「課長!この企画無事終わったら課長のご自宅で飲み会、させてくれるって話、もちろん忘れてませんよね?」
部下のそんな一言で、私はすっかり忘れていたその約束を思い出してしまった。忘れたなら忘れたままなら流せたかもしれないけれども、そうだったね、なんて曖昧な返しを思わずしてしまったもんだから、部下をつけあがらせてしまったのだ。
「じゃあ、今日の夜、お邪魔しまーす!!」
そんな部下達(男二人と女一人)のしたり顏を見る羽目になってしまった。
チャイムを押すのも気が引けた。ドアの向こうで、私を待っていてくれる存在に申し訳なくて。
いつもと違って、鍵を差し込んでガチャリとドアを開ける。いつもと違った私の行動に焦った足音が聞こえた。
「……ただいま、ロー」
「名前、おかえり…!今日はチャイム鳴らさなか、……誰だ、そいつら」
ローの声が強張った。
それに気付かない部下たちは、課長ネコなんか飼ってたんですか!さすが出世街道まっしぐら!なんて騒いでいる。
「あ、のね、仕事の部下で、その、急に連れてきてごめん……」
「ぶか?ああ、部下のひと、か。連絡くれれば良かったのに……すみません、急で簡単なもんしか作れないと思います、けど」
ローは強張りをすぐにといて、そう部下に声をかける。何か言いたげな視線を少し残してリビングへと行ってしまった。
「いやあ、でも、課長がネコちゃんと一緒に住んでるとは思わなかったですよ」
「まあ、いろいろ事情があってね…。それと、ネコちゃんネコちゃんうるさいけど、ローっていう名前があるからね」
思わず少し尖った声が出てしまった。
その私の言葉にはっとしたように部下たちは、
「すみません、そういうつもりじゃなかったんです、ただその、俺たちには珍しい存在だからって舞い上がっちゃって、」
と反省していた。
そもそも“ネコ”が一般人の目に触れる機会は少ないのだから、そういう反応をとってしまうのはわからなくはない。私も実際、自分の上司の家にネコがいたらそういう反応をとってしまうかもしれない。だからそこまで強く言うつもりはなかったのだが、やはり大切な存在に対してただ“ネコ”として扱われるのに納得のいかない部分があったのだろう。思っていたよりも鋭い言葉が出てしまったようだ。
「……名前?いつまでそこにいるつもりなんだ?」
リビングのドアを開けて覗き込んだローが不審そうにこちらを見た。そこには恐縮する部下と予想外に部下に厳しく言ってしまってどうしようかと頭を悩ます私という変な空気が漂っていただけに、ローはさらに不審そうにこちらを見た。
「……何でもないよ、そっち行くね…」
そうしてやっと、私たちはリビングにたどり着いたのだった。
「うっわ、美味そう……」
目の前に運ばれた鍋に部下が思わずそうこぼした。
「夏なのに、こんなんですみません…大勢で食うってこういうのしか思い浮かばなくて、丁度材料もあったんで…」
「いやいや!急に押しかけた俺らが悪いっていうか!!なのにこんな美味そうな鍋食わせてもらえるのは申し訳ないっていうか、めちゃくちゃありがたいっていうか!なあ!?」
うんうん、とあと二人の部下もうなずいている。
「これ、何鍋?担々?」
「豆乳担々鍋」
「まじか美味いの決定だわこれは」
「ローの料理は何でもおいしいよ」
「ハイ、課長の惚気いただきましたー!!」
「無駄口叩いてないで食べなさいよ!」
「…仕事以外でも無駄口ばっかりね、あんたたち…」
「はあああ!?お前もだろ!ひとのこと言えねえだろ!」
「聞き捨てならん…!!」
途中から離脱し馬鹿な部下のやりとりを傍観していた私に、ローがちらりと視線を寄越した。何も言わないのか、止めないのか、ということだろうと思う。
止めてもよかった。このくだらないやりとりの押収は、職場で何度も見てきたのだ。その度に周りの人たちから呆れた視線が寄越された。実際私も呆れていた。それを何回も止めてきたのだからこんなのを止めるのはお手の物だが、ローが少し面白そうに見ていたので止めなかった。
まあそろそろ止めてもいいかと思ったので声を掛けるかと口を開くと。
