いま胎児に還る | ナノ


昼休み。
諸用を片付け診察室に戻ってきたとき、ドアの向こうで可奈子の楽しそうな声が聞こえた。
誰か来ているのか。

何だか嫌な予感がして、それでも入らないわけには行かないので、溜め息をつきながらドアを開ける。

「そう、それでね!」
「……何が『それでね』なのかしら?」
「あら、名前。おかえり」

私の椅子には可奈子が話し足りないかのように前のめりになって座っている。
そして、患者用の椅子にはあの男。

「……相変わらずね」

この間、体調を崩したばかりだというのに、なぜ来るのだろうか。ここに来る暇があるなら仮眠をとった方が良い。

「安心しろ、体調管理は出来てる」
「…どうだか」

総合第一科の田中先生から預かってきたカルテを、所定の場所に置いた。昼食を食べながら作業をしようと思っていたのに、ここがこんな状態では出来ないだろう。

奥でお茶でも入れて、そこで静かにしていようと向かうと、騒がしい二人から自分たちの分もお茶を入れろと声が飛んでくる。

「図々しい…」

静かには出来なさそうだ。そう思うと大きな溜め息が出た。お盆に三つの湯呑みを置いて仕方なく二人の方に戻る。
机にお盆を置いて、自分の分の湯呑みを手に取った。
いつの間にかキャスター付きの椅子がひとつ増えている。普段奥で作業をする看護師用の椅子だ。
それがご丁寧に男の隣に置かれている。

「今ね、高校時代の話をしてたの」
「……だれの」
「私たち、っていうか、昔のあんたの話」

それを聞いてむせそうになった。

「なんでそんな話…!!」
「トラファルガー先生が聞きたいって言うから」

何事もないかのようにお茶を飲むそいつを睨む。
そんなことをしたって彼は飄々としていた。

「それで?」
「ああ、それでね、…どこまで話しましたっけ?」
「球技大会で、」
「そう、決勝で当たるからって、準決勝の他クラスのバスケの試合を見てたんですけど、」

促された可奈子はあっさりと先を続けてしまう。しかもそれは、あまり話されたくない話じゃないか。

「ちょっと、」
「審判がね、誤審しちゃったみたいで…って言っても私は全然ルールに詳しくないからわかんなかったんですけど、名前がね、」
「可奈子!」

やめなさいよ、という意味を存分に含んでいたせいか少し大きな声が出てしまった。しかしそれは長年の付き合い。可奈子には効かない。

「審判に食ってかかって。他クラスの試合ですよ?しかも一方的に怒鳴りつけてるし。危うく退場させられた挙句、決勝の試合にも出させてもらえなくなるところでしたよ」

そうした行動に出たことに悔いはないが、恥ずかしい思い出に変わりはない。
自分だって、なんであんなに血が上ってしまったんだろうと反省したのだ。思慮に欠けた行動だったと。

「へえ、意外だな」
「……そんなふうに思ってないくせによく言う」
「なんだ、ばれたか。なんだかその光景が目に浮かぶ」
「……………」

意地悪く笑って言う男を睨んだ。顔が熱い。可奈子もよくこんなことをしてくれたものだ。話すとしても相手を選んでほしい。

「まあそう睨むなよ。ちゃんと理由があったんだろ、激昂した理由が」

あった、と言えば、聞かせてくれ、と言う。その表情にはもうからかうような色はなかった。促すように柔らかい表情をして。
可奈子を見れば、自分で言いなさいよ、という顔をしていた。今まで止めてもやめなかったくせにこんなところで全部投げてくるなんて無責任だ。

「片方のクラスのファウルをあからさまに見逃してたのよ。それで腹が立ったの」

公平な立場であるはずの審判が、不公平な判断を下している。両チームとも懸命にプレーしているのに。その行為はどっちのチームに対しても失礼だ。

「その審判はね、私たちが準決勝で負かしたチームのひとりだった。自分たちが次の三位決定戦で有利になるように片方のチームのファウルを見逃してたのよ。許せなかった」
「ま、それで名前が審判に抗議しに行ってもめにもめてるところに実行委員長が来て、審判をもう順位が決定してるクラスの人に変えてくれたから一件落着だったんですけどね」

いきなり投げてよこしたと思っていたら、最後は可奈子が持って行った。何なんだ、もう。

「らしいな」
「え?」
「苗字らしい」

またこいつは…やっと名前の呼び捨てではなくなったと思えば苗字の呼び捨てかと心の中で文句を言う。

「私らしいって何よ」
「目に入ってしまったら、見捨てられないんだろう。それに、ひとの心に敏感」
「そう、でも自分の気持ちには鈍感」
「フフ、そうだな」
「見捨てられないはまだしも…心に敏感ってそんな要素どこにも、」

そう言った私を見て、二人は揃って笑う。

「ほら、鈍感」
「………もういい」

私ばっかり恥ずかしい思いをして、結局可奈子自身の話なんか出てこないし、ずるいと思う。可奈子もだし、この男だって昔の話なんか何も、

「あんたはどうだったのよ、高校のとき」
「俺か?」
「そう」
「どうだったと思う?」

聞こうと思った私は馬鹿だったかもしれないと思うほど、男はにやりと笑っていた。

「気になるのか?」
「不公平でしょ、私の話だけなのは」
「不公平ね、…おっと電話だ、もしもし、斉藤さん?」

そう言いながら、じゃあな、とでも言うように手を挙げて部屋から出て行った。

「……下手な嘘」
「嘘?何が」
「医師同士の連絡だったり、緊急の連絡だったりは着信音が鳴るようになってるのよ。しかも、いくら優秀な医者でもあいつはまだ下っ端。上の人の呼び出しにすぐに応じなきゃいけないはずだから着信音が鳴らないのはおかしいの」
「なるほど」

今度会ったときに聞いてやる、と思ったが、にやつきながら「気になるのか」と言ったあいつを思い出したら聞く気が失せてしまった。変なことになりかねない、そんな気がしたのだ。

「…なるほど、じゃないよ。自分でも恥ずかしいと思ってるんだからあんな話しないで。するとしても相手を選んでよ」
「選んでるけど。っていうかトラファルガー先生だから話したんだけど」
「イケメンだから?」
「違うわよ。そんなに飢えてるみたいに言わないで」
「飢えてるじゃない。食いつきが違うもの」
「…そうね、だけど!イケメンだから言ったんじゃないから、彼だから言ったの」
「……好きなの?あいつのこと」
「ほんと鈍感」



ふざけて放った言葉は宙を舞って
(そうしていつか、我が身に降り積もるのだ)


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