小説 | ナノ


1時間に1本のローカル線。勿論車両は1両しかない。でも、もともと電車を使うことの少ないこの地域では、所謂通勤時間帯も全く混むことがない。
電車に揺られながら、窓からの長閑な風景を眺める。この風景が私は何より好きだ。だから、高校のある少し栄えた駅までのこの時間は、意外と宝物だったりする。

あのひとにも、会える。

今日もそのひとは同じ場所に座っていた。七人がけの端に座って文庫本を読んでいる姿もいつもと変わらない。初めて見たのは高校二年になって少ししてからだった。綺麗な人、というのが最初の印象だったと思う。

銀色の髪、本を支える指、文字を追う眼差し。今は座っているけれど、立つと分かる脚の長さ。少し猫背気味の、細いのに広い背中。

知らない人をこんなに見ていて、自分でも自分を気持ち悪いと思う。でも止められない。止められるならとっくの昔に止めている。

あのひとを見ていると、誰かの有名な絵画でも見ているような感じがするのだ。
こういう感覚を魅せられているというのかもしれない。

そのひとの向かい側の七人がけの、そのひととは逆側の端に座って、車窓から見える風景を楽しむ。そうすると、そのひとが視界に入って、更に風景が素晴らしく見えるような気がする。

むしろ、そういう構図の風景を楽しんでいるのかもしれない。

高校のある駅に着いた。あのひともこの駅で降りる。大学に行くのかもしれないし、仕事に行くのかもしれない。どこに行くのかは知らない。というかあのひとのことはほとんど知らないのだ。

あのひとの座っている側のドアが開く。あのひとが本を閉じ、立ち上がってドアに向かう。

その時ひらりと落ちた栞に、あのひとは気付かない。

私は勝手に焦った。栞を渡さないとと思った。栞を拾い、ドアから飛び出し、あのひとの背中を追う。

あのひとの脚が長いせいか、背中は大分遠くにあった。

「――すみませんッ、」

栞、落とされましたよ。

息の上がった私の声は、器用にそんなことを言ってはくれなかった。声を掛けるだけ掛けて、栞を差し出すだけなんて、変だけれども仕方がない。

「これ、俺の?」

なかなか息が戻らず、頷くことしか出来ない。

「走って来てくれたんだ。ありがとね」

そのひとはゆるく笑った。とても綺麗だった。



* * *


あの日を境に、あのひとと私の距離は少しずつ近づいていった。
あのひとは、私が同じ電車を使っていたことに気づいていなかったようで、その次の日に同じ電車に乗ってくる私を見つけて少し驚いたようだった。

お互い、会ったら軽く頭を下げての挨拶。それを何日も続けていたら、ある日、あのひとはいつもの席にいなかった。そして、ふらり自分のいつもの席に目をやると、そこにあのひとがいたのだ。
私の方を見て、隣をとんとんと叩いている。ここに来いと、呼ばれている。

呼ばれなくても行くのに。そこはいつも私が座っている席なのだから。

「おはよう」
「…おはよう、ございます」

大人しく隣に座ったはいいが落ち着かない。こんなにも近いと緊張する。今までは近くても遠い存在だったのだ。

「今日は、なんでですか」
「何で、?ああ、あっちに座ってないのかってこと?」

緊張した口からは変な言葉しか出てこない。問い返されたら頷くしかない。

「ま、そうだな…話してみたくなった、が率直な答えになるのかな」

それから、名前を知った。どこに住んでるのかもなんとなく知ることが出来た。どんな本を呼んでるのかは、時々はぐらかされたけれどたまに答えてくれる時もあった。

近いようで遠い存在だったあのひと、はたけカカシさんは、あっという間に近くて、叶うならこの近さでずっといたいと思うひとになった。

高校3年になって、受験ではなく就職をとることに決めると、電車に乗る時間もまちまちになり、はたけさんに会うことも殆ど無くなってしまった。

もしかしたらもう会えないかもしれないと思うと、とても苦しかったのを覚えている。

だからこそ今年の春、無事今の役場に就職したときは、とても、言い表せないほど嬉しかった。

同じ役場、同じ課に、あのひとがいたのだ。
そして今も、あのひとと一緒に仕事が出来ている。

「名前、今日の夜、空いてる?飯食いに行かない?」
「空いてますよ。あ、でも電車、…」
「いや終電には帰るよ、俺も帰れないし」
「…よかった」

高校の時から使うあの電車は、ローカルなだけに終電が早い。帰れなくなるのは、それは、ちょっといやだ。

「名前には俺ってそんなふうに見られてるのね、」
「そんなふうって、どんな、?」
「え、――帰さない、みたいな…?」
「そうなんですか?」
「いや、だから、終電までには帰るって言ったでしょうよ」
「え、ああ、そうですよね」

「別に帰さなくっても、俺的にはいいんだけどね」
「―――何か、言いました?」
「いや、こっちの話。で、『よかった』の理由は?」

はたけさんとは、それは出来れば長い間一緒にいたい。でも、長くいるよりもかけがえのない時間があるから。

「よかった?ああ、それは、あの…なんて言うか」
「なに」
「あの電車から見える風景が好きで、だから、はたけさんと一緒に帰れるの、嬉しくて、」
「え、なに、どういうこと」
「だから、あの、望みが叶うというか」
「望み?」

好きな風景に、素敵なあのひと。そこに今は自分が加わることが出来るという、不思議な感覚。とてもむず痒く、嬉しい。

「ええと、出来るだけ近くにいられたらなあという、」
「……新手の告白?」
「え?」
「これは、…帰したくないなあ」

新しい世界に踏み込むような、どきどきと胸が高鳴る感じ。

「…?」



瞳の奥に恋が、揺らめく
(これが恋とは、知らずにいた)



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