今日の診療が終わった。片付けていると、電話が鳴る。
「名前、外科の斉藤先生から」
「…斉藤先生?」
なんの用事だろうか。全く接点がない。あるとしたら、外科のあの男を通してか。
「もしもし、お電話変わりました。苗字です」
―――苗字くん、斉藤だけど。あのさ、ちょーっと頼まれ事、してくれない?
「頼まれ事ですか、出来れば避けたいですね」
―――だろうな。まあ、外科の教授室で待ってるから、至急来いよー
そういって、電話は切れた。
「なんだって?」
「至急外科室に来いってさ」
「なんかしたの?」
「…何もしてないわよ」
変な顔をしている可奈子に後を任せ、片付けをさっさと済まし、外科室に向かった。
「こいつ、もらっていってくんない?」
そこには、ソファに横たわる、トラファルガー・ローの姿があった。
「なんで私が」
「ずっと前の貸し、返してもらってないなあ」
「………」
「っていうのもあるが、ちゃんとした理由もあるぞ」
「なんですか」
「こいつは外科の連中ぐらいにしか繋がりがないが、今の外科じゃなんせ人手が足らん」
「斉藤先生が今ここに、」
「俺はこの後会議だから送れない」
空き病室から持って来たのか、しっかりとした布団が掛けられている。すごい汗だ。
呼吸も荒い。
「得体の知れない看護師に任せたら、食われないか心配だ。こんなでも外科のエースだからな」
「このひとが食われるとは思いませんが」
「どっちにしろ面倒臭そうだろ。そういうのはご免だ」
その点、お前は毎日のようにこいつに会ってるし、後々面倒なことにもならなそうだ。というのが、私が選ばれた理由だったようだ。
「相当きつそうですけど、いつからこんな状態に?」
「ついさっきふらーっと帰って来たと思ったらこんなだった。よくよく考えると、朝も顔色が優れなかった気がするな。今更だし、こういう奴だからわからんが」
もとから顔色は良い方ではないし、隈だっていつもある。それにきっと、大丈夫だと言い張るはずだ。
「…可愛い看護師が食われるのもあれですから、仕方なく私が送ります」
「頼んだ。じゃ、これ、こいつの住所な」
渡された住所を失くさないよう鞄に仕舞い込み、連れ帰る本人を起こしにかかった。
「ほら、着いたから、立って」
タクシーから降り、目の前にそびえ立つ高級マンションのエントランスに入る。少しばかりかかる体重が重いけれども、支えられない程ではなかった。
この男は意外とちゃんと歩いてくれたのだ。
オートロックも解除し、エレベータに乗り込む。相変わらず、呼吸は辛そうだ。
「寒気は?」
「…する、」
「上がってるかもね、熱」
目的の部屋の前に着くと差し出される鍵。開錠して、家に入ると、さすが、というか、本当に広い空間が広がっていた。
「部屋は?」
「左の、そこ…だ、」
言われた部屋の扉を開けると、少し大きめのベッドがそこにあった。その上に、重い身体を置く。布団をかけてやると、やはり相当疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえた。
「オペを1日に何本も入れて、休みをとらないからだよ」
それは、斉藤先生が言っていた。「休日のくせにオペ入れやがるんだよ、こいつ」と。
体調管理は、医者の基本だ。
医者が不養生なんてしていられないのだから。
「強がっちゃって」
きっと必死なのだ。助けることに。助けられる力を持っているからこそ。
昔の自分に、似ていた。その後はタオルを何とか見つけ出し、濡らして、額に乗せた。
何度かタオルを濡らし直した時、目を覚ました。
「―――名前…?」
「目が覚めたと思ったら、いきなり呼び捨てとはね。まあ、病人だから今日は許してあげるけど」
「………おれ、」
「まだ寝てなさい。明日休みなんでしょう。お腹は?減ってない?」
「…減った、」
「どうせ、朝抜いたりしてたんでしょ。あるものでなんか作って来るから、寝てて」
「…………ん、」
未だぐったりとして、だるそうに目を閉じる目の前のこいつに呆れて、一つ溜め息をついてから台所へ向かった。
