のぞむ未来を
“死”というものは曖昧で、それをイメージする時はいつも、血の赤が付き纏っていた。
つん と鼻をつく鉄の匂い。空気に触れて黒く変色してゆく鈍い赤。
けれど、これはどうだろう。
千切れたカーテン。散乱した小物。倒れ、踏みつけられたテーブルクロス。割れた食器に抉れた家具。争った形跡がありありと見える部屋の中。
その何処にも恐れていた赤い色は見られない。しんと静まりかえった室内は何処までも冷たく空虚で。ただ、家主の不在を告げるだけ。
────まるで、ほんの一時家を空けているだけであるかのように。
“死”とは赤いものだと思っていた。けれど、血すら流さず訪れた“死”は何処までも静かに冷えきって、ただ事実としてそこに在った。
声が出ない。言葉にならない。
こんなの、認められるわけが無い。
「リリー……ジェームズ」
名前を呼んで、痛感した。
いない。この世の、何処にも。
喉の奥からせり上がって来た悲鳴に似たものをグッと堪え、小さく震える身体を抱きしめてそっと長い息を吐く。ライムはゆっくりと視線を上げて、目の前のドアを見た。開いたままの扉。その奥は、リリーとハリーのいた部屋だ。
あの夜の光景がフラッシュバックする。轟く雷鳴、全身を襲う痛みと怠さ、虚ろな瞳、すり抜けるローブ、胸を抉る激情、悲鳴と懇願、緑の閃光。
そのどれもが生々しくライムの心を引き裂く。体の傷は癒えても心の傷は癒えない。眩暈でチカチカする視界をぎゅっと強く瞬く事で振り払って、ライムは先へ進む。
泣いている暇など無い。泣きに来たわけでも無い。
────私はこの結末を、変えに来た。
「のぞみの、ために」
噛み締めた唇が震える。ドアを開いた先には荒れ果てた部屋があった。誰もいないベビーベッド。衝撃で歪んだ家具と割れた窓ガラス。あの日どうしても辿り着けなかった場所。間に合わなかった場所。命が終わり、物語が始まる場所。
此処が、全てが終わった場所ならば、全てを此処から始めよう。
ライムは部屋の真ん中に立つと、胸元から長い鎖を引き出した。しゃらりと小さく音を立てて揺れる鎖の先にあるのは、確かな質量を持って存在する砂時計。渦巻く金色の砂。生まれ育った元の世界、かつて経験した過去の日々、この時代での大切な思い出。その全てを孕んで瞬く、時の砂。
閉じた目蓋の裏に、鏡の中のリドルの哀しげな表情が浮かぶ。
────迷ったのは、ほんの一瞬。
祈るような気持ちで時計を宙に投げ、ライムはまっすぐに杖を向けた。
ぱりぃぃいん……
ガラスが澄んだ音を立てて砕け散る。
きらきらと、黄金色の砂は何処までも美しく光を放ちながら辺りに広がった。
舞い踊る金色の光の中で、ライムは静かに杖を振るった。
(ごめんなさい、身勝手で)
それでも私は、諦め切れなかったの。
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