「せっかくの鍋が冷めますよ」
私が口を出す前にローが声を掛けたのだ。
「ハイ!イタダキマス!!スミマセン!!」
ローの口調は厳しい口調でも何でもなかった、というよりむしろ面白がって言った感じだったのだが、おそらくこの部下三人の食い意地の問題だろう、ローのその一言に恐ろしいほどに食いついた。
その様子を、ローはまた面白そうに眺めていた。
鍋を自分の皿によそうときも、戦場のようだった。私とローは先によそわせてもらったのだが、その次を部下たちは私が!いや俺!いやいや俺でしょお前ら何言ってんの!!と争っていて、私は遠い目をしてよく企画が無事に終わったなと考えていたし、ローはローで、くすくすと笑っていた。
「いやー!!お邪魔しましたー!!」
「ロー君のお鍋めちゃくちゃおいしかった!次来るときは連絡入れてから来ます!」
「是非そうしてください」
「もういいよ来なくて……」
「またまたぁ、そんなつれないこと言わないでくださいよぉ課長ー!」
「苦情来ちゃうからもうちょっと静かにして…」
「それはすんませんっした!!」
「それが既にうるさいから」
それじゃ本当にお邪魔しましたー!!とうるさい三人組の後姿を見送ってから、バタンとドアを閉めた。
「疲れた…」
「お疲れ、名前」
「ローも疲れたでしょ?ごめんね、急にうるさいの連れてきて…」
「連絡はほしかった、けど思ったより疲れてないな」
「……若いね」
「そりゃあ、名前よりは」
「…………」
少し睨みつけると、ローはふふ、と笑った。
「あんな三人をまとめるのは骨が折れそうだ」
「何事にも慣れだよ…慣れた自分が恐ろしいけどね…」
はあ、とため息をついた。会話が途切れる。そこで、隣からもため息が聞こえた。
「ロー?」
「………でもやっぱり疲れた」
「そりゃあ、慣れないことだからねえ…しかも相手はうるさいあいつらだし…」
「いや、………まあ、なんでもねェ」
「ここまで言いかけて言わないのずるいんですけど」
「…………いや、えっと、…あの、な、」
「うん」
「し、嫉妬、隠すのに、……必死で…」
―――疲れた、と。
恐る恐る抱きしめてくる彼が愛おしい。
「嫉妬、してくれてたの?」
「するに、決まってんだろ……!おれの知らない名前を知ってるひとたちなんだぞ」
「あいつらの知らない私を、ローも知ってるじゃない」
「そんなの当たり前だろ!おれは、……名前の全部を知りたい」
おれには、いろんな意味で名前しかいないのに、名前はそんなことないだろ、おれの行けない、おれのいないところで、他の人と関わって、と。
そう、彼は特殊だから、人より狭い世界でしか生きられないから。
「だからもっと、名前のこと知りたい。独り占めしたい」
頬を首筋に擦り付けられる。そのまま小さくキスされて、キスされた部分に今度は舌が這う。
「っん、ロー、」
「もう、いいだろ?我慢しなくて」
「へ?っうわ、ちょ、っと?」
所謂、お姫様抱っこ、というやつで抱え上げられた。嫌な予感が、する。
「ベッド、行く。もう我慢しねェ」
明日休みだろ、手加減しねェからなと、とどめを刺された。
しかし、その言葉を聞いたと同時に私は安心していた。
部下に対するローの態度があまりにも普通だったから、てっきり嫉妬するだろうと思っていた私は拍子抜けした。そして、それを残念に思ったのだ。ローが嫉妬してくれないことに。嫌な女だ、でも、女なんてこんなものだろう。
好きなひとには、妬いてほしいのだ。
だから、安心した。平気な顔して本当は嫉妬していてくれたことを、嬉しいと思った。
……のだが。
「おれ、すげェ我慢したから、名前も我慢して」
「が、がまん……?」
「簡単にはイかせないからな」
「は、え、……ろ、ロー?」
「たくさん我慢したら、いっぱい気持ちよくしてやる」
ああ、その嫉妬の代償に、この土日きっと私はこの家から、このベッドから出ることが出来なくなるのだろうと、俄かに悟った。
好きすぎるんですがこれって病気ですか?
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