冷蔵庫には何もなかった。
インスタントのものがいくつか転がっているだけ。今まで体調を崩さなかったのが不思議だった。
仕方がないので、寝ているのを確認すると、鍵を持って外に出た。幸い、15分ほど歩いたところにスーパーがあったので、値段が高いことには目を瞑り、ある程度の食材を買って帰った。
肩をとんとんと叩き、起こす。
呼吸は、少し整ってきていた。
「具合はどう?ご飯出来たけど、食べられる?」
「…大分楽になってきた。飯ももらう。腹減った、」
「じゃあ、持って来るから」
食欲はあるようで良かった。少し安心した。
「ごめん、向こうの人が具合悪い時に食べる料理って、見当もつかなくて…おじや作ったんだけど味付けが日本風だから…口に合わなかったら別のもの作るから言って」
手渡した少し深めの皿を覗き込むと、リゾットみてェだな、と一言呟いた。
「……うまい」
一口分だけ運ばれたおじやが飲み込まれるまでを恐る恐る見ていると、トラファルガーはそう言った。それから、なかなか速いスピードで次々と飲み込まれていく。
「…本当?大丈夫?」
「嘘でこんなに食えるかよ。足りねェ。もうねェのか」
あっという間になくなった皿の中身を足しに戻る。少し多めに作ってよかった。
「随分食べたわね…」
「最近、ろくに飯食ってなかったからな」
「気を付けなさいよ。医者が健康管理も出来ないんじゃ、あんたに見てもらいたがってる患者さんに示しがつかないでしょ」
「わかってる、」
「わかってる?どの口がそんなこというのよ。わかってたらこんなことしない」
「…………」
「ほら、そうでしょ。何に焦ってるのかわからないけど、急ぎ過ぎなんじゃない。身体が資本でしょう。体調崩したら元も子もないわ」
そう言って溜め息をつくと、目の前からふふ、と笑う声が聞こえた。
「なんで笑ってるのよ。笑い事じゃないんだけど」
「いや…心配されて、説教されるなんて思いもしなかったからな」
「心配もするし、説教だってするわ」
「何でだ?普段俺は、お前に心配してもらえるようなことも、身体のことを思って説教してもらえるようなこともしてない。お前は俺のことを迷惑に思ってるはずだ」
「だからって…同じ病院で働く医師だもの、」
「同じ病院で働いているからって、普段迷惑に思っている男の家に上がって、看病して、飯まで作るのか?」
「それは…、でも斉藤先生に頼まれたから、」
「へェ、斉藤さんは何て言ったんだよ」
「『家まで送って行ってやれ』って感じだけど、」
「そこに看病やらは含まれてないじゃねェか」
「だけど!…目の前で苦しがってるのに、放ってなんかおけないじゃない、」
そうして目を見てはっきり言えば、トラファルガーがやわらかく笑う。
「やっぱりあんたは、根っからの医者なんだな。お人好しもいいとこだが」
「看病してもらっておいて、何言ってんのよ」
「ただの照れ隠しだ、気付けよ。…嬉しいんだ、俺は」
「熱があるから?やたらと素直。逆に疑いたくなるわ」
その返しにすら、目の前の相手はゆるく笑う。
「また、助けられた」
「……?」
そうして不意に手を握られた。
「…何、」
「グリルパルツァーは知ってるか?」
「…フランツ・グリルパルツァー?」
「ああ、」
そのまま、手の甲にキス。
「え、」
それから、顔が近付いて思わず目を閉じると、瞼にキス。
「……なにして、」
「まだ、今はこれだけだな」
「ちょっと、話聞きなさ、」
「今回の借りはいつか返す」
話し過ぎたのか、いつの間にかとても眠そうにしていて、これ以上は話していられそうになかった。
寝てしまったトラファルガーに溜め息が漏れた。結局また、自分だけがわからないまま。
「何よ、本当に。いきなりキスして、それにグリルパルツァーとか……、」
可奈子にしても、こいつにしても、本当に何も明かしてはくれない。そんなことが最近少し多過ぎるのではないだろうか。
気持ち良さそうに眠る隣りを少しだけ睨みつけて、食器を片付けるために部屋を出た。
君の二酸化炭素でおやすみ
(尊敬と憧れだなんて)
[back]