810の日 | ナノ


この子を拾ったのはいつだったか。残業帰りの、もうあと数十分で日付が変わろうとしている時だった。夜空は雲一つなく、満月が煌々と輝いていて、自宅のマンション近くは、とても静かだった。

そこに、前から人が歩いて来る。様子が少しおかしかった。ふらついているような印象を受けたのだ。あの、と声をかける前に崩れ落ちた。急いで支えて、声をかけるも反応がない。支えている状態では電話もかけられず、この道には人気もない。
疲れた身体に鞭打って、仕方なく自宅まで運んだ。

ベッドに寝かせて確認すると、寝息をたてているだけだった。明日は休みだし、安心してソファに横になった。

朝起きると、いつもと景色が違った。寝室ではなくリビングで、ソファに寝転んでいることに気付く。ああそうか、昨日は確か、倒れた子を拾って…と思い出して起き上がろうとすれば、重くて起き上がれない。首だけ曲げて周囲を確認すると床に座り込んで、伏せるように私に乗っかるその子の姿。思わず手を伸ばして撫でると、ふるりと瞼を振るわせて、その子は顔を上げた。ちらりとこちらに寄越した視線には、疑うような、けれども不安が滲む。

「きみ、“猫”だったんだね。ごめんね、勝手に帽子とっちゃって。寝づらいかと思って。きみが寝てた寝室に置いてあるよ」

何も答えない彼に、「朝ご飯、作ってあげるから、それ食べたら家に帰りな。家の人も心配してるでしょ」そう言って、キッチンに立った。いくらお客とはいえ、朝から豪勢なものは作れないし、作っても食べられないかもしれない。なんせ彼は単なる猫ではなく“猫”、つまり愛玩用の獣人のネコ型なのだ。獣人は一般人が手を出せる値段ではく、金持ちが“飼う”。彼の主人もお金持ちできっとかわいいペットを血眼になって探していることだろう。人間は、知能もあり、身体能力も高く、美麗な容姿を持つ獣人におそろしいほど惹かれるのだと、何かで言っていた。

「ごめん、私、きみが何を食べられるかわからないんだけど…」

と聞こうとすると、腰を抱えるように後ろから抱かれて、首筋に顔を擦り付けられた。

「……え、っと?」
「捨てられたんだ、おれ」
「…………、」
「おれを…飼って、くれませんか」
「飼って、って…言われても」
「何でもする、何でもするから!なあ、お願いだよ、もう…捨てられたくない――」

私はその必死さに押し負けた。かと言ってもうひとり、しかも男の子を養う経済力があるか自信がなかった。なので条件をもちかける。じゃあ、お試しで一か月ね、それで駄目だったら出て行ってもらうからと言うと、役に立ってみせると意気込んでいた。
それから、私たちの同居生活が始まる。



* * *



ローと住み始めて一週間で私はいきなりの昇進、まさかの管理職で、同居にあたってのお金の心配はなくなってしまった。ただ、前よりも忙しく毎日がばたついていた。だから必然的に家事はローにやってもらうようになったわけだけれどもこれがてんで駄目だったわけで。

「ただいま」

そう言って帰るなり、玄関先で出迎えたローの耳がへにょりと垂れていて、尻尾も元気がなく垂れ下がっている。おかえり、と言ったローの声はおそろしく小さかった。
頭の上にクエスチョンマークを浮かべながらリビングのドアを開ければ、ひっちゃかめっちゃか、という言葉がぴったりの惨状で。

「こ、これは……」
「名前、ごめん、おれ…」

ひどく高い背の持ち主だというのに、やたらと小さく見えた。

「ロー、出来ないなら出来ないって言って?じゃないとやり方も教えられないでしょ」

そう言うと、びくりと身体を震わせる。ああ、違う。勘違いをしている。今まさに放り出そうとなんてしないというのに。
なんだか、大きな子供。結婚もしていないのに子供ができたみたいだ。

震える身体をそっと抱きしめた。

「明日あさって休みだから、一緒にやろう。やり方教えるから」

首筋に顔を寄せるローの頭を撫でて一緒にキッチンに立つとサラダ用のきゅうりを切るように言った。危なっかしい手元、本人は至って真剣で。

「そうそう、ゆっくりでいいよ。怪我しないようにね。ロー、上手じゃん」

そう言うとほんのり頬を赤く染めて「…褒めんな、ばか」と小さくこぼした。



* * *



「前は全然何も出来なかったのにね」

一か月をとうに過ぎ、もう二か月目に突入していた。
目の前でご飯を食べているローは、上流階級の家で飼われていたせいかやはり食べ方はいつも上品だ。

「…名前の、おかげだ」
「そう?でも、ロー器用だし、ちゃんと教えればできる子だし…。むしろやればできる子なのに何で最初は出来なかったのか…、どうせ、その嫌味な元主人がちゃんと教えてくれなかったんでしょう」

元主人は、ローのことを「奴隷のくせに何もできないクズ」と言い、「妻をたぶらかした」と言ってローを追い出したのだと言う。まあ、私も、ローと一緒に暮らしてる分ひいき目で見てしまっているし、公平には見れないと思うけれども、ローの話からすると元主人の目を盗んで近づいてきたのは奥さんの方なのに。

「でも、それでも…名前が褒めてくれたから」

照れたように目を伏せるローに笑って、私はまた怒られたのだった。



(1)やればできる子です。長所を褒めましょう。


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