好きです、好きすぎて困るんです。
わかる、めっちゃわかる。私は一度周りを見渡して誰もいないことを確認すると、大きく頷いた。尚、この一連の行動が文字通り一人きりで行われたことだと理解して欲しい。実に変人である、という苦情はこちらでは受け付けてはいないので、どこかのラジオでご意見としてでも投書していただければ嬉しい。はてさて、何故私がこんな変人極まりない行動に至ったかというと、話は実に簡単なことである。
今朝方、友達がやたらと勧めてくる最近流行りの少女漫画というのをお借りしたのだ。内容はというと、アイドル科と普通科に別れた学校を舞台に自分の弟とユニットを組む年下の生意気な男の子とのお話であった。最近では少女漫画よりも少年漫画ばかりを読み耽っていた私からすれば、唐突に入るラブシーンやトキメキシーンに恐ろしい程の動機と息切れに目眩、という一歩間違えれば風邪の症状と勘違いしてしまいそうな程の出来事が襲ってきたのだ。授業の合間の休み時間にちょこちょこと読んでいるだけでこの症状…これは一体どうなってしまうんだ…と期待半分恐ろしさ半分で私は放課後を迎えた。常々私はお恥ずかしいことにい、いわゆる彼氏さん、と帰ることになっているので、彼の部活を待つ間に読んでしまおうと全四巻のうちの一巻を取った。そして静かに読み進めていたその時、冒頭のセリフが出てきたのだ。
好きです、好きすぎて困るんです。
もう本当これ、すごくわかる。先程言った通り、私にも彼氏という存在が一応いるのだが、私には勿体無いほどの良くできた人間なのである。ひっそりとファンクラブができている程の容姿に、誰とでも分け隔てなく柔かな物腰で、自転車競技部では一番速いんだそうだ。しかもその自転車競技部も全国一位と言われるもので、謂わばこの日本の高校生の中で一番速いと言っても差し支えないのである。…こう列挙して見て思ったが、なんて恐ろしい人と付き合っているのだろうか。ここで私のスペックを確認しようと思う。容姿…甘めに言っても中の下?いや下の上…?頭はうん、中の中。酷い人見知りというか男子とはほぼまともに喋れないし、家では上下中学のジャージという芋具合。これが身の程知らずと言わず何と言おうか。…それでも私が別れられないのは、文字通り好きだから、なのである。
私から告白したわけではなく、告白されたということから始まった私たちの関係は酷く淡白なものである。どこまで進んでいるのかと問われれば、それこそ手を繋ぐという段階までしか行っていない。…も、う付き合って三ヶ月経つのである。一応ね。私がこの話を友人にすると般若のような――友人は彼のファンクラブに加入していたそうで、私が羨ましいらしい――顔をされた。そしてその表情はすぐに一転して「アンタ、めっちゃ大事にされてるのね」と、めちゃくちゃ慈愛のこもった笑みを投げられた時には私は少し泣きそうになった。勿論彼に不満があるわけじゃない。大切にされていることは彼が向けてくれる優しい瞳でわかる。だからこそ、私はこの台詞に恐ろしいほどのシンパシーを感じたのだ。
もうここまで言わせてもらえばわかると思う、私は彼にベタ惚れである。最近では一緒に帰る時に彼の肉厚な唇をガン見していたりする。痴女と呼ぶのは勘弁してくれ。欲求不満とかそういうのじゃなくて、なんというか、こう、好奇心?いや、純粋に彼ともっと深い関係になりたいと思っているのだ。…好き、だからこそ。
窓の外、太陽が落ちてゆくのを眺めながらそこまで考えて、今度は少女漫画の少年少女に目を向けた。どうやら彼等は初キッスに向かう展開を見せているらしく、帰り道の途中、最早何度も言ったあの台詞を女の子の方がつぶやいた次のページで、男の子がドキン、と心を高鳴らせているシーンが描かれている。こりゃあキスするな、なんて少女漫画から離れて久しい私ですら察してしまった。
「みょうじ」
「はひィッ!?」
ビクゥッ、と恐ろしい程身体が跳ねた。それも仕方ない、として欲しい。知らない間に私の背後に回っていたその人が、わざと私の耳元で普段聞いたこともない低音で、私の名前を囁いたのだ。そりゃあ身体も跳ねるってもんですよね!?
「し、し、しんかいくん…」
「はは、驚きすぎだろ。随分集中してたんだな?」
ぐるり、と振り返ってみれば、思ったよりも随分と近い距離にいる彼に心臓が口から飛び出すかと思うほどにドキドキと大きな音を鳴らしていた。彼は私の手に持たれた漫画に興味を持ったのか、私の手に持たれていたそれをするりと自然な動きで取り上げた。その身動ぎで彼の制汗剤の香りが漂って、少しだけ胸が高鳴った。というか、勿論間に椅子の背もたれはあるのだけれど、背中から抱き込むような体制であることに彼は気付いているんだろうか。
「少女漫画か?珍しいの読んでるな」
「え、う、うん。と、もだちに借りたの」
私の手元から取り上げた少女漫画をぱらぱらと彼が捲る音がして、私の心臓は落ち着きをなんとか取り戻そうとする。ビークール、クールになれ私、ふう、と小さく溜息を吐いてうるさいほど音を奏でる心臓に静まってくれ、と念を送る。その間に彼の少女漫画への興味も失せたらしく、「へえ、そうなのか」と呟いたかと思えばぱたりと本を閉じて机の上にそれを置いたのであった。
「あ、帰らなきゃだよね、待って用意す」
「…なまえ」
それは初めて呼ばれた名前だった。いつも苗字で呼んでいるのに、と私は手荷物を片付けようとした指先を動かすことが出来なかった。私のその手は、彼の手に握られていたのだ。痛みも感じない、柔かなその握り方に彼の私への気遣いを感じてしまう。一体どうしたのだ、再び鳴り始めた心臓の音を何処か遠いところで聞いている私はゆっくりと振り返った。彼は夕日に当てられて、その鳶色に青が混じった髪の毛が美しくオレンジ色に輝いていた。青みがかったその瞳は、何かに燃えているように錯覚するほど綺麗な光を伴っていた。
くい、と私の手をつかむ方とは逆の手が私の顎を持ち上げる。あれ、これって、ぱちり、と瞬きをした私に少しだけ笑った彼は、そのまま唇を落としてきた。重なり合ったその熱さに、溶けてしまいそうだと思ったのは私だけではないと、そう願いたい。
オレンジロード
家に帰って、私は友人に借りた少女漫画をもう読めないことに気がついてしまった。どうしてかわからないけれど、新開くんはきっとあの漫画の展開を読んでしまったのだ。…私たちのシチュエーションとまったく同じ状態で、漫画の中の少年少女たちがキスしていたのである。…これは、その、私が色んなことに慣れるまでは暫く本棚に収容するしかないと、そう思った。