父親の転勤が決まって、高校二年の春から、生まれ故郷の関西を離れ東京に住むことになった。
自分でここに行きたいって志望して、自分なりに一生懸命に勉強して入った高校。
彼氏は出来んかったけど友達はたくさんできて、部活も一生懸命やって、憧れの先輩がいて。
そういう日常があっけなくなくなってしまった。
「お父さんだけ単身赴任で行ったらええやん!私まで行く必要ある?なんで?何でなん!?友達もおるのに何で行かなあかんの!」
反抗はした。怒った。でも、変えられへんかった。
なんでも、本社の方でなかなかにいい役職が用意されているらしく、つまり一時的なものではなくこれからはそこがずっと勤め先になるからというのと、後々私の大学受験や、弟の進路のことを考えるとこれを機に一家で東京に住んだ方がいいだろうというのが両親の考えのようだった。
「まあ、友達と別れるんがつらいっていうのもわからんでもないけどな。ものは考えようや。新しく友達が作れる。知らん人が知ってる人になる。一からまた友達作るんは大変かもしれんけどな、新しい出会いが増えるってのはお前自身にもプラスになる。それに、関西の友達も会いたくなったら会いに行けばええ。大切にしい」
父親からはそないなことを言われた。
自分は昇進するから東京に行って周りが知らん人ばっかりでもそうやってプラスにプラスに考えていけるのかもしれんけど、私は東京行ったって昇進するわけやないし、友達もおらんくなるし、友達とくだらないことばっかりしゃべって五、六時間ドリンクバーでつないだファミレスも、試験勉強で居座ったカフェも、阪急電車も、周りにあふれる関西弁だってなくなってしまうのに。
どうやって考えたって私にええことなんて一切見当たらんかった。
そないなふうに考えていた私が、今では慣れたもんや。
新しい友達も出来た。東京の通勤ラッシュもどうにか乗りこなしてるし、地下鉄の乗り換えもちゃんと使えるようになりつつある。高二からというのもあって部活には雰囲気的に入られへんかったけど、高校生ともなると帰宅部生だってそこそこいて、そういう子たちと仲良うなった。
関西の友達には寂しくなったら電話もしとるし、夏休みには会う約束をしとる。聞こえる関西弁が懐かしかった。
昨日なんかはなんや妙に涙もろくて、友達の声を聴いたら泣いてしまった。電話をしていたのが幼馴染だったからというのもあるもしれんけど、やたらと安心してしまって幼馴染を困らせてしもた。
つらいことがあるわけやない。今の生活も十分楽しい。
まだこっちに来て三か月も経ってへんけど、猫を被る必要ももうなくなってる。素の自分でいられる。
「お前気ィ強そうな顔してんのにやたらと静かだからさー!最初は本当にどう扱っていいのやら気を遣ったぜ……」
「そうなん?そないなやさしさ微塵も感じられへんかったわ、シャチ最初っから容赦ないし。私もどう扱っていいのかわからんかったし」
「“転校生にやさしく!”モードのおれをそんなふうに思ってたのかよ……!この恩知らずめ…!」
放課後、特に部活に入ってへんやつらと話しながら過ごすのも最近ではようあることや。
「まあ、基本的にシャチはうるさいしな」
「さすがペンギン。わかっとるね。いつもやかましいから違いがようわからん」
「おれに対して辛辣すぎ!!」
「にしてもナミ遅いなァ…委員会ってこないに時間かかるもんやったっけ?」
「さァ……悪い虫にでも引っかかってんじゃないか?」
「ああ…二組のサンジか…」
「ねえ!おれのこと無視して話進めんのやめよ?」
シャチとペンギンといるのはなかなか心地がいい。今までは男子とこないに打ち解けたことなかったから、余計に楽しいし嬉しい。
とはいえやっぱりいざというときに隣におってほしいのは女子の友達や。
だから早く帰ってきてほしいのはやまやまなんやけど…。
――ナミが帰ってくるってことは、この二人が待っとるあいつも帰ってくるってことやからなあ……
この生活に慣れたからといって、やはり苦手な人物も出てくる。ナミと同じ保健委員に所属するそいつは、私の最も苦手とする人物やった。
廊下からナミの高い声が聞こえてくる。自分の荷物を持って、ナミの荷物も持って、ドアに向かう。これは、あいつに会わんようにするための対策や。あいつが帰ってくる前にナミと教室を出て、さっさと帰る。それで、駅前にできた新しいカフェでパンケーキを食べんねん…!
