「…っはァ?鍵忘れた?」
「ああ」
ローの家のドアの前。いつものように、ローの家でぐだぐだしたり勉強を教えてもらったりしようと思ってやって来たはずだった。
「『ああ』って、どこに忘れたの!?学校?え、やばいよねそれ!戻る?」
「慌てすぎだろ。それにお前の家の鍵じゃねェのに」
「いやいやいや、心配だから言ってんじゃん!それで、どうすんの?戻るよね、私も行った方が、」
「いや、家に忘れた」
「は?家?…あ、じゃあとりあえず入れるのか、鍵閉め忘れてんだもんね…それもやばいけど」
「いや…オートロックだから入れねェな」
「……え、」
平然と言ってのける隣のこいつに、一瞬呆れたけれど、それどころじゃないと気持ちを引き戻す。
両親が帰って来るのか訊けば、不幸中の幸いで、9時ごろにはお母さんが帰って来るらしい。ほっと一息つく。
「…で、どうしようか」
「家まで送るからお前は帰れ。おれはシャチかペンギンの家にでも行く」
「遠いじゃん、二人の家」
「仕方ねェだろ」
そう言うローに、尋ねた。
「うち、来る?」
とっさに言ってしまった言葉に頭が追い付かない中、そういえばテレビ番組でこんなのあったなあと他人事のように思った。
自分の家の目の前にいて、インターホンを押すのにためらうのはなぜか。それはもちろん隣にローがいるからで、この家にこの男が踏み入れるとなるとその先の展開がありありと浮かび、恐ろしくなる。でも、仕方ない。
そう、仕方ないのだ。もう、どうにでもなれ。
今まで考えていたことを抹消して、インターホンを押した。
―――はい
「あ、お母さん?ただいま」
―――あら、今日は早いのね。今開けるわ
聞えた声に、ふう、と溜め息を漏らしてから後ろにいるローを見ると、何だかよくわからない顔をしていた。
「なに、どうしたの」
「いや、…」
返事を濁すことなんてないローが濁してきたので、なに、と詰め寄ろうとしたとき、ドアが開いた。
「姉ちゃんおかえり!!」
「おかえり、名前。…あら、そちらの方は?」
なんていうタイミングだろうか。ローの濁した先の言葉も聞けないし、本当に何の心の準備もなくこの時が来てしまった。
「えっと、その…、か、彼氏、…です」
妙にたどたどしくなってしまった。
恐る恐る母と弟を見ると、固まっている。
「え、っと…あの?」
声を掛ければ、堰を切ったようにしゃべり始めた。
「詐欺だ…そんなかっこいいひとが姉ちゃんの彼氏なわけねェ…」
「夢、かしら?そうよね、夢よね」
「……………」
「…………」
私だって、たまに思うけど。夢だったりしないよねって思うけど、その度にいつも頬をつねればちゃんと痛いのだ。
「あ!!あれだろ、姉ちゃんこのひとの弱み握ってるとか!」
「やだ!いくらなんでもそれは駄目よ!!」
「こっちが何も言わないのをいいことに散々言って…!!彼氏だから!ちゃんと私の彼氏だから!」
埒があかないので、ローを引っ張って、2人のいる玄関を無理やり突っ切った。
振り向かずに私の部屋まで向かったから、母と弟がどんな顔をしていたなんか知らない。
「ごめんね、騒がしくて」
部屋に着いた私達は、そのまま床にぺたりと座った。ベッドの下を漁って、折りたたみ式のローテーブルを出す。
「いや…。そんなもんだろ、ふつう」
そう言ったローの顔は、さっきしていたよくわからない顔だった。
「どうしたの」
「……は?」
「変な顔してるよさっきから」
「…してねェ」
「してるってば」
どんな表情をしているかはわかっても、どんな気持ちでそんな顔をしているのかは、まだ掴めないときがある。
しかもローはただでさえ隠すのが上手いのだ。
「…慣れてねェだけだ」
そう言ってローは視線を伏せた。それがなんだか哀しくて、私はローに手を伸ばす。
「…何してんだ」
「頭を撫でてます」
「何でだよ」
「私の勝手でしょ。撫でたくなったからだけど」
不満そうにしたわりには、されるがままになっている。
ゆっくりと、ローの髪を梳く。さらさらと流れるそれは柔らかい。
今日のローは猫みたいだ。
髪を梳くのをやめずに、そっとローの頭を抱き寄せた。
「珍しい、嫌がらないね」
「嫌じゃないからな。それに…、…いつもだって、別に嫌がってるわけじゃ、ねェ」
「…素直」
「…うるせェ」
口ではそんなことを言いながらも甘えるようにすり寄ってくるローに、ばれないように笑った。
そうしてしばらくしていると、どたどたと階段を上ってくる音が聞こえて、唐突にドアが開く。
「姉ちゃん、菓子と飲みもん持ってき…、」
「馬鹿!ノックしろっていつも言ってんでしょ!!」
二人して急いで離れたので、部屋には変な空気が漂っていた。
「ごめ、もしかしなくてもイイ雰囲気、」
「うるさい!用は済んだでしょ!早く出てって」
うわっと気圧され後退りながらも、あっ、と弟は何か思い出したようだ。
「姉ちゃん、後で良いから数学教えてよ」
「…え、やだ。私数学嫌いだし」
「えー、宿題わかんねぇんだもん!明日提出なんだよ、なあ、お願い!!」
ふと、良いことを思いついた。適任なやつがいるではないか。
「ローに教わったら?頭良いし、教え方も上手だし」
ねえ?とそちらへ視線を向ければ、わずかに目を見開いているローの姿があった。
「さっきの今で、どうしてそうなる」
「適任だし、まあ、荒療治ってことで」
「……………」
