いま胎児に還る | ナノ


朝から少し、嫌な日だなというのはあった。
いつもはちゃんと気付く目覚ましの音に気付かず家を出る時間が遅れたし、それでも乗れたはずの時間の電車には改札で引っかかって乗れなかった。遅刻はしなかったけれども診察室についたときには汗をかいていたし、髪もぼさぼさ、上がった息もなかなか戻らなかった。
そんな状態だったから可奈子には逆に心配された。

しかしそれ以降は変わったことも特になく、今日の仕事も無事に終え、その直後に呼び出された田中先生との話も思ったより早く終わった。
思えばなんてことない、本当にちょっとした嫌なことが何度かあっただけだったのだから、嫌な日、なんて言ってしまうのは間違いなのかもしれなかった。

―――この年にもなって馬鹿馬鹿しいか。なんだか嫌なことが起こりそうなんて、

そんなときに携帯が鳴る。ろくに発信者も確認せずに出た。

「…もしもし?」

「――もしもし、名前?」

聞こえてきた英語に、鳥肌が立った。

「………ステラ、――?」
「ええ、そうよ。久しぶりね、元気にしてる…?」
「げ、んきではあるけど、……何か用?」

かつての仲間の声に身体が細かく震えだした。滑り落ちないように必死に携帯を握りしめる。

「今ね、日本に来てるの。ちょっとした仕事で日本支部にいて。だから、会えないかなって、」
「……本当の用件を言って」

ステラはためらいながら話し始めた。

「…人手が欲しいの。無理を言っているのもわかってるわ。私があんな状況になったらって考えるととても……。でも、あなたの力が必要なのよ、名前、」
「私が必要?そうとは思えないわ、だって私は―――…メスも握れないんだもの」
「――え、…?だってまだ医者を続けているんでしょ?なら、」
「……血がね、駄目なの。思い出すのよ。夢にも出てくる。…ほらね、求める人材とは程遠いでしょ?欲しいのはオペが出来る人間なはずだから」

黙って何も返さない彼女に、じゃあ切るね、それだけ言って電話を切った。額から汗がたらりと垂れる。酷くなった震えのせいで携帯が手から滑り落ちた。続いて身体も崩れ落ちる。呼吸も荒い。ちゃんと話せていただろうか、途中からあまり意識がそちらに向かなかった。思い出したそれがこびり付いて、落ち着けるのに必死だったから。

呼吸がどんどん速くなっていく。未だに手が震えていて、口に手を当てるもその手に力はなくどうにか出来そうもない。

「…名前?っおい!」

また…何でこういうときに限ってこの男なのか。名前も呼び捨てだし。
朦朧とした頭なのに気付けばそんなことを考えていて、どこから出したのかいつの間にか口に袋があてられていた。

「落ち着いたか」
「ええ…。ありがとう、ごめんなさい。帰るところだったでしょ」
「馬鹿か。見捨てたら医者じゃねェだろ」
「……それもそうね、」

力なく返した言葉に、彼は顔をしかめた。
もう一度、ありがとうと言って立ち上がる。しかしその身体ぐらりと傾いた。呼吸は整っても、奮えは落ち着かなかったのだ。
それをこいつが見逃すはずがなかった。

「…送ってやる」
「え?いらない、自分で帰れるわ、ってちょっと、きゃあ、」
「へえ、可愛い声も出るじゃねェか。大人しくしてればいいんだよ、ふらふらなくせに」

所謂お姫さま抱っこで、助手席まで運ばれた。シートベルトまでされてしまうと、反抗する気も失せてしまう。当然のように乗り込むこの男が憎らしい。助けられた自分も不甲斐ない。あんな、記憶に捕らわれていること自体が。

着いたぞ、と言われてからそういえば自宅の住所を言っていないことを思い出した。だから着いたぞ、はおかしいのだ。一体どこに着いたのか、どこかの駐車場であることは確かで…なんだか見覚えがある気がした。

