いま胎児に還る | ナノ


患者さんの波が一息ついたとき、奥の方で作業をしていた可奈子がこちらにやってきた。

「最近、なんだか優しいんじゃなーい?」

その手には午後に来院予定の患者さんのカルテを持っている。

「別にそんなことないと思うけど」
「あらやだ、どなたを想像していらっしゃるの?」
「…………」
「ちょっと、睨まないでよ!悪かったから!」

カルテを受け取り、ざっと目を通しながら何も返さない私にじれたのか、可奈子は患者用の椅子に座ってこちらを眺める。

「にしても本当、変わったわよ?今までは本当に嫌を剥き出してたじゃない。なのに今は、結構あっさり対応してるし」
「お茶でも出したらって言ったの、あんたでしょう」
「そうだけど…でも本当に嫌なら私の言うことにも耳を傾けないじゃない」

少し前、他の看護師にいれてもらったお茶も、いつの間にか冷めてしまった。それをすする。

「彼も、変わったみたいだし…」
「あいつのどこが変わったって言うのよ。相変わらずしつこくここに来るし、自分中心に回してるじゃない」
「やだ、気付いてないの?」

言葉のとおり、驚いたというのを前面に出して迫るものだから、思わず身を引いてしまった。その状態のまま、何が、と訊き返す。

「あんたさー、モテるのに、ホント鈍感なんだから。惚れた男どもが可哀想だわ」
「話逸らさないでよ」

あーあーやだやだと呆れながらオーバーなリアクションをしてくる可奈子に、こちらが呆れそうだった。冷めたお茶に再び手を伸ばす。

「話してるときの目がもうね、違うのよ。前は研究対象を目の前にした好奇心と興味って感じだったけど、今は愛でるような、やさしい眼差し…」

むせた。
ごほごほと一通りむせてから、呼吸を整えて先ほどの話のつっこみにかかる。

「前が研究対象を目の前にしたっていうのもどうかと思うけど、愛でるって…そんなのあるわけない」
「そりゃまあ、ちょっと大袈裟には言ったけど、案外間違ってもいないと思うわよ?」
「ない。ないない。絶対にない」
「あら、あたしの目を疑うの?」
「そうじゃないけど、それはないでしょ」

可奈子の目は、確かに人を見抜く。それは良く知っている。でも、そればっかりはないだろう。なんでよと食いつく可奈子を目で制した。

「私達、いくつだと思ってんの。年の差があり過ぎ。第一、こんな年の女に興味もつほど暇じゃないでしょ。あの容姿、それにこの職業なら、若い子をいくらでも引っかけられる」

可奈子は何も返さなかった。何かを考えているのか、そうではないのかもよくわからない。だから私は、もう一言加えたのだ。

「それに、若いのには若いのがお似合いよ」

それを聞いて、可奈子の目がこちらを向いた。ぎろり、とまではいかないものの、少し怒気の混ざった目でこちらを見てくる。
さっき、可奈子が何も返してこなかったのは、考え込んでいたわけでも、何も考えずぼうっとしていたわけでもなく、怒っていたのだと理解した。でも、なぜ。

「それ、絶対トラファルガー先生に言っちゃ駄目よ」
「…話が見えないわ」
「いいから。絶対言っちゃ駄目。」
「……わかった。言わない。でも、なんであんたが怒るのよ」
「あんたが鈍感だから。他人のことばっかりで自分のことなんか全くどうでもいいって思ってるから」
「そんなことないけど」
「ある。あるのにわかってないからそういうこと言うのよ」

まったく、と溜め息をつきながら可奈子は言った。怒気は今の間ですっかりなくなった。可奈子はそういう性格なのだ。ぱっと気持ちを切り替えられる、そして何もなかったかのように、元に戻せる。

「で、何があったの。二人して変わるなんて、なんかあったんでしょ。言いなさいよ!」
「何もないわよ」
「何もないわけない…。証拠はあるのよ。トラファルガー先生が、あんたの好きな食べ物訊きに来たんだから!!」
「―――…ご飯食べに行っただけよ」
「だけ?その先もあったんじゃないの?ホテルに泊まったりなんか、」
「するわけないでしょ!!」
「なーんだ」

なーんだ、ってなんだ。女子高生じゃあるまいし。
食事をとった後は、そのままそのレストランで本当にどうでもいいようなことを少し話して、家まで車で送ってもらったのだ。
遠いからいい、というのにあいつは聞かなかった。「好きにさせろって言っただろ」と言われて結局反論もそんなに出来なかったのだ。
ただ、不幸中の幸いというのか、家が意外と近いらしいということだったので、安心して。

「名前はいないって言ったら、お前に用があるって言われたからびっくりして、何かと思えば『あいつの好きな食いもん知ってるか』って訊かれてさあ。『和食ですかね』って言ったら考え込んでたし。…ん?待てよ…ってことは向こうが変わり始めたのはもっと前…」

考え出した可奈子を放っておいて、既に来院した患者さんのカルテの整理をした。
考えたってしょうがないのだ。何を考えているのか全く読めない奴なのだから。それに、私自身が、根本的な部分は全く変わっていないとあいつのことを思うのだから、それでいいのだと思う。

もういいでしょ、と可奈子に声をかけるとブーイングが返ってきたが、このまま考えていても答えが出ないことをわかっていたようだった。仕方ないなあ、と余計なひと言を呟いて、可奈子が大きく伸びをする。

「さて…次の患者さん来るのいつだっけ」
「あと20分」
「うーん…微妙な時間ね…。仕方ない。お茶でも入れますかね、先生?」
「お願い。すっかり冷めちゃったし」
「冷めてもすすってたくせに」

笑いながら、私の湯飲みを持っていってくれる。
そういえば結局、どうして怒ったのかを訊けなかった。でも、訊いても教えてくれない気がした。でもそれは、いつかわかるから言わないのだということを私は知っている。
温かいお茶の入った湯飲みを待ちながら、可奈子と違ってなかなか切り替わらない頭の中で、いつかが来るまで覚えていようと思った。



吐き出した妄想論
(結局、吐き出すまでもないのだけれど)


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