帰ろうとしたとき、だった。
交代で、人の少ないこの時間。
響くサイレン、ばたばたと人の走る音。透明なドアが開いて運び込まれるストレッチャー。
道を空けた私の横を通り抜けていく。
息が詰まった。
邪魔者は早くいなくなるに限る。
立ち止まっていた足を動かし、出口へ向かう私に過ぎった違和感。
看護師たちがやたらと走り回っている。
「どうしたの」
「それが、緊急外来担当の先生がいらっしゃらなくて、」
「受け入れを許可した先生は!?」
「連絡がとれないんです…!!」
これだけ大きな病院が、こんなヘマをやらかしてどうするのか。
患者の容態を聞き、一通りの指示を出した。
「何してるの、早くしなさい!」
口に出すことは出来る。しかし内心はそうはいかなかった。
逃げ出したい衝動を必死に抑える。私はここまでしか出来ない。
他の誰かが必要なのだ。
混乱する頭で、思考が上手く回らない。
誰か。それはもう祈るような気持ちだった。
廊下に出る。あの日の記憶がフラッシュバックする。雑音が消えて、あの日に戻る。
嫌だ、いやだ。
助けられない。助けて、
揺るがない一定のリズムを、この耳が聞いた。その音に顔を上げる。
「トラファルガー・ロー、」
今の彼に白衣はない。彼は歩みを止めず、出口へと向かう。
「トラファルガー・ロー!!」
声に必死さは隠せない。とっさに駆け寄る。変な汗が体中に滲む。
医者がこんなであっていいはずがない、そんなの、知っている。
弱くあってはいけない。救うために、神でなくとも。
「おねがい、―――たすけて、」
掴んだ私の手はまるで縋るようだった。
「今日の仕事は終わった。俺は帰る」
私は知ってた。そう知ってた。だって私も、そういう場所にいたのだから。
生死を分かつ、そんな場所に。
握りしめた手に、更に力が籠る。
「担当がいるだろう」
「いない。あなたしか、あなたしかいない」
いつの日か、忘れてしまった。私は弱くなった。
「お前がやればいい」
「私には、出来ない、―――」
「何を、」
「私には出来ないから…、何でも、何でもするから……!!」
身体が震える。泣きそうだった。しかし涙は出ない。あの日に置いて来たのだ。
たすけて、たすけて。
助けたはずのその声が聞こえる。助けられなかった声が聞こえる。それとも自分の声だろうか。
わからない。それほど今の自分は混乱している。
掴んでいる私の手の上から、体温。
「貸し、だ」
声の割にやさしい掌に包まれる。どうしてだろう。かなしい。
「後できっちり返してもらう」
―――覚悟しとけよ
あっさりと私の手は離された。オペ室へ彼は向かう。私の身体は崩れ落ちた。
荒い呼吸、彷徨う思考。震えはしばらく止まらなかった。
オペ室に向かいながら指示を出す彼に、指示を出された看護師たちはばたばたと駆けていく。
そのうち廊下には私以外の誰もいなくなる。
しんと静まり返る院内には私の呼吸だけが響いていた。
ふと訪れた孤独に何故かひどく安心した。
老いてゆく英雄
(なかない、よわいわたし)
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