ガラガラとドアの開く音、ナミ!と叫んで見えたその身体に突っ込んだ。
「……随分積極的だな。だがおれはナミ屋じゃねェ」
ぶつかった壁のような身体にとっさに間違えたと思った。
あんなナイスバディなナミがこんなに硬い身体のはずがない。
「間違えた」
「あ?」
「あなたはお呼びじゃありません」
「お前がぶつかって来たんだろ」
「それは申し訳ございませんでした、さ!帰ろ!ナミ!」
「…オイ、謝るなら――」
私の最も苦手とする男、トラファルガーが何か言っとったけど気にしてられへん。ナミを捕まえたら早くこの場から立ち去るのみ!
二人分の荷物を抱えて、ナミの手を握った私は、下駄箱まで突っ走ったのだった。
「……相変わらず嫌われてるな、ロー」
「うるせェよ、ペンギン」
「何でだろうなァ、ローは名前になんかしたのか?」
「おれが何かしたと思ってんのか、お前は」
「いやあ、だって、あからさまに嫌がられてるじゃん」
「してねェよ、何にも。つか、おれに対してだけは最初からああだった」
「お前だけ、だな。確かに」
「ああ、気に食わねェだろ」
そう言ってトラファルガーは物憂げに溜め息をついたという。そないな様子をもちろん私が知るはずもない。
「名前、さすがにあれは感じ悪かったわ」
「…………ですよね」
「わかってるならよろしい」
お目当てのカフェでメニュー表を見ながらさっきのことをとがめられた。
それはそうや。ぶつかったのは私の不注意やし、それなのにちゃんと謝らへんかったし、向こうが怒るのも当然や。
「でも………やっぱりむり」
「普通に接するのが?」
「むりむり絶対無理!だって目さえちゃんと見たことないのに!!」
「なんでトラ男だけそうなのよ」
「知らんよ!私が聞きたい!こないになったことないもん!!」
他の子とは打ち解けるのも早かったのに、トラファルガーとはまともに話せたためしがない。初めて声を掛けられたとき初めて目を見たんやけど、その目を見てからというもの応対がひどくつっけんどんになってしもた。
それからずっと、どうにかせなと思ってはいるものの、傷つけるような先のとがった言葉か、不快感を与えるような硬い言い方しかできひん。
「好きなんじゃないの、トラ男のこと」
「…は?」
「だから、一目惚れ」
「……ひとめ、ぼれ?」
「まあ、この歳になって一目惚れもないかー」
ナミに言われた言葉がぐるぐると頭を回った。
一目惚れ。一目そのひとを認識した瞬間に、恋に落ちること。
私が、トラファルガーを、すき?
「やだ、名前、」
あいつがこっち見ると緊張する。だからこっち見るなって思う。
変に汗かいて、身体が縮まって、心臓が苦しくなって。
「あんた」
話しかけられたら、驚く。私に何の用やって。
何か用がなきゃ話しかけてこうへんくらいな関係やから、用があるのは確かなんやろうけど、でも、どう話せばええかわからなくなる。あいつを目の前にすると話し方を忘れてしまう。息が苦しくなって、まくしたてるように何かを口走って。あいつの前から離れた時、ようやっと自分があいつに対して何を言ったか思い出す。思い出して、後悔する。
なんであんなふうに言ってしまったんやろう、そないなふうに言いたかったわけやないのに。なんでなんでって。
「顔、真っ赤よ」
ならいっそ、話しかけてこうへんくらい嫌われた方がええ。私がちゃんと話せへんせいで思ってもいないこと言って傷つけてしまうなら、もっと距離をとればええ。
「……重症ね」
――自分を守るために、彼を傷つけへんために張った予防線やった
気付かされた瞬間落ち込んだ。
ようやっとみんなと打ち解けて騒げるようになってきたのに。
明日からしばらく、騒げる気がせえへん。
「なんかお前、最近静かじゃねェ?」
「シャチがやかましいんやからこれくらいが丁度ええやろ」
「静かでも辛辣なのは変わんねェんだな……」
それだけ話して、帰り支度を始めた。
「今日はナミを待たないのか?」
ペンギンが不思議そうに言う。
あれから考えてナミが委員会で遅れる日は帰ることにした。
多分私は、あないに会いたくないと言っていた反面、このほんの数人しかおらん空間にあいつとおるんが嬉しかったんやろうと、そう結論付けた。
それは私にとっての自己満足で、あいつにとっては嫌な思いしかせえへんのやから、それなら私は早く帰った方がええ。
「うん、帰ることにした」
「…そうか」
「うん、ほんなら、また明日ね」
なんだか、寂しい気もする。でもこれが最善の策なんや。
