あっと言う間に夏休みになった。夏休みになったは良いけれど、バイト禁止な学校に通い且つ帰宅部な私は暇を持て余していた。こう何もすることがないと、嫌いなものでも暇つぶしならと手を出してしまう。憎たらしい宿題も、暇つぶしの役には立つ。
「とは言ってもなあ…ここわかんないし」
問題集は開いたままで机の上に置いてある。シャーペンも消しゴムもそこらへんに転がっている。ノートには書きかけの数式。
「ロー、暇かなあ」
携帯を手に取ってアドレス帳を開いた。ローのアドレスが表示されるが、電源ボタンを押して待ち受けに戻す。出来れば教えてほしい。でも、ローの時間を邪魔したらいけない気がした。
「…………」
アドレスを表示して、待ち受けに戻してを何回か繰り返し、結局ローにメールを入れたのだった。
―――ロー、暇だったりする?
送ってすぐに携帯が震えた。どうせメールだろうと少し放置していたけれどバイブが止まらないので手に取るとローからの電話だった。少し申し訳なくなる。
「もしもし」
―――お前からメール寄越したくせに出るの遅ェ
「メールだと思った」
―――……まあいい。おれは暇だが、それで?
「宿題のわからないところを教えていただきたいなあと」
―――じゃあ今からおれの家に来い。場所はわかるだろ
そういうことで、私はローの家に初めてお邪魔することになった。ローの家は駅近くの高層マンションだ。帰りにいつも通るので、場所はもう把握済み。一式を持って、家を出た。
高層マンションに着いて、ローに「いま着いた!」とメールを送った。そして、エントランスに踏み入る。
「…………。」
さて、どうしたものか。
確かに、駅前、しかもまだ綺麗な、何年か前に出来たようなマンションだけれども、たかがエントランスでこんなに上品だとは思っていなかった。高そうな花瓶に高そうな花々が綺麗に飾られている。
びっくりして頭が真っ白になる。何しに来たんだっけ、何をするんだっけ。目だけ動かして、状況を把握しようとする。オートロックのパネルが目に入って、やっと少しだけ正気に戻って、そのパネルの前に立つ。ローからあらかじめ部屋の番号は聞いていたから、あとは入力するだけなんだけれど。
驚いているのか、怖気づいているのか、なんだかよくわからなくなってきたが、指が動いてくれない。こんな綺麗な建物、家族旅行のホテルだって入ったことない。また、頭が真っ白になってしまった。
どれだけそのパネルの前に立っていたかわからなかったけれど、自動ドアの向こうからばたばたと走る音が聞こえてくる。なんだろうと思っていたら、ローが慌てた顔で走って来た。
「…お前なにやってんだよ、」
「え、あ、…ご、ごめん?」
ローは溜め息をついて、呆れていた。
「『着いた』ってメール来てから20分だぞ、」
「そんなに経ってた?なんか、…驚いちゃって、こんな綺麗で」
ローを走らせるほど心配させてしまった。あはは、気の抜けた笑いで誤魔化すしかない。
「……場違いなんて、思うなよ」
聞えないほどではなかったけれど、小さな声でローは言った。
「え?」
「そのうち慣れる」
荷物貸せ、そう言われたと思ったら鞄は奪われていった。代わりに空いた右手をローの左手が取る。ローはさっさとオートロックを解除して目の前の透明なドアを開けてしまった。なんだ、開いてしまえばこんなに簡単なのか。
腕をぐいぐい引っ張られて、エレベーターに乗り込む。そこでローが押した階のボタンにまた驚いてしまった。
「え、最上階…?」
「最上階」
「……まじか、…」
まあ、両親お医者さんで、しかも私が知らなかっただけで二人とも凄い有名なお医者さんだったんだからこんなところに住んでいてもおかしくないんだろうな。でも、まあ、そりゃあ驚く。
「名前、」
しばらく何も話していなかったローが口を開いた。まだエレベーターは目的の階に着かない。
「なに?」
「…何でもねェ」
ローはポーカーフェイスだけれども、何だか不安そうに見えた。それから、エレベーターが目的の階に着いてローの家に入るまで結局何も話さなかった。
「お邪魔しまーす」
入って思ったのは、広い、ただそれだけだった。
玄関でさえこんなに広いなんて。またびっくりして固まっていると、既に廊下の先にいたローが早く来いと急かす。いつまでも玄関にいるわけにはいかないので、靴を脱ぎ、きょろきょろと色々なところを見ながらローの後に続いた。
「ローの部屋、どこ?」
「あ?リビングでいいだろ」
「ご両親の邪魔じゃない?」
「どっちもほとんど家にいねェし」
辿り着いたリビングもまた、すごかった。入ったことはないけれどホテルのスイートルームとかってきっとこんな感じなんだろうなと思った。私の荷物をソファに置いたローが私の目の前に立つ。どうしたんだろうとローを見上げると、少し悲しそうな顔をしている気がした。
そのまま、抱きしめられる。
「さっきからどうしたの。変だよ」
「お前が悪い」
「私?」
ローの腕に力が籠る。さらにぎゅっと引き寄せられて、なんだかこれではしがみつかれているような感じだ。なんだろう。だだをこねて「いかないで」って。
そうか、なるほど。確かに私が悪いのかもしれない。
私の顔のすぐ横にローの頭。仕方なく、頭を撫でてやった。ぴくり、と肩を震わせたと思ったら、すぐに余計な力が抜けていく。今日のローは、ローじゃないみたいだ。
「確かにちょっと驚き過ぎちゃったけど、ローが不安に思う必要はないよ。私が勝手に変な気ィ張ってただけ」
色々なことに驚いて、それに頭が追い付かなくて、変によそよそしくなってしまっただけでローがどうのこうのなんていうのは全く関係ないのだ。
「不安になっちゃったかー。よしよし、大丈夫だよー」
「子ども扱いすんな」
「今日のローはでっかい子供だぞ、今のところ」
ご両親も忙しくてあんまり家にいないみたいだし、普段はあんな俺様何様神様なローでも色々ぽっかり空いた穴があるのかもしれない。
「甘えたさんだねえ、今日のローくんは」
「…うるせェ。宿題教えねェぞ」
「それは困る、大いに困る!」
お互い顔を見合って笑った。いつものローがそこにはいた。
6-1.入る。
宿題で、思いっ切りしごかれたのは言うまでもない。
[back]