「お願いします!!教えてくださいッ!!」
黙り込んだローに、弟がすかさず泣きつく。ローは流し方もわからないようで、わかった、と小さく答えた。
最初こそぎくしゃくしていたものの、教え、教えられているうちに二人は少しずつ打ち解けていった。
解けたと喜ぶ弟の頭を撫でてやったり、すごく優しく笑って、誉めたりして。
「…なんか本当の兄弟みたい」
思わずそう呟くと、ぱっと顔を上げた弟が、
「兄ちゃんいたらこんな感じかなっておれも思った!」
と、とても嬉しそうに言った。
ローは何も言わなかったが、少し嬉しそうに、ほとんどは照れを隠すための仏頂面をしていた。
最初はローさんだった呼び方も、最後の方には兄ちゃんになっていた。
宿題が無事終わったと、喜びを部屋一帯に散らかして、ありがとう、兄ちゃん!と言い、出て行った弟になんだか溜め息が漏れた。
「私が言うのも変なんだけど、弟、シャチに似てない?」
「確かに似てるな。犬っぽいところとか」
弟がいなくなって静かになった部屋で、少しずつ、二人でいるときの雰囲気を取り戻す。
「『兄ちゃんいたらこんな感じだと思った』って」
「……あァ」
「嬉しいなら嬉しそうにすればいいのに」
「……………」
ローは視線を逸らして、こっちを見ないまま言う。
「慣れてねェんだよ、そういうの。知ってんだろ」
「頭撫でたりしてたのに?」
「あれは、……自分でも驚いた」
照れた様子でそうこぼすローに、少し嬉しくなった。
笑っていたのがばれたのか、ローが怪訝な顔でこちらを向く。
「何笑ってんだよ」
「別に?」
ローは私が何も言わないだろうことを悟って、深くは聞いてこなかった。
少しでも良い、お節介ととられても良いから、ローを包む温かな空間があることを知ってほしいと思った。
「ローくん、夕飯、食べていったら?」
今度は母親が部屋まで来たと思ったら不意にそう言ったので、二人して驚く。
私は別に構わないけれど、ローにしたら少し荷が重いかもしれない。家族というものに、少し敏感なローにとっては。
ローはやはり少し戸惑っているように見えた。
「下の子もね、ローくんともっと話したいみたいで」
弟の興奮した様を思い出したのか母親は笑っている。
ローがちらりとこちらを見た。
私はそれに、無理する必要はないよ、と目線で答える。
ローは少し考えてから、じゃあ、お言葉に甘えて、と言葉を返した。
テーブルに並ぶいくつものおかずに、ローは少し驚いたようだ。それはそうかもしれない。一人でご飯を食べることの多いローは、こんなにおかずがあっても食べきれないだろう。
それにしても、食べていったら、と言うわりには、ありきたりのご飯だった。もっと豪華なものが出るかと思っていたから拍子抜けだ。
弟はローに熱心に話しかけているし、母親はその様子を見て笑っている。父親は単身赴任中なので不在だが、いたらローと一緒に我が家で夕食なんて食べられなかっただろう。
ローは全種類を少しずつとって食べていた。
うまい、と小さく呟く声に、母親はとても嬉しそうだった。
「お母さん帰ってくる日なのに夕飯誘っちゃって大丈夫だった?」
家を出たところで、帰るローと少し話す。
「あのひとは夕飯済ませて帰ってくるから別に問題ない」
「そっか、」
今日のことをローがどう思ったかはわからない。私の家族がいる空間を煩わしく思ったかもしれない。そう思われたとしても仕方ないのはわかっているのだ。いきなり放り込まれれば、誰だってそうだろう。
ふと、ローが私の髪を梳く。
「ありがと、な」
見上げて表情を見ようとしても、周囲が暗いためによく見えない。
「なんで?何もしてないよ。むしろローが疲れるようなことばっかりだったんじゃない?私の家族、容赦なくて…」
ごめん、と続くはずだった口はローの手で塞がれた。
「謝るなよ、嬉しかったんだ。本当に弟が出来たみたいで」
口を塞いでいた手はそのまま横に流れて頬を撫でる。ローの表情は相変わらずよく見えないけれど、声が本当に嬉しそうだった。
「お前のお母さんが、また来てねって言ってくれたのも」
ローのもう片方の手が、私の手に触れて緩く絡む。
「嬉しかったこと、本当はもっと、色々あるんだ。でも、細かい一つひとつが嬉し過ぎて、挙げられねェ」
繋がった手のひらから、ローが言い表せないものが流れ込んでくる気がする。
「気付けば、心地好すぎて驚いた」
「私も、気付いたら、ローが普通に笑ってるからびっくりした」
ふふ、とローが笑う声がする。
ローは、こっちが照れるくらいやわらかく笑っていた。
「―――でも」
「でも?」
ローの額が肩に寄せられる。
「緊張、した…」
強く抱きしめられた。
「……そうだよね、ごめ、」
「謝るなよ、ってさっき言った」
「そうでした」
賢いこの男の前では私の考えてることなんか筒抜けで、意味なんてあまりないのかもしれない。でも、少しでも多く、ローを包むやさしい空間があればいいと思う。
「また、来てもいいか」
「うちでよければ、いつでもどうぞ、」
「ここがいいんだよ」
気付けばすごく近い距離で笑い合っていた。
じゃれるように、くすぐったい甘さがあった。
別になんでもない瞬間なのに、目の前にいるこのひとがひどく愛しいと思った。
9.来る。
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