受賞した後は、怒涛の毎日であった。高校受験という重要なイベントを控えている私に対して金田先生が何かと絵を描けと迫ってくるようになったのだ。とはいえ、私は内申を志望校の平均よりも高く取れていたので、余り焦ってはいなかった。先生の言うままに描く絵は、あの沖縄の海を描いた時よりも楽しくなかったし、描いた絵も私の目には何の感慨もなく映った。先生は私の描いた絵を見ると毎度毎度目を丸くさせた。そうして五枚目の絵を完成させた時に、先生は言った。
「…お前は、あまり実績のない高校に進んだ方がいい。描きたい絵を好きな時に、描けるところに行け」
受賞後、周りの誰もが言った。
「○○高校は美術部に力を入れてるらしいよ!」「みょうじさん、○○高校に行って将来は画家でしょ〜!?」
そんなこと言った覚えはないし、ただ自分が描きたいと思った絵を描きたいと、そう思っていた。だけど、親も賞を撮ったことで期待してしまったのか、親までも○○高校を推してきた。別に行きたいところもなかったから、仕方なしにそこに私も進学すると先生方に告げていたのだ。だからこそ、驚いた。○○高校へ、行かないと。そう思い込んだ私にとってその言葉は、随分と心を軽くしてくれた。
家で両親に相談すれば、母は納得していないような顔をして、父は静かにわかったと答えてくれた。母は私の将来を考えて、私に○○高校を勧めてくれているのもわかっていたけれど、それでも何かに囚われる生き方は嫌だと思ったのだ。
「多くのものを見て、好きなものを描け」
だからこそ私は、何にも囚われず、自分らしく生きてゆける寮生活を選び、尚且つあまり美術部が有名ではない箱根学園を選んだ。母の反発がなかった訳ではないが、父が何とかしてくれた。
…そうして、箱根学園で一年生になった私は当時からジワジワと人気があった東堂くんのファンである友人に誘われて、私はとある夏の日、箱根で開催されたロードレースを見に行ったのだ。
蒸し暑く、呼吸すらも面倒に思えてくるその気温の中。先頭が目の前を過ぎるその瞬間を今か今かと心待ちにしている人達の中で、どうして私はここにいるのだろうか、なんて正直帰りたいとも思っていたのだが、先頭の選手が漸く米粒程の大きさで見えてくると、思わず私も仕切り板から顔を出してしまうほどに興奮していた。案外普通なのかもなあ、なんて先頭の人の走りを眺めていたその時。
ぞくりと地を這うような寒気がその人の後ろから漂ってきた。自動車より速く、一瞬で目の前を通り過ぎてしまうその先頭の一つ後ろ。そこには…鬼がいた。獰猛なその瞳は己の目の前を走る人物をぎらりと睨め付け、厚い唇の間から垂らした舌は楽しげにその唇をなぞる。後ろから迫る何かに気付いたのか、慌てて振り返った前の選手は、その恐ろしい表情にひぃっ、と息を呑んでいた。当たり前だ、遠い所から見ている私でさえ、恐ろしいと心の底が震えている。一番至近距離で見ているその人が恐ろしいと感じてしまうのも当然だろう。…恐ろしいけれど、なんと美しいのだろうか。スローモーションに見えているのか、驚くほどこの一瞬を長く感じている私の目の前で、鬼が獲物に喰らい付いた。一呼吸のうちに前の選手を抜き去ると、そのままその背は小さく消えて行く。暫くその一瞬の光景が忘れられずにほう、と息を吐いていれば「うーん、速かった!流石は箱根の直線鬼って感じだよね〜」と友人はからりと笑った。
「ね、ねえあの人って…」
「ん?新開隼人くんだよ、なまえの隣のクラスの」
「しんかい、くん…」
その名を呟くと、何故か心の底からぞくぞくと背筋を柔らかに蝕む何とも言えない感情が溢れ出した。今にして思えば、私はあの恐ろしいまでの美しく速いレースに心を奪われ、更には新開くんにまで惚れていたという訳だ。気付けば私はそのレースの絵を描いていた。実の所、完成させたものの気恥ずかしくて部員にも見せておらず、部屋に置いてある…というのは、私の秘密である。
―――
ふぅっ、と息を吸って隣のクラスのドアを開き、なるべく周りは見ないようにして目的の席の目の前まで約十秒程で辿り着く。そこで椅子に座っていた少しだけ髪の跳ねた夏の日差しが似合いそうな青年の瞳は私と同じ、ある種の諦観と決意に燃えていた。
「わっち…じゃなくて渡辺君!」
「お、おうみょうじ!一体何用かね!?」
「あっ、と、明日の昼休み!中庭にてきっきき君に告白しよう!待っているぞ!」
「ナニィッ!?な、ナンダッテー!」
以上、お粗末劇団は解散である。脚本はマキちゃん担当だ。…というのも、昼休みになったらそそくさと逃げ出そうとしていた私の考えがお見通しだったのか、マキちゃんはチャイムが鳴った瞬間に私の机の上に上記のセリフの書かれた紙を置いたのだ。そうなれば、私に逃げ道なんてなくて。…三分ほどでどうにか叩き込んでわっちのところにこうしてやって来たのであった。この台詞、周りから見れば恐ろしい三角関係になっているんじゃないだろうか…そんなことを思うとなんだか気恥ずかしくて周りを見ないでとっとと教室に帰った、のだが。
…一瞬見えた東堂くんの、寧ろこっちが吃驚してしまうほどに驚いた表情がすごく気になった。東堂くんは目立つのが好きだから、彼のクラス内であの瞬間一番目立ってしまった私達になにか思うところがあったのだろうか?と少し疑問に思うものの、正直目立つのが嫌いな私はあの出来事をどうにか頭から消してやろうと頭を振るのであった。