耳障りな高笑いが遠くで聞こえたかと思うと、それは騒がしい足音とともにすぐ近くまで迫ってきた。嫌な予感しかしねぇ。手元にある作りかけの粘土にため息を落とす。集中力のほどよく高まっていたオイラだけの静かな空間が乱暴に開けられた扉によって一気に崩れ去った。


「あ、デイダラ聞いて」
「いやだ」
「さっき鬼鮫ちゃんに洗濯物干すの手伝ってもらってたんだけどさー……」


まくし立てるように喋るまつこの気配を傍で感じながら、いますぐ顔を上げて「うるさい」と一蹴できたらどんなに楽だろうかと思う。だがそんなことをしたら即座に機嫌を損ね、しばらく目の敵のように扱われるところまでは容易に想像できる。この前こいつと他愛のないことで口喧嘩したら、一週間くらい三食の飯が混ぜごはん中心だった。それを機にまつこに下手に逆らったらめんどくさいことになるとオイラは学習した。


「目の周り、墨でも塗ってるの?」


鬼鮫の話題からいつの間に話がすり替わったのかと考える余裕もなく至近距離にまつこの顔があってぎょっとした。隣で腰を下ろしているまつこが視界の右端でちらつく。顔を上げて目をよく見せろという超近距離の圧力を感じるが、見せてやるつもりはない。こんな女のペースに巻き込まれてたまるかという意地だ。


「塗ってねぇよ。元々だ、うん」
「ふーん。アイライン引いてるみたい」


ていうか今更すぎるだろ。オイラの目は前からこうだし、そういうのは知り合って大分経ってから聞くようなことじゃないだろうが。

まつこはこういう変な奴だ、とは頭で分かっていても突拍子もない言動や挙動が「こういう奴」の許容範囲をいつもはるかに超えてくる。数日前、皿洗いの間は息を止めるというルールを自分に課したせいで窒息しかけて台所で倒れていた時なんか、あのトビでも突っ込むのを忘れて引いていた。こんな感じだからリーダーですらまつこを持て余している。暁の他のやつらだって、寝顔に落書きされたり風呂に入ってる時にすりガラス越しに驚かされたりしても知らん顔をしている。何をしでかすか分からないからあまり関わらないほうが良いというのが暗黙の了解なのだ。
そんなオイラたちの気苦労も知らないで、まつこは今、隣に座ってオイラを凝視している。何なんだこの不気味な沈黙は。知らない振りを通して創作に集中するも、手に汗が滲んでうまくいかない。くそっ。
しかも、さっきからこいつ、


「ち、近い」
「なに顔赤くなってんの照れちゃって」
「ちげーよ馬鹿! ふざけるのも大概に」


べちゃ、と妙な音がした。まつこが床に手をついた時に、オイラの作品を潰してしまったらしかった。細い指の間から白い物体がはみ出ている。
それを見た途端、自分の中の何かがぷつんと切れた。


「お前いい加減にしろよ! いっつも創作のジャマしやがって、迷惑だって気付けこの電波女!」


しまった。
怒りで拳を握った拍子に自分が持っていた作りかけの作品も潰れた。それだけじゃない、まつこに電波女などと例え本音であっても言ってはならないことを言ってしまった。上った血が一気に引き、我に返ってまつこを見ると両手で顔を覆いうなだれている。さっき潰した粘土が顔につくんじゃないかというまつこの心配よりも、自分が後に何をされるかという不安の方がはるかに勝る。どんな報復をされるのか今から恐ろしい。混ぜごはん一ヶ月とか、そんな非人道的なことはまさか無いよな。止めてくれよ。どうせその両手の奥で何か企んでいるんだろ。どうすればいいんだ。謝り倒したら許してくれるのか。いや、よく考えたらこんな奴放っとけばいいじゃねーか。いつも甘やかすから調子に乗るんだ。いやでもな……根に持つし嫌がらせしつこいしなぁ、うん。


「ごめんね…デイダラに構って欲しくて調子乗っちゃった」


考えつく限りの最悪なケースをあれこれ想像していたオイラは、今、かなり間抜けな顔をしていることだろう。何かの間違いでなければ、この女は肩を震わせてしゃくりあげている。予想してなかった状況に思考が追いつかない。おいおい嘘だろ。泣いて謝るという普通の人間のするような事がこいつにできるのか。

逆ギレされなかったことに拍子抜けすると同時に、曲がりなりにも女に怒号を浴びせてしまったという罪悪感が遅れて押し寄せてきた。それに、構ってほしかったなんて少しも知らなかったぞ。ひょっとしてこいつ、不器用なだけでほんとは構ってほしくてやってた事が全て空回りしてしまってただけなのか。んだよ、調子狂うな。ぶっ飛んでる挙動に圧倒されて全く気付かなかった。今までまつこに対して無下にしていた自分の態度を少しだけ反省する。


「悪りィ…ちょっと言い過ぎた。潰れたやつは試作品だったから気にすんな」


まつこの肩に手を置くと、かすかに何か呟いたのが聞こえた。聞き取れずに顔を近づけると勢いよくまつこの頭が上がってオイラの額に激突した。突然の衝撃で声も出ず痛みに悶えているオイラをよそに涼しい顔をしているまつこ。こいつは何なんだよ。お前は一体何がしたいんだ! くそ、痛てぇ! 額をなぞった指に血がべっとり付いた。


「2分40秒」
「は?」
「デイダラがキレるまでの時間。3分以内に怒らせられるか鬼鮫ちゃんと賭けてたんだー」


粘土に塗れた顔でにたりと笑ったまつこはまた高笑いを上げながらふらふらとどっかへ消えた。部屋から出る直前に棚にぶつかり、飾っていたこれまでのオイラの自信作が盛大に床にばらまかれたのを気にも留めずに。
部屋中に粘土が散乱し、オイラは血だらけ。開けっ放しのドア越しにイタチの野郎が二度見して通り過ぎやがった。

みんな聞いてくれ。やっぱり駄目だあの女は狂っている。

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