寄ったんだけど、なまえ、俺に全く気付いてくれなかったよね。I was hurt…」
「えっ、ほ、ほんとに気付かなかった…ごめんなさい…」
傷付いちゃったよ、と眉尻を下げて八の字にする舞田さんに私の心臓がぐっと掴まれる。この人は、ずるい人だとわかっている。この表情は今までに何度も見たし、この表情の後に要求されるものは私にとって毎度死にたくなるように恥ずかしい、ことが八割だ。きっと、多分これは、そういうことだ。ちらり、と見える赤い舌は捕食者の高揚を明らかにしていて、それを見てぞくぞくと背筋を震わせる私はきっと、
「傷付けた分、たっぷり甘やかしてね?My sweetheart」