手と“手”
私には、好きな人がいる。
同じ会社に勤めている一人の男性に想いを寄せてからというもの、億劫に感じていた仕事内容も嘘のように晴れ晴れとした気持ちでこなせている。
何せ彼に会えるのだ。気分がふわふわと浮かれて仕方がない。
彼がいれば、ひたすら書類とにらめっこするこの時間も苦ではなくなってしまう。
とはいえ、彼と会話出来るわけではない。
私は元々引っ込み思案で、人と話すのもそこまで上手いわけではない。
しかも異性相手となると目すら合わせられなくなってしまう。
だから私はいつも彼を見つめるだけだ。
遠くから彼の働く姿を眺めて、ああかっこいいな、と思うだけ。
一度エレベーターで偶然一緒になった時は、嬉しさと緊張で顔が赤くなって横も向けなくて、耐えきれず途中の階で降りてしまった。
そして彼は、ひっそりと女性社員からの人気も高い。
たまに同僚の子達が話題に出してるのを耳にするくらいだ。
きっと私には縁のない人なのだろうと、そう思っていたのだが。
「君は、綺麗な手をしているね」
ある日、奇跡的にも彼と給湯室で二人きりになれた。
ぎこちない動きでコーヒーを用意していると、そっと隣に並んだ彼がそう告げてきた。
「あ、ありがとうございます……っ!」
なんてことだ、憧れの彼が! 吉良さんが私なんかの手を褒めてくれた!
話しかけてくれたことだけでも嬉しいのに、褒められるだなんて。
恥ずかしさのあまり、マグカップを放置して両手が無意味に宙をさまよう。
「名前は」
「えっ?」
「君の名前は何ていうのか、聞いてもいいかい?」
わたわたと慌てる私の片手をそっと包み込みながら、ひどく優しい声音で語りかけてくる。
「ナマエ、ミョウジナマエ、です」
「ナマエさんか」
いい名前だね。
そう彼の低い声が私の名前を呼ぶだけで、満たされた気持ちになる。
「ああ、綺麗だ。とても。僕の好みの“女性”だよ」
「そんな、私なんか」
「そうかい? こんなに魅力的なのに」
手の甲にキスが落とされた。
それだけで、今にも心臓が止まってしまうんじゃないかという気持ちになってしまう。
彼の熱い視線がしっかりと私の目を捉え、反らせなくなる。
「“彼女”にしてしまいたいくらいだ」
彼の顔が近づいてくる。
視界に入るのは吉良吉影、その人だけだ。
「きら、さん」
目を閉じる。
そこで意識は途切れたのだが、それはきっと、私が緊張しすぎたせいなのだろう。
気を失ってしまうだなんて、もったいないことをしてしまった。
(果たして本当に、気を失っただけなのだろうか?
そんな疑問を私が抱くことは一生ないのだろう。)
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