万が一会ってしまう前にさっさと帰ろう。
「――今日はナミ屋を待たねェんだな」
最悪や。
会ってしもた。
「な、なんでここにおんの」
「あいつらからLINEきた」
「え」
「あと、ナミ屋のはからいもあってな」
「……は?」
下駄箱で話もなんだろ、と手を引かれる。
「は?なに!何なん!?私はあんたにする話なんてない!手ェ離して!」
「嘘つけ、あるだろ。いい加減おれもうんざりなんだよ」
「は、うんざり?結構、結構!だからあんたと会わんように早く帰るつもりやったのに!帰らせてよ!って、う、わっ」
すごい勢いで手を引かれたまま歩かされて、空き教室に放りこまれる。
「言えよ。おれの目見て、言え」
「だ、から、あんたに言うことなんて、」
「本当か?」
じりじりと一歩ずつトラファルガーが近づいてくる。その度に一歩、また一歩と後ろへ後ずさった。怖い。向き合うのが怖い。
「ないって、言うてるやろ!」
「ならそんな、泣きそうな顔して言うんじゃねェよ」
背中が壁についた。顔の右横にトラファルガーの手がついていよいよ逃れられへんくなる。
怖い。怖い。嫌われる。もっと嫌われる。そんなのいやや。でも、だから離れようとしたんになんで近づいてくるの。
顔は見られへんから俯いた。俯いたら顔を上げろと言ってきた。無理や。そんなの無理。
トラファルガーの右手が頬に触れた。
「嫌なら、ちゃんと怒れ。拒絶しろ。簡単に触らせんな」
「か、勝手に触ってきたの、そ、っちやんか…!」
頬に触れた指がそのまま私の顎をくっと持ち上げる。思わずあってしまった視線をそらす。
「それならちゃんと嫌って顔しろよ。可愛く頬なんか染めてんじゃねェ」
それなのに、トラファルガーの言う言葉の一つひとつがなんだかやけに私のええように聞こえて、そらした視線をいつの間にか戻したくなる。
「おれの目がまともに見れないって?」
夕日が茜色に染める教室で、力の抜けた私の身体は壁伝いにずるずると沈んでいく。
「思ってもいないこと言っちまうって?」
座り込んだトラファルガーの顔はやっぱり目の前にあって、今度は両手が包まれる。
「上等だ、かかってこい」
ドキドキして、わけがわからへんくて、真意を求めてのぞいてしまった目には真剣さしかうかがい知れへんかった。
「おれも、……一目惚れだよ、らしくねェ」
照れたように目をそらした彼に、気付いたら私は泣いていた。
「あらよかった、安心したわ。上手くいったみたいで」
「本当だよもー!毎回毎回ハラハラさせやがって」
トラファルガーに手を引かれて教室に帰れば、ナミはからかうように、シャチは大袈裟にそんな言葉を投げてよこした。
ペンギンは何も言わずに微笑んでこっちを見ている。
「でもまさかトラ男もねェ、そうだったとはねえ」
「うるせェ」
「きっかけつくってやった恩人に言う言葉じゃないわね?この貸しは高くつくわよ?」
「その件に関しちゃ感謝してるんだ、それくらい安い」
「にしても、借りてきた猫のように静かだな、名前」
シャチに名前を呼ばれてようやっと正気に戻った。
つながれた手を振り払って、トラファルガーと距離をとるため後ずさると、後ろにあった机にすごい勢いで腰をぶつけた。
「いった!」
「…馬鹿か」
「や、やかましい…!」
溜め息をつくトラファルガーに悪態をつく。
「大丈夫か」
トラファルガーが近づいてくる。
「い、や!こっち来んといて!」
その分私は後ずさる。
「嫌よ嫌よもなんとかって言うしな」
「いや!ほんまに、来んで!」
小学生がようやる教室での追いかけっこのように無様やけども、こっちも必死なんや。
「お前の来ないでは来ての意味だろ」
「か、勝手に都合のええように変換すな!」
机を動かし通れないようにして、トラファルガーを阻む。
「お前…本当にいい加減にしろよ…」
しびれを切らしたトラファルガーがさすがにいらつき始めたって、そんなん……
「やだ、め、合わせられんもん…かっこええもん……むり」
「……は?」
「や!今のは関係ない!ナシ!」
「もう一回言え、つか、好きって言え」
「はァ?なに言って、好きなんか言えるわけ、あああああもうむりいいいいい」
逃げ出して再び教室を飛び出す私をトラファルガーが追いかけ、奴もまた教室を後にする。
その様子を生温かい目で三人が見ていたなんていうのは知る由もない。
でもまだ、君の事 直視できない
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