今日もまた、定時に終わった。後は着替えて、病院を出れば私のプライベートタイムだったのに。
「――よォ」
「なに、なんなの。私もう帰るんだけど」
「知ってる」
いきなり目の前に現れたのは、隈の酷い外科医だった。
「なら、何の用?早く帰りたいんだけど」
「帰ったところで何かあるわけでもないだろ」
「ゆっくりしたいの」
「何もないんだな。――…なら、付き合え」
手首を掴まれ、有無を言わせず引きずられる。連れて行かれたのは関係者用の駐車場だった。
「乗れ」
「私の意見は総無視なわけ」
「この間の貸し、返してもらうからな」
車に詳しくないからわからないが、左ハンドルだったから外車なのだろう。後部座席に乗ろうとしたら、助手席のドアを開けられたのは言うまでもない。
「それで、どこに連れて行くつもり」
車に乗って、大通りを走る。百貨店やら専門店やらの装飾が煌びやかに光って、その光に多くの人が照らされている。
「ホテル」
「―――…は!?」
「ああでもその服装じゃ駄目だな」
「………どういう、」
トラファルガーは車を停めて、高そうな店に私を連れて行った。いらっしゃいませ、とこれまた上品な店員さんが迎える。
「あれ、あるか」
「はい。御用意出来ております」
連れ出された時から考えもつかないことばかりで余裕がなかった。そのせいでトラファルガーの服装なんて気にしていなかったが、見ればきちんとした服装をしている。対して私は普段着で。
「じゃあ、それをこいつに」
知らないうちに店員さんと話をつけていたのか、別の店員さんに連れて行かれる。
「では、これを」
試着室に押し込められ、戸惑って脳の働かないうちに服を渡されてしまった。
着て、出なければならないのか。
「おい、まだか」
着替えても、出られない。似合っている自信がない。いっそのこと、さっきの普段着に…、
「―――…遅ェ、」
鍵を掛けていなかったためにあっさりドアを開けられてしまった。
「え、ちょ…っと、…見ないでよ」
というか勝手に開けるなと文句を言ったがそんなのは聞き流したようだ。
「サイズ、合ってるな。これに合う靴を持って来てくれ」
あれよあれよという間にパンプスを履かされ、トラファルガーの目の前に立たされる。
「靴のサイズ、大丈夫か」
「だ…大丈夫だけど、」
「ならいい。これ、貰ってくぞ」
カードを取り出しさっさと代金を払ってしまった。手首を掴まれ店を出る瞬間、「似合ってる」と耳元で囁かれた。呆然としているうちに私は車に乗っていて、またさっきの大通りを進んでいる。
「どうした、さっきからだんまりだな」
「ホテル行くって言ったと思ったらあんな高級な店連れて行かれて…頭の中がごちゃごちゃ」
「何だ、食われるとでも思ったのか?」
「……………」
「俺は要望に応えてもいいが」
要望も何も、借りがあったのはこっちなのに、値札の付いてないような店でドレスと靴を(私の意思に関係なくだが)買ってもらって、今のところ私ばかりがいい思いをしているのだ。
「気持ちがなきゃ、意味ねェしな」
隣は余裕綽々としている。こっちは一挙一動に敏感になっているというのに。
「ただ、今日は俺の好きにさせろ」
まあ、後は飯食いに行くだけだけどなと続けた。前方に見えてきた有名ホテルに驚き隣を見る。それに気が付いて愉快そうに笑っていた。
「…帝海ホテルって」
「なんだ、不満か?」
「こんなところ、来たことないわよ」
「そりゃあ良かった」
レストランに向かう途中のエレベーターで、そんな会話をした。
「だから、ドレス、…」
「そういうことだ」
有名ホテルに着いて、連れて行かれたレストランはやはり有名なところだった。
「こういうところって、予約待ちとかするんじゃないの」
「総料理長と知り合いなんでね」
「…なんかもう溜め息しか出ない」
案内された席は夜景がとても綺麗だった。他の席とは少し離れていて仕切りはないが個室のように静かだ。
出て来た食前酒を、目の前の男が断っている。
「飲んじゃうかと思った」
「車あるだろ」
「そうだけど」
「医者が飲酒運転なんて馬鹿げてる。それに連れがいるんだぞ。そんなことするわけねェだろ」
正直、意外だった。アメリカから来たこの男は恐らくそんなに簡単には酔わないだろう。事故だってきっと起こさない。
「案外真面目なのね」
「医者が不真面目でどうする」
「…そうね」
運ばれてきた前菜は、色取り取りできれいだった。思わず顔が綻ぶ。
「悪かったな、和食じゃなくて」
「何それ、今の私の顔見てそんなこと言うわけ?っていうか私が和食好きって誰から聞いたの」
「お前のとこの看護師」
最近可奈子がにやにやした目で見てくると思ったらそういうことだったのか。
「気にしてるの?」
「…まァ、少しは」
「意外と可愛いところもあるのね」
「うるせェ……和食、まだ慣れてねェんだよ」
偉そうな口利いて、それが許される技術を確かに持っている。強気な言動行動にもちゃんと理由があって、だから頼られる。そんな彼の、新しい一面。
目の前にはいつしか、メインディッシュが並べられていた。
「訊きたい話があるんじゃないの?それを訊くための“貸し”だったんじゃない?」
本題だ。きっと、彼の望む。
「ああ、そうだな。聞きたいことは山ほどある。…だが、それは今はいい。いつか必ず、お前から話してもらう」
「あなたの人生じゃ足りないかもよ」
「いつか話したくなるさ」
「何それ」
「今訊いたところで何も言わないのはわかってる。だからその話はもういい」
拍子抜けした。絶対聞きたがると思ったからだ。どうして、なぜ、と。それをどうして彼が気にするのかは全くわからないが。
それより、と彼は続けた。
「謝りたいことがある」
「和食の話ならさっき聞いたけど」
「茶化すな」
真剣な表情に、手が止まる。
「お前が“上げた”患者の担当になった」
「そう」
「俺が、初日に言ったこと覚えてるか」
―――女神様も落ちたもんだ
「さあ、どうかしら」
―――ああ。知らない。なんでこんなに逃げ腰になったかなんて
「悪かった」
流そうと、目を逸らそうとした。だけれどそれは許されなかった。真剣に訴える目が、目の前にあった。
「俺はやはり、何も知らない」
「別に、…だって初日だったじゃない」
「そうだ。でもだからこそ、言うべきじゃなかった」
わからない。見えない。
「なんで、そんなに…そんなことに」
そんなに真剣になるの。
どうしてこんなに、私に踏み込んで来るの。
「知りたいか?」
「…………、」
「言ったら、フェアじゃない。いつか言うべき時が必ず来る。お互いな」
そんなわかったような口を利いて、何を見てるの。
「ほんと、何考えてんのよ、」
「別に何も?」
目の前の男は緩く笑っていた。はぐらかして、結局決定的なことは何も言わないのだろうと瞬時に理解した。
そして私はワイングラスを手に取り、中にある液体を一気に飲み干したのだった。
そちらとこちらで対極ごっこ
(そこだからこそ見えるもの)
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