いま胎児に還る | ナノ


「花形って言われる外科医がこんなに暇だったなんて知らなかったわ」
「わざわざ時間をつくって来てやってる。暇なわけじゃねェ」
「わざわざそんなことしなくて結構。邪魔だから帰って」

トラファルガー・ローがこの病院に来てもう2週間経つ。その間、彼は勝手に時間をつくっては、私の仕事場に顔を出すのだ。

「もともと暇なのはそっちだろ」
「私にも仕事はある。暇じゃないの。もう一度言うわ、帰りなさい邪魔だから」

患者用の椅子に腰かける彼は、可奈子が言っていたように確かに整った顔をしている。長い脚を組む姿なんて、女には堪らないだろう。現にいまここの看護師たちは黄色い声を必死に隠している。

「休憩中どこにいようと俺の勝手だ」

こういう時、彼は呼び出しがかからない限りここに居座る。

「ここにだって患者は来るの。あなたが休憩中でもね。それに、それは患者用の椅子。あなたが座る椅子はここにはない」
「『総合第二科は手に負えない患者の行き着く場所』、院内じゃ有名な話だ。そんなの相手してどうする。いくらそいつらが自分の症状を話したところで、そいつらは病気になんかなっちゃいない」
「そうね、そうかもね。でもそれはあなたには関係ないわ。それこそ外科のあなたには。」

そもそも、なぜここに彼が来るのかわからない。ここに来たところで彼は「あのこと」について何も聞かないのだ。他に看護師たちがいるからか、それとも他に理由があるのか。

「早く呼び出しがかからないかしら」

そんなことをふと呟いた瞬間、携帯のバイブ音が鳴った。目の前で彼が舌打ちをする。

「余計なこと言いやがって」

電話越しに結構な声量で怒鳴られていた彼は電話を切るとそう言った。別に私が呟いたから電話がかかってきたわけではない。かかるべくしてかかってきたのだ。

「もっと早いうちに口に出しておけば良かったかしらね」

彼は私を少しばかり睨んで、案外あっさりとここから出て行った。

「名前も随分冷たいのね、トラファルガー先生に対して」
「しつこい男は嫌いなのよ」
「そんなこと言っちゃって、さっきの掛け合い、息ぴったりだったわよ」

可奈子はたいてい彼の肩を持つ。いわゆるイケメンに目がない。

「…全然嬉しくないわ」

だから肩を持つのかと思っていたのに、どうやら違ったらしい。
溜め息をつきながら、所在なさげに適当にカルテをいじっていると、可奈子も溜め息をついた。

「何よ、」
「トラファルガー先生、かなり忙しくしてるみたいよ」
「…なにそれ」
「向こうでかなりの実績を挙げてたんだもの。しかもその実績を買われてこっちに来たのよ?忙しいのが当たり前でしょ」
「だから、何が言いたいの」

いじっていたカルテを棚に戻し、可奈子の目をじっと見る。可奈子は真剣だった。

「ただでさえ忙しいのに、それをどうにかしてまで時間をつくってここまで来てるってこと。そんなことするなんて何か理由があるはずでしょ。名前はそういうところにも目をつむっちゃうわけ?」
「何を偉そうに、」
「言うわ。医師と看護師っていう関係の前に親友だもの」

可奈子の人を見る目は、前から抜群に鋭かった。いつの間にそんなに見ていたんだと言いたくなるくらい、短い間でその人の大体を見抜いてしまう。

「どうしろっていうのよ」
「そうね…、もう少し手加減してあげたら?お茶を出すとか」
「つけあがるわよ、きっと」
「そう?でももう少し労いがあっても良いんじゃない?」

出来れば関わりたくはない。でも、可奈子にはきっと私には見えないことが見えているのだ。彼女が真剣に言う限り、従っていた方が良いに決まっている。

「わかった、もう少し気を遣うようにするわ」
「そう、良かった」

可奈子は少し微笑み、書類を持って、裏の方に行ってしまった。結局いつも、一番大切なことを教えてくれない。
それを目で追って、私はまた一つ溜め息をついた。



倦怠感に苛まれた彼らの行く末
(見えているものが、見えていないのだ)

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