ご主人さまに追い出されて、前から怖かった人間というものが、もっと怖くなった。
あんなにかわいがってくれた奥さまだって、いざというときには何もしてくれなかったのだ。人間は恐ろしい。
そんなことを言ったって今の状況がどうにかなるわけではないのだ、これからは自分でどうにかするしかない。
でも、家の中で飼われていた自分は外の世界に驚くほど無知だった。
追い出される際に必死に持ち出した帽子を深くかぶり、辺りを見まわしながら通りを進んだ。周りは人間ばかり、恐ろしい以外の何物でもなかった。人気のない路地を必死に探した。誰かに目につけられないように、必死に気配を探り、あらゆる人間を避けた。
こんな生活が、長く続くはずなんか到底ない。それはわかっていた。
食べるものもなく、眠ることも出来なかった。外の世界に身を置くことが恐ろしかった。
どれだけ彷徨っていたのか、そんなのも考えられないくらい自分にとっては極限状態だった。
もはや気配を探る気力もない。
自分の身体がふらついているのはわかっていたけれど、それをどうにかする体力ももうなかった。目の前も霞んでいた。
その瞬間、何かに温かく包まれる感じがした。
死ぬ瞬間とは、こんなに温かいものなのかと思った。
起きたら、知らないところにいた。
知らない天井、知らない部屋、知らない匂い、それでも、かけられた布団は暖かかった。
恐る恐る、そのベッドから一歩を踏み出した。
気力も体力も底を尽きかけた身体は、なかなか言うことを聞いてはくれなかったが、ようやくその部屋から外へと踏み出す。
気配を探った。動くものもなく音も何も聞こえなかった。
廊下を通って、その先のドアを開ける。前飼われていた家に比べれば狭いが、ここがリビングルームなのだろうと思った。
そこにあるソファに、女のひとが寝ている。
“人間”の、女のひとだ。
でも、自分を助けてくれたひとだ。
本当は怖い人かもしれない、たまたま助けただけで追い出されるかもしれない、虐げられるかもしれない。
気をつけろと、忠告する自分がいるのも確かなのに、気付けばそのひとの上に伏せるようにして眠り込んでいた。
くすぐったい、むずがゆい感覚が、頭に走った。
ゆるゆると目を開け、伏せた頭を上げると、女のひとが微笑んでこちらを見ている。
不安だった。怖かった。でもこのひとは、それをわかっているように笑ってくれた。
「きみ、“猫”だったんだね。ごめんね、勝手に帽子とっちゃって。寝づらいかと思って。きみが寝てた寝室に置いてあるよ」
気付くと帽子がない。びくりとして、うかがうように女のひとを見る。
けれど、怖い言葉をかけられるわけでもなく、怖いことをされるわけでもなかった。
「朝ご飯、作ってあげるから、それ食べたら家に帰りな。家の人も心配してるでしょ」
そう言ってふらりと立ち上がり、どこかへ向かう。
女のひとが、リビングから見える台所に立った。
「ごめん、私、きみが何を食べられるかわからないんだけど…」
気付けばおれは、そのひとに後ろから抱きついていた。
自分でも驚いた。でも、止められなかった。
警戒心がないわけじゃなかったし、人間を見る目があるなんていう自信があったわけでもなかったが、おれは確かに安心したのだ。安心してしまった。ここにいさせてほしいと思ってしまった。
「……え、っと?」
「捨てられたんだ、おれ」
「…………、」
「おれを…飼って、くれませんか」
「飼って、って…言われても」
「何でもする、何でもするから!なあ、お願いだよ、もう…捨てられたくない――」
仕方ないなと女のひとは言った。でも、条件付きでの了承だった。
お試しで一か月。駄目なら出て行ってもらう。
ようやく手に入れた安心できる場所を、離れたくはなかった。絶対に、役に立ってみせる。
――結局そんな意気込みも、所詮は意気込みにすぎなかった。
急に忙しくなった名前の代わりに、家事を一人ですることになった。それまでも手伝いはしていたものの、全くと言っていいほど、一人では何もできないことがやってみてわかった。
飼われていたときは、本当に“飼われていた”だけだったから、やり方なんて全く知らない。何かをやろうとすればするほど、部屋が無惨に散らかっていくだけだった。
散らかして、片づけも存分に出来ないおれは、きっとまた捨てられる。
怖かった。ただただ怖かった。
ただいま、という名前を、俯きながら出迎える。おかえりと返した声は今までで一番小さかったと思う。部屋の悲惨な状態を見て、名前が驚いている。
「こ、これは……」
発された言葉にびくついた。
「名前、ごめん、おれ…」
名前の顔を見ることが出来ない。
「ロー」
名前を呼ばれる。
捨てないで、捨てないでと心の中で必死に祈る。
「ロー、出来ないなら出来ないって言って?じゃないとやり方も教えられないでしょ」
出来ない猫は、いらない?
おれは出て行かなきゃいけない?
身体が勝手に震えだす。
「明日あさって休みだから、一緒にやろう。やり方教えるから」
「……いっしょ、に…?」
「そう」
「すてない…?」
「いきなり放り出したりしないよ」
抱きしめてくれた名前に、おれは縋りつくように手をまわした。
こわいから、あたたかいと落ち着く。
名前の手が頭を撫でてくれる。
「片付けは、まあ、後でやるとして、まずご飯つくろう。サラダつくるから、ローがきゅうり切ってね」
「が、がんばる」
「ちゃんと教えるから大丈夫だよ」
変に気を張ると怪我しちゃうよ?そう言って茶化されたが、気を張るも何も、真剣にやるしかない。
おれは、名前の役に立ちたい。
「前は全然何も出来なかったのにね」
一か月はとうに過ぎていた。
おれは、ここを離れずに済んだのだ。
「名前の、おかげだ」
ここはようやく手に入れた、おれの安心できる場所。
「そう?でも、ロー器用だし、ちゃんと教えればできる子だし…。むしろやればできる子なのに何で最初は出来なかったのか…、どうせ、その嫌味な元主人がちゃんと教えてくれなかったんでしょう」
ここ、というのは、この家、と言う意味でもあるが、
「でも、それでも…名前が褒めてくれたから」
名前のいる場所が、おれの安心できる場所なのだ。
この指は、もう震えない
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