いま胎児に還る | ナノ


過呼吸になったところをトラファルガーに助けられた昨日、ついにその理由を聞かれることはなかった。
意外ではあったが、助かった。その話を振られても話したくないし、思い出したらまた過呼吸になってしまっていただろう。
色々つっかかってきてしつこいが、悪いやつではないこともよくわかっている。むしろ顔に似合わずやさしいやつだということを、私は知ってしまった。知りたくはなかったが、向こうからこっちに来るのだから仕方ない。

朝、携帯のアラームがやかましく鳴って目を覚ました。アラームの音はいつもと同じなのに、起きて周りを見渡せば知らない部屋。座り込んでいるベッドも自分のものよりずっと大きくて上質。

「……さみィ、ふとんとるな、」

寝ぼけた英語が隣から聞こえてくる。
トラファルガー・ロー。
そうだ、私はこいつの家に泊ったんだと、寝ぼけた頭がようやく理解をする。

「……あなた今日勤務じゃないの?遅刻するよ」

英語で応えてやったら、布団からのぞくトラファルガーの肩がびくりと揺れる。

「何、私驚かすようなこと言った?」

トラファルガーが、寝返りをうってこちらを向いた。目はまだうつろで、ひどく眠そうだ。

「いや、久しぶりに母国語を聞くとな……しかも朝、自分の家の同じベッドの上だ。混乱もする」
「……やっぱりソファで寝ればよかった」
「家主より先にぐーすか寝てたやつがよく言う」
「それはどうもすみませんでした」
「心がこもってねェ」

朝からこんなやりとりに、うんざりしてしまってベッドを下りた。うんざりはするが泊めてもらったお礼くらいはしなければならない。朝食くらいは作ってやることにする。

「朝ご飯、何がいい?」
「普段朝飯は食わねェ」
「不養生……というか前来た時は食べてたじゃない。ちゃんと食べなさいよ」
「母親かよ」
「同業者の助言」
「まあでも、名前の飯なら悪くねェ」

そういう切り返しがいちいち気に食わないのだが、これは何を言っても変わらない気がするので何も言わなかった。そんなことより冷蔵庫に残っている食材に思いを馳せる。昨日の肉じゃがもまだ残っているしそれを食べてもいいかと思ったが、普段朝ご飯を食べないやつにいきなりそんなにがっつり食べさせるのも酷だろう。

「食パンとかあるんだっけ」
「オーブンの隣に置いてある」
「じゃあ、それ焼いて、サラダと、」
「なァ、」
「なに」
「飯食う前にシャワー入ってきてもいいか」
「いいけど…なんでそんなこといちいち聞くの?そんなにシャワー長いわけ?」
「いや、……」

歯切れ悪く言うので、なに?と先を促すと、これまたはっきりと言うまでに二言三言かかった。

「だから、何?はっきり言ってよ」
「――シャワーから出たらお前がいなくなってそうで……勝手に帰ったりするなよ」
「……………」

シャワーを浴びるというし朝食を作ったら帰ろうかと思っていたので、図星を指されて何も返せなかった。
私の様子を見たトラファルガーは、睨むような視線を寄越すと勝手に帰るなよと念を押してきた。

「一人で飯食えっていうのか」
「一人暮らしでしょ、あなた」
「つか、パンは嫌いだ」
「結局朝からがっつり食べる気なの?っていうかあなたの母国、主食パンでしょ……何食べてたのよ……」

そもそも嫌いなパンがなぜオーブンの横に置いてあるのかも謎だったが問い詰めるのも面倒なので、さっさとシャワーを浴びてこいと手で払った。
最初はパンでも文句はないようだったのに、「パンは嫌い」発言をしたのかもよくわからない。パンに合わせた方がおかずも色々と楽だし、早く帰れるのに……。

「まさか早く帰らせないためとか?」

一人残された部屋で思わずぽつりと出たひとり言に、呆れ過ぎて乾いた溜め息がもれた。

――なに言ってんだか

考えもせずに出た言葉とはいえ、馬鹿げている。
そんなことはもう放っておいて、朝ご飯をどうするか真剣に悩み始めたのだった。



* * *



普段の朝食がパン食な私は、何をおかずにするか大いに悩んだ。
というか、おかずをどうすればいいか悩んだ。
普段は朝食をあまり食べないと言うトラファルガーに和食で、重くなくて、……なんていう注文の多い朝食を作れと言われてもそうは上手くいかない。
何せここの家の冷蔵庫には余分な食材も全くないし、私は料理人ではないので応用はきかない。

結局どうなったかというと、昨日の残りの肉じゃがと卵焼きとご飯とみそ汁。
途中で悩むのも面倒になってそこに落ち着いた。

散々頭を悩ませた本人は普段朝食は食べないと言っていたやつは誰だと思うほどもりもりと朝食を平らげている。悩んだ私が馬鹿だったようだ。
先に食べ終えた私は半ば呆れてそのよく動く口を見ていると怪訝な顔をされたが、それに答える気力はなかった。

「ごちそうさまでした。美味かった」
「それはどうも。お粗末さまでした」

トラファルガーが私の分の食器も持って台所へ向かうので、私が洗うからと言うと、いいからと視線で返される。何もすることのなくなった私は帰りの準備をすることにした。
今日も勤務があるので、一度家に帰って着替えやら何やらを済ませなくてはならない。
携帯で電車の時刻を調べるとそろそろここを出なくてはならない時間だった。

「ごめん、そろそろ私、失礼しないと」

洗い物が終わったらしいトラファルガーに声を掛ける。

「一緒に行けばいいだろ、乗せていってやる」
「一度家に帰りたいのよ」
「……待ってろ、すぐ準備する」
「は?」

そう言うなりトラファルガーは自室に行ってしまった。わけがわからず呆然としていると、ものの数分ですっかり仕事仕様になったトラファルガーが出てくる。

「ここから電車使ってお前の家に行こうとしたら、乗換ばっかりで逆に時間食っちまうだろ。車出すから乗れ。で、お前の家の前で待っててやるからしっかり準備して来い」
「……そんなに私と一緒に行きたいの?」

トラファルガーが用意した解答に唖然としてしまって、必死に絞り出した返答がそれだった。
それに彼は気分を害するでもなくいたずらに笑ってこう言ったのだ。

「遅刻したくねェなら早く行くぞ」



* * *



車で行った方が早いと言うのは本当だった。
電車で行くとまず乗換が多いし、調べた時間の電車は乗り継ぎも悪かったのだ。
それにしても車に乗るときは私が後部座席に乗らないようにするためなのか何なのかわからないが、どこぞの紳士のように助手席のドアを開けてくるし落ち着かなかった……と、予想よりも早く着いた自分の家で準備しながらそう思っていた。

準備が終わって、トラファルガーの車に近寄れば、あいつが助手席を指さしてここに座れと指示してくる。逆らう気もとうに失せている私はそれに従い、大人しく助手席におさまった。

ここから病院まではまあ電車よりは少しかかるかもしれないが、いつもより家を出る時間が早い分大丈夫だろう。
丁寧に発車させるトラファルガーをちらりと横目に見て、それから前方へと視線を移した。

「ああ、そういや聞きたいことがあった」

今更過呼吸になった原因でも聞いてくるんじゃないかと少々気が気でなかった。

「聞きたいことって何」

少し硬い声で返事をすれば、ちらりとこちらに視線を寄越して私の表情をうかがったようだった。

「どこまでが大丈夫で、どこからがだめなんだ」
「……どういう意味?」

質問の意味がわかりかねた。漠然としすぎている。

「血が、だめなのか?なら、画像は?カンファレンスに参加するのもだめか?」

細々とした質問が矢継ぎ早に出てくる。答える間もなく次々と言われるので一々対応出来なかったが、徐々に専門的な内容になっていったので言いたいことの本質はなんとなくわかった。

「相談したい患者さんがいるのね」

一言そう返せば、質問攻めにようやくブレーキがかかり、本人もはっとして正気に戻ったようだった。

「……手術は出来なくはない、がアプローチ方法にやや不安が残る。オペの予定はまだ先だが、早いうちに不安要素はなくしておきたい」
「外科のチーム内でいい意見出なかったの」
「二つのアプローチ方法で意見が割れてるが、その二つもどうだか……」
「そんな難しい問題の答えを、私に求めるの?」
「欲しいのは答えじゃない、意見だ。あなたの、意見が聞きたい」

お前の、ではなく、あなたの、と言われた。
信号が丁度赤だったせいか、じっと見つめられて困る。

「――カルテ、見ないことにはなんとも…」

隣にいる彼は真剣だった。
私だって、一人ひとりの患者さんを真剣に診てはいるが、実際にオペをする人間はまた違う真剣さをはらむものだ。神経を鋭く尖らせて、思わずぞっと総毛立つような。

かつての私も、こんな表情をしていたのだろうか。

「助かる」

ほっとしたのか何なのか、和らいだ表情に内心どきりとした。
今まであまり見たことのない表情だったからに違いないが、病院までまだかかると思うと余計に居辛さを感じるには十分なほどの威力はあった。



病的なまでに優しい君のこめかみに突きつける、
(そうやって、わたしたちはたたかっていく)




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