「ここって、」
「俺の家だが」
「送ってくれるんじゃなかったの」
「聞いたのに答えなかったじゃねェか」
「うそ、…ごめんなさい」

今日はやけによく謝るなと意地悪く笑われたが、返す言葉がない。でもだからといって、この男の家に上がるのか?それはまた違う問題で。

「まだ震えてんだ、都合よく縋ればいい。利用すればいい。お前にならいくらでも利用されてやる」
「……でも、」
「ぐだぐだ言うな。もう来ちまったんだから」

まるでエスコートするように腰に腕を回され、促されてエレベーターに。あっという間にドアの前で、気付けばソファの上に腰を落ち着けていて。
ずい、っと目の前にマグカップが差し出される。

「ホットミルク、」
「飲め、落ち着く」
「……ありがと」

飲んでいて思った。ひとりじゃなくてよかったのかもしれない。もし自分の家に送ってもらっていても、静かな家でまた思い出してまた過呼吸になってもおかしくない。
少し間を空けて座ったこの男はもしかしてそんなことまで考えていたのだろうか。組んだ足の上で分厚い医学書を広げている。

「何だ?嫌なら部屋に行くが」
「っえ、あ、そういうわけじゃなくて、…」

気付けばじっとその姿を見ていた。

「じゃなくて?」
「……特に何でもないですけど」
「けど?」
「いちいち揚げ足とるのやめてくれない」

さすがにからかわれていらついた。そんな私の表情を見てか、トラファルガーがいたずらに笑う。その表情がなんだか無邪気で拍子抜けしてしまった。

「フフ、やっと本調子に戻ったか?」
「いつもいらいらしてるみたいに言わないでよ」
「別に言ってねェよ。それはそうと、相談があるんだが」
「……なに」
「夕飯、どうする」

相談、なんていきなり言うから、また心臓に悪いような展開になるんじゃないかと内心びくびくしていたので、相談内容を聞いてほっとした。夕飯か。それどころじゃなくてすっかり忘れていたけど、そういえばもう七時を過ぎている。

「時間も時間だし、簡単なものでいいなら作るけど…でも、そもそもあなたの家に食材なんて存在するの?」
「存在するわけねェだろ。調理は一切できないんだから。外科医が指切ってオペ出来ませんじゃ話にならねェ」
「じゃあ、外で食べ、」
「買い出し行くぞ」
「は?」
「買い出し」

今からわざわざ買い出しに行くの、外に行くなら外食でいいじゃない、そうしたらそのまま電車乗って帰るから。脱いだ上着を再び着直し、手首をつかんで引っ張るその男にそう声を掛けても何の返事も返ってこない。大きく溜め息をついて片手にあったホットミルクをローテーブルに置き、傍らにあった上着をつかんで仕方なくそれを羽織ると、上着を着る際に離された手がもう一度私の手首をつかむ。

「手首つかむのやめてくれない?」

せめてもの反抗でそう言ったら手首からは離れていったものの、その手が今度は掌を包む。唖然とした。そのせいで文句を言うタイミングを逃した。この男もこの男で、「こっちが良かったなら初めからそう言え」とかなんとかいつものように憎まれ口の一つや二つ言えばいいものを、なぜ今回は何も言ってはくれないのか。私の顔は絶対に赤い。
結局そのまま駐車場まで手はつながれたままだった。



* * *




「…肉じゃがが食べたいなんて、和食苦手なんじゃなかったの」
「克服しつつある」
「あ、そう」
「それに、せっかく名前がいるのに手料理食わないなんてもったいないだろ」

いちいちこういう返し方をしてくるのがまたいらつく。そうやって年上をからかって…。いくら互いにその気がなかろうが、その顔でそういうことを言うのは反則だろう。さすがにこっちだってその言葉に絆されてはやらないけれど。

「御口に合えばよろしいのですがね」

皮肉をたっぷりこめて言った。その言葉に目の前の男は笑うのだ。そういえば今日はよく笑われている気がする。

「美味い。毎日でも食いたい」
「それはどうも。でも住込みの家政婦なんて絶対やりませんからね」
「は、家政婦なんて柄じゃねェだろ」
「よく御存じで」

過呼吸になってたのが嘘みたいだった。何でもない会話、というより軽口の言い合いだけれど、気分が軽くなっているのは間違いない。電話があったことも記憶の波に薄れている。
あまりに居心地が良くて、帰らなきゃいけないこともすっかり忘れて、勧められたワインを飲んで。それがまた口当たりのいい、とても飲みやすいものだったからあっという間にほろ酔い状態まできてしまった。

「にしても、肉じゃがの後にこんないいワインなんてね…日本酒とか飲まないの?」
「日本酒は、あんまり飲んだことがないからな…慣れてるもんを買っちまう」
「試してみれば?日本酒、おいしいの知ってるけど」

どこどこの何々、と作ってる会社と名前を言えば、手近な紙にさっとメモを取っていた。その様子がいつものふてぶてしい姿からは想像できなくて今度はこっちが笑ってしまう。

「メモ取るんだ」
「せっかく勧められたんだ、試してみるもんだろ」
「意外」
「…うるせえよ」

拗ねたような、そんな態度が新鮮だった。
しかし、すっかりくつろいでしまったけれど明日もいつも通りに仕事があるのだ。彼だってそうだろう。そろそろお暇しなければ電車もなくなってしまう。

「今日は、ありがとう。助かったわ。あの後もしひとりで帰ってもまた過呼吸になってたかもしれない。一緒にいてくれたおかげで気が紛れた」
「…別に、礼なんかいい。それに今日は泊まっていけよ。いくら日本でもこんな夜中に女のひとり歩きは危ねェ」
「泊まるなんて出来ないわよ。まだ電車だってあるし、酔ってるからって歩けないほどじゃないのに。それに、健全じゃないでしょ、そういうの」

返される前から返ってくる言葉がわかる。不機嫌そうな顔。

「譲らねェぞ」
「―――もしかして据え膳…?」
「下心がないわけじゃないが、同意もないのに襲わねェよ」

冗談で言ったつもりも、地雷を踏みぬいてしまった。
というかこいつ、可奈子のことが好きなんじゃなかったのか。

「下心とか言われたら余計に帰らなきゃおかしいでしょ!」
「また過呼吸になったらどうする」
「思い出したみたいに言わないで」

言い合っているうちに馬鹿馬鹿しくなってきた。それでもやはり向こうは私を帰す気はなさそうだし、過呼吸になったとき確かに自分でどうにかできないかもしれない。襲わないと言っているのだから大丈夫なのでは、と思えるほど、この男を信用している自分もいることに気づいた。よくよく考えると、それなりにギリギリのこともされているような気がするのだけれど。

「…ソファ、借りるからね」

その言葉を聞いたトラファルガーはふっと気が緩んだみたいに笑った。本当に今日はお互いよく笑う。酔っているせいだろうか。

「でもソファは駄目だ」
「床で寝ろって?」
「ベッド」
「あなたは?」
「ソファで寝る」
「だめ。私がソファで寝る。私はあなたみたいに命削って仕事してないもの」

別にどんな顔をしていようと関係ないけれど、せっかく緩んだ顔もまた元通りだ。何でそんなに意地を張るのか。仕事の内容からして絶対的に彼がベッドを使うべきなのに。

「関係ないだろ」
「もう、さっきからこういうやりとりばっかり…」

私が何を言ったところで聞かないのだろうけれど、でもこちらとしても譲れないのだ。ベッドでしっかり疲れをとって、ベストな状態で仕事をしなければならない。彼の仕事はそういう仕事だ。1oのミスも許されない過酷な。

「うんざりするなら受け入れろよ」
「駄目。あなたがベッドで寝ればいいの」
「…わかった。どっちもベッドで寝ればいい」
「全然わかってないじゃない。下心うんぬん言ってたくせによく言う」
「だから、俺が我慢すればいい話だろ」
「…がまん?」
「お前が言うならお利口に“待て”くらいしてやる」

呆気にとられた。こっちだって身体のことを思って言っているのに、さも当然、といったように返すのだから。それから、じわじわと実感がわいてきてやたらと恥ずかしくなった。結局折れるのは私なのだ。恥ずかしすぎてそれについては何も言えなくなった私は「お風呂借りるから!」と叫ぶように言い捨て、お風呂場に逃げ込んだのだった。



スカートに絡まった虚勢
(張った虚勢はお互いさま)


- ナノ -