紙切れの一件も落ち着き、偉そうなお姉さま方が再び出てくることはなかった。
そんな中で今朝、一つの紙切れが下駄箱の中に入っていた。
ーー今日の放課後、屋上で
名前の書いていないその紙切れには見慣れた字でそう書いてあった。
朝の昇降口は騒々しいはずなのに、その文を読んだときは音が消えたような気がした。
これがきっと、本当に本当の区切りになる。そう感じた。
***
たった一言の紙切れが入っていただけなのに、それだけで一日中ぼうっと過ごしてしまった。そのせいで友達には体調を何度も尋ねられることになってしまったが、ふとした瞬間に付き合っていた日々のことを思い出して、気づくとぼうっと遠い何処かを眺めている。
「体調不良じゃないな?名前、ローくんのことなんでしょ」
「…………」
「どうしたの、今更?大丈夫?」
「今更なのは、わかってるけど……手紙が、」
「手紙?」
「今日下駄箱に入ってて」
あまり物事を深く考えられず、友達に問われるままにその紙切れを差し出した。友達はそれを見るなり顔をしかめる。
「手紙って言ったけどただの紙切れだし、名前も書いてないし、屋上でって怪しくない?」
確かに怪しい。私だって、下駄箱に入っている紙切れを見たときはまたかと思った。でも、中身を見れば、誰が書いたかなんてすぐにわかる。
だってあいつはこの字で私に勉強を教えたんだから。
「なるほどね…それで?行くの?」
友達はまだ少し心配そうだ。
「行くよ。これであいつの踏ん切りがつくなら」
「…なんかあったら話聞くからね」
私の気が変わらなそうな様子を見て、友達もこれ以上を言うのは控えたようだった。
放課後、クラスメイトが部活に行くか、帰るかしてまばらになってから屋上に向かった。
屋上の扉を開ければ、すでにローはそこにいた。
「悪かったな、呼び出したりして」
彼は実に済まなそうにそう言った。色々あったあとだからだろうか、少し様子が違って見えた。私が思っていたよりも落ち着いている。
「別にいいよ。私もこの間呼び出したでしょ」
「状況が違うだろ」
「でも、ローも区切りをつけに来たんでしょ?同じじゃない」
まあそうだな…と言った後、ローは口を閉じた。
何か言いたいことがあるのも、それが言いにくいことなのもわかっている。彼は言い方を考えているようだった。
別に今更、歯に衣着せぬ言い方でも構わないのに。
ローがふ、と息を吐いて、それから言った。今更言い方考えて取り繕うのはやめだと。
「おれは…お前の嫉妬が嬉しかった。離れたくないと泣いてくれるのがたまらなかった」
始めはそらしていた目も、今はしっかりと私を見つめている。
「ひどいことをしているという自覚はあった。それでもお前を試すようなことを続けて自分を満たしてた」
馬鹿だったと、ローは言った。
その通りだと思う。だって、試す必要なんてなかったのだ。平々凡々の私なんか試して、精々残るのは腫れた目とちり紙の残骸、それと目に見えない傷だけだ。
「許さなくていい。許す必要もない」
私は多分、許せないし、許さないと思う。
それなのにきっとこれからもずっと、ローといた時期を思い出しては「あーあ」と一人ごちるのだろう。
ローの声は力が入りすぎて強張っていて、震える一歩手前のように聞こえる。そんな自信のない声なんて人には聞かせないくせに、本当に最後までずるい奴だ。
しかし結局、この声を聞いて安心するのだから、私も手に負えない。
きっとしばらく恋なんてできない。
そう思い至って、やはり「あーあ」と内心毒づきながらローの話を聞いていた。
「でも、お前だけと言ったのは嘘じゃない。それは今もだ。これからも変わらない」
彼が今言っていることは間違いなく大ごとで、たかが高校生が言う言葉とも思えないし、彼のやってきたことを考えると場違いで信憑性もない。
わざわざこの場で言うのだから嘘はないのかもしれないが、もう元の関係には戻れないし、傷つけられるかもしれないというリスクをおかしてまで付き合おうとも思えない。
飛び込む瞬発力を私は失ってしまったんだなあとしみじみ思う。私は、やはり変わってしまった。
ローのことは、やっぱり好きなんだと思う。
それでももう一度彼と向き合う勇気を、今の私は持ち合わせていないのだ。
「伝えたかったのは、それだけだ」
私はきっとしばらく彼を想ったまま過ごすことになると思う。
そしてその膠着状態に飽きて、他のベクトルを探し出したらそれで本当に終わり。きっと、そういう終わりなんだろう。
ローに至ってもそうで、今は私に固執してるけれど、いい相手が見つかればそこできっと終わり。
ーー歩み方が違ったら、こうはならなかったのかな
私はこの結果を、やはり惜しいと思っているのかもしれなかった。
「お前、相変わらず馬鹿だな…自分に酷いことした男と今後関わらずに済むってのにそんな顔すんじゃねェよ」
ローは心底悔しそうな、苦笑いのような、変な顔をしてそう言った。
「そんな顔って…どんな顔」
「……絶対言わねェ」
快晴の空に予鈴が響く。
なんだか虚しく聞こえるのは、この状況だからなんだろう。
「授業始まるよ、行かなきゃ」
この残響を、聞いていたくなかった。早く離れたかった。
「行けよ、おれは出なくても平気だ」
「またそうやってサボるの?」
ローはため息をついていた。相変わらず変な顔をして、私を見つめている。
「…ばか、好きなのに別れた女と肩並べて教室に行けるわけねェだろ、行けよ」
ああ、そうか。確かにそうだ。
私たちは肩を並べて教室まで向かうことも難しくなるほど、関係をこじらせてしまったのか。
「……最後までばかって、酷い男」
ただ、好きだった。それだけなのに。
「ああ、そうだ。だからお前はおれを振って正解ってわけだ」
だからそんな、軽々しく言うなよ。
「こんないい女とお別れなんてね!精々いい男になりなさいよ?ばーか!」
べ、と舌を出して、間抜け面をさらした後、走って扉まで向かった。
扉を開いて、立ち止まり、振り向いた。
「下駄箱の件、ありがと」
その後は振り返らずに走って教室まで向かった。
少し前にも屋上から教室まで走って向かったことがあったなと思ったけれど、あの時よりも確かに晴れた視界に私は、ようやっと一歩踏み出せた気がした。
18